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【大慈悲】変なひとたちからの誘惑(後篇①)

 というわけで、変な人ばかりが寄ってくるというか、みんなへんなわけだが、やはり、中でも飛びぬけて変な人というのはいる。

 たとえば、小学校のときの春。みせみせおじさんという人が町にあらわれる。女子生徒にみせるらしい。みせたところでどうなるのか、どうしたいのか、私にはまったく見当もつかないわけだが、女子たちはきゃーといって散る。

 それがおもしろいのかもしれない。逃げる助詞(女子)を追いかけ回すのは、なんだかハンティングのような感じがして、たしかに野趣がある。ちなみに日本文字、現代日本文の要諦は、助詞にある。助動詞も重要だが、助動詞の地位は、ここ千年ほどで、地に落ちるほど、堕らくした。しょーもな。

 動詞とか形容詞、形容動詞、名詞というのは別にどうということはない。ただおぼえればいいだけである。だれにでもできる(外国人もすぐに習得する)。重要なのは、女子(助詞)のつかい方。ここに腕のちがいが、あらわになる。

 事件後、みせみせに遭遇した女子に、みせみせの、みせみせはどんな具合だったかときくと、「昆布みたいだった」といった。

 男がみせみせで女が被害者だとすると、女の場合はわたしが母親ですおばさんというのがいて、男が狙われる。

 ある日、校門のまえで、友だちの弟が、わたしが母親ですおばさんに手を引っ張られて泣いていた。

「あんたの母親はわたしなのよ」

 と、わたしが母親ですおばさんは叫んでいる。

 友だちの弟はパニックに陥り、泣いている。私たちはすぐに助け出した。奪還すると、わたしが母親ですおばさんは、今度は私に、「じゃーあんたが来なさい。育てるから」と大きな口をあけて、言う。

 うわーといって、私たちはS高のグラウンドに向けての急坂を駆け上がって逃げた。

 子どものころの首里は、首里の鳥堀とか石嶺は、こんなかんじだった。

 現代にも、こういう人たちはまだいるのだろうか。みせみせはいる感じがする。

 わたしが母親ですおばさんは、もういないような気もする。おばさんのことを思い出すと、何だか切ないきもちになる。

 どうしてああいう人たちがいたのかというと、はっきり言って、戦争の傷跡だと思う。きっとそうだ。

本稿つづく

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