【中篇】かぞくあたま⑦
私には祖父が二人いるが、どちらも大変な酒飲みであった。
一人はふだん「うん」とか「そうか」とかしか発話をしない温和な、大人(たいじん)の風格を備えた人であったが一たび酒が入ると一変して顔が真っ赤になり大声で色々なことをアビる人であった、或る年の正月、祖父の家に行くとすでにきこしめしておられて、「ジュン、ジュン」と言って追いかけられたことがある、私は兎に角怖くて、怖くて大声で泣きながらその家の急な階段をのぼって二階に逃げたことを覚えている。私は男女を問わず泥酔をする人を見るのが怖いが、その因はこの経験に因るのかもしれない。
この祖父は後年ヘルニアの手術をし、すっかり弱って家に行っても「うん」とも「そうか」とも言わないようになって日がなテレビの前のリクライニング式の籐椅子に横になっていた。そののちベッドに寝たきりのようになり、私が高校生の頃亡くなった。亡くなったのは丁度期末テストの最終日で、私はテストを受けてから、一人高速バスに乗り祖父の家に行ったのである。
もう一人の祖父は、大戦中に内地で招集を受け、というのもこの人は当時、愛知だか滋賀だかに出稼ぎに出ていたのである、そして陸軍に入り、南方の島に出兵したのである。多分、その島はブーゲンビル島であると思われる。多分というのは、本人からのはっきりとした話はなく、私が小学生の頃、授業の課題で祖父母から戦争の話を聞きましょうというのがあって、話を聞いたのだが、祖父の話は明瞭ではなく、これではレポートにならない聞いて損したという思いになったことを覚えている。ただ「ジュン、またもし戦争になったら、絶対に兵隊になってはいけない。別にこの国にいなければならない理由はない。何処でもいい、必ず逃げなさい」とハッキリと言われたことを覚えている、小学生の私はそういう総論のようなことを言われてもレポート用紙は埋まらないのだ、具体的な話が聞きたいのだがと思ったものである。
また、祖母(ブ島に出兵した方の祖父の妻)に当時の話を聞くと、この人はペラペラと話をしてくれて、当時は大阪に出稼ぎに出ており、織物工場的な所で仕事をし、寮に住み、同年代の友だちもたくさんいて、空襲などもあったが人生であの頃がいちばん楽しかったと言うのだった、しかし戦争の頃が楽しかったと言われても、これもレポートにはならないと小学生の私は困ったものである。
祖父母の住む集落は、こぢんまりとした美しい集落で、夜になると真っ暗闇となり、すこし黴のにおいのする慣れない枕の上で聞くのは夜の底に鳴り響く蛙のなき声であった。
この祖父(ブ島に出兵)は生来頑健で学歴は無いが頭も良く、また怪力の持ち主で酒に酔うと暴れて手が付けられなかったという。酔って家に帰ると、危険を察知した叔母たちは床下に隠れ、その妻は箒などで殴られたという、或る日あんまりに暴れるので村の人々も見かねて、しかし誰もこれを止められない、というのも怪力だからである、そこで呼ばれて来たのが村に居る祖父の従姉で、須佐之男(すさのお)のように滅茶苦茶な祖父もこの従姉の話だけは聞き、大人しくなったという。私が知っている祖父は既に年を取り、もう暴れん坊ではなく普通のオジイであったがやはり通常の老人よりも元気で農作業もバリバリとこなしていた、この人は八十を過ぎて或る夜大酔して家の近くで転んで頭を打ち、そのあとはみるみる弱って呆けたり食道がんになったりした。最後に会った時、当時この人は入院していたが、見舞いを終えて病室を出ようとするとめそめそと泣く声がして戻ると子どものように泣いているのであった、「また会いにくるさ」と言って私は慰めたのだが、結果として私は嘘をついたのである。祖父が亡くなった年、私は結納をしようとしていたのであるが、不幸があったのでこれは先送りとなった、火葬場で窯に入れるまえに祖母は「おとう」と大声で叫んで遺骸に抱きつき、大声で泣いたのである。祖父の死後、一人暮らしとなった祖母に会いに行くと色々と祖父の話をするのであった、その頃、祖母は「千の風になって」という歌を気に入り、愛聴していた。
過日(葉(よう)との縁談のあるすこし前の話である)、仕事帰りに石嶺のスーパーで買い物をしていると、偶然父(私の祖父母の子)に会ったのである、ジャージ姿でその顔は殴られたような引掻かれたような青痣があるのである。私はギョッとしてどうしたのと訊いたのである、すると父はウォーキングをしていて序(つい)でに買い物をしているのだ、お前元気かというのである。いやそうではなくて、その顔はどうしたのかと訊くと、父は恥ずかしそうに笑い、先日、守礼(汀(て)良(ら)にある居酒屋)であった模合(もあい)(頼(たの)母子講(もしこう)と飲み会が合わさったような会合)で大酔し、家に帰る途中転んだのだという、道に倒れて半ば気絶するような形となり、偶然通りかかった見知らぬ親切な青年がタクシーを停め、この青年もまたタクシーに同乗して家まで送りとどけてくれたのだという。私は呆気にとられ、いい加減にしないといけないよと言うと、父は、いや、見知らぬと言ったが実はこの青年は汀良の十字路の、昔電器屋だった商家の息子で、この店はお前も知っているだろう、この親というのは知り合いなのだ、後日菓子折りを持ってお礼に行ったと言うのである。いい加減にしないといけないよと私はふたたび言い、父は決まり悪そうにニヤニヤし、その日は別れたのである。この父ももう、いつの間にやら七十六歳になるのである。
このような家族の歴史の、或る年(昭和五十一年・一九七六年)に末裔として生まれ、育てられたのが私である。「うん」とか「そうか」とか言って優しく笑う祖父の葬儀の場では、親戚の誰かれに、
「あのなあ、高校生ともなれば、もう飲んでもいいんだぞ」
と言われてコップにビールを注がれたのである。私の母はぱたぱたと給仕をしながら、この一幕を嫌な顔をして見、「やめなさい、阿保か」という風に目配せをして親戚の誰かれを牽制した。
「いいんだよ。だが、外で子どもだけで飲んではいけないよ。飲み方なんか分かるはずもないのだから。家の中で飲みなさい。きょうはいくらでも飲んでいいよ」
と言って親戚の誰かれは自分のコップのビールをグイと呷って喉をごくりと鳴らしたのである。
十六歳の私はコップのビールを少しく啜り、勿論味など分かるはずもなく、もっと小さな頃、父のコップに入っていた酒(泡盛の水割り)を口にした時の不快な嗅覚・味覚の味(み)蕾(らい)の記憶を思い出していたのである。
このような血筋の末端にあり、このような育てられ方をした私には、酒を飲まないという選択肢は無かった。これはあまりにも長いこと慣例として行われている事柄に関することであり、まるで未来永劫続くような人類の悪癖のようであった。
私は仕事から帰るとすぐにまずハイボールを飲む。サントリーの銀色の缶である。そののち金色のハイボールを飲む、飲み干すとその頃酔っている、これらを飲みながらおかあのトイレを介助し、夕食の用意をする、その他のこまごまとした家事を済ますのである(葉の嫁入りの前の話である)、そしてそののち泡盛を水割りにして飲む、あるいはウィスキーをロックに、もしくは日本酒をひやで飲む、酔いを確実なものにして、それから風呂に入る。
風呂上りにビールを飲む。ごくごくと飲む。おかあの薬を作る。おかあの夕食の卓を調える。ついでに飛(トビ)助(スケ)の食事の用意をする。ある日は猫が嘔吐する、猫トイレの砂を散らす、これらを片付ける。
食事が終わったら、汚れた食器を片付ける。洗濯機を回し、おかあをトイレに連れて行く。
私は兎も角酒を飲む。もう子どもではないが、「家の中で飲みなさい」と言う親戚の言葉をいまだに守るようである。
「おじいはあの夜、狐にたぶらかされたのだ」
と、祖母(大戦中ブ島に行った祖父の妻)は言っていた。この話を聞いたのは、私たちの家族(おかあ・飛助・私)が東京を引き上げ、沖縄で暮らすようになったある日のことだと思う。
祖母は言った、飲み会はムラの納会で、公民館で行われた。この公民館というのは祖父母宅のすぐ近く、徒歩一分ほどの所にある。
おじいはチュラーク(すっかり)酔っぱらって、千鳥足となった、そして帰りの夜道、歩いても歩いても家に着かない、なぜなら狐がだましているからだ、おじいは道を曲がった、曲がった先には家があるはずであった、しかし曲がると家からは離れた、昔JAの販売所があった辺りの道を歩いているのである、おじいは不思議に思いながらも祖母の実家ハーニガー(蜜之上)を右手に見て歩き、自分のイームトグワー(伊素小、すなわちじぶんの本家である)を右に見て道を曲がり、歩いて、歩いて、ようやく自分の家の門柱が見えたのである、と、そこでいきなり黒い影が風のように近寄ってきて、おじいは転んで頭を打ち、あとは何もわからなくなったのである。
「このシマ(集落という意味)には悪い霊がいくつかいる」
と祖母は言った。
「おじいはその悪い霊に、わるさをされたわけさ。ジュン、夜の道を歩くときは、気をはっきりともって、けして油断してはならないよ。世の中には悪い人がいるだろう、それと同じように、悪い霊もいるわけさ」
この祖母は霊の存在を深く信じている人で、祖父の死後、一人暮らしをしているときは枕元に鋏を必ず置いていて、夜中、ふと目覚め、悪い霊が家の中にいるのを感じると、鋏を片手に部屋から部屋へ歩き、「出てこい、切り裂いてやろう」と唱えるのである。そうすると悪い霊は恐れをなして家から出て行くのである。
この祖母の姉にHという人がいて、この人は神女(ノロ)であった。ノロというのは霊能力者のような人で、シマ(集落)を越えた辺り一帯の霊的な指導者である。
歴史的な話をすると、昔からこの島にはノロという女がいろいろと居たようである。琉球王国時代、王の妹だか姉だか、王族につらなる女人が聞得大君(きこえおおぎみ)という役職に就き、この聞得大君は各地のノロの最上位、王国の霊的指導者となった。
王国はこのとき各地のノロを整理し、ここの地区にひとり、ここの地区にひとりというようにして決めて管理したようである。祖母の姉のHは源河ノロという神女であった。
このノロは世襲ではないそうだ。ではどのようにして後を襲うのかというと、西蔵のダライ・ラマの後継ぎのようにして、それぞれの地区で自然に生まれるのだという。
祖母の姉のHはある時子どもを産み、産んだあとに変になった。産後うつのようなものではなく、家を飛び出してわーっと大声を挙げて畑の畦道を全力疾走したり、意味不明な言動をなして暴れたりした。発狂したのである。
祖母の実家では、このような狂人がいては地域の迷惑だし、世間体もあるしということでHをドラム缶に入れて閉じ込めるようにしたという。Hもドラム缶の中で大人しくしていたという。
また、Hは食事を与えても食べなかった。しかし仏壇に捧げて浄めた白飯だけは食べたという。
このようにして生き、ある日、Hは「〇〇はどこ」と言ったのである。〇〇というのは発狂する前に産んだ子の名である。この言葉をきっかけにするようにしてHは正気に返り、また霊能力を身につけたのである。
この島では女が霊能力を身につけるということが往々にしてあるが、Hのような過程が典型的である。不幸、あるいはその他の何かをきっかけにして発狂する、そして正気に戻る。戻ったときに霊能力を得ているのである。戻らないときもある。その場合は狂人のままである。
祖母は姉のHを深く崇敬し、その言葉を何でも聞いた。ときに神がかりのようなことを言うので、私の父はこれをうるさがり、「あのなあ、この現代の、科学の時代に、また、何を、馬鹿なことをいうものじゃないよ」などとその母の蒙を啓くように弁舌をなすこともあった。
私の母(祖母の義理の娘)は、「いいさ、年寄りの、好きなようにさせなさい」などと言って父(祖母の長男)と口論するようなこともよくあった。この母もときにユタを買ってアドバイスをもらったりするような人であった。ユタというのは、これも霊能力者であるが、職業的な霊能力者である。霊的指導の対価に金を貰い、これで食べている人である。神女(ノロ)は職業ではない。それは自然なような感じで、成る者である。
私はHに何度か会ったことがあるが、確かに不思議な人であった。体色が白かった。この人は普段ハルサー(農業を為す者)であったが、いくら日を浴びても日焼けしないということであった。目が大きく、大人しい人であったがときに人を射抜くような発言をした。
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