【早朝雑記速記】笑門来福ということばを25年前に信じるのを完全にやめた
いや、もっと昔から、3歳ぐらいから、信じていなかった。
私はよく笑う。ハッハッハて。対外的処世術として。だけど、笑ってはいないほんとうは。
ギャハハハという笑い声がきらい。
笑いの向こうには、かなしみがある。物理的精神的に傷つき、かなしんでいる人がいる。かならず。
構造的にそうなのである。
私は笑わない。かなしそうな目をしているほうが気分的にはずっとマシだ。
苦しいのがスキ。悩んでいるほうが、普通。四苦、八苦をいつもだきしめている。
箸が転がると、女は笑う。あー、ころころころ。と。うるさいが、その笑い声は好きだ。箸には悪いけど。
心の底から笑うことは二度とないと思う。全然それでいい。
笑う門には福がくる、という。
家族だんらん、談笑。笑い、笑い、笑い。
その中に私はいない。ただ、合わせているだけだ。合わせているだけだが、笑えばたしかに、愉快、痛快である
ただし、その笑いの中には、だれかの涙が落ちている。
子どもの笑顔は好きだ。子の笑顔の向こうには、大人の血と汗、涙がある。
それは全くかまわない。子どもは笑っているのが普通である。
子どもには、いつも笑っていてほしい。心からそう思う。