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【随筆】村上春樹「納屋を焼く」と韓国映画『バーニング』について

 村上春樹さんの小説が嫌いである。村上春樹さんは文章がうまい。可成りうまいと思う。うま過ぎるということもなく、謙虚で、あくまでもうまさに留まっており、非常に上質である。

 文章がうまいというのは文人の魅力のひとつである。

 太宰治もまた文章がうまい。読んでいると陶然となり、涎が流れるほどうまい。その小説の書いてある内容は普通で、とくに言うことはない。暗い話もある、しかし、もっと暗い話はこの世に幾らでもあるのでそれらは別に読まなくともよい。「ロマネスク」「魚服記」「逆光」という作品があり、「お伽草子」という作品もある、これらは最上(さいじょう)の文章である、「津軽」という、親きょうだいや親戚に散々心配をかけた人迷惑な男が故郷に帰る紀行文のようなものがある、これもまた最上である。

 太宰治の文章が好きで、村上春樹さんの文章は嫌いである。どちらも文章のうまさは非凡である。それでいて好き嫌いが分かれるのはひとえに趣味の問題だと思われる。だが。

 しかし、趣味だけでない原因・理由もあるのかもしれない。と考えている。

 村上春樹さんは人気作家で、作品が出れば話題となるし、本も売れる。村上春樹さんは現代日本の国民作家である。ご本人はそんなつもりはないとおっしゃるかもしれないが、現象としてそうなっている。

 国民作家の文章は、当然のことながら国民を創る。ご本人はそんなつもりはないとおっしゃるかもしれないが、現象としてそうなる。

 作家、あるいは文人というのは自分で思っているよりも遥かに大きな影響力を同時代に、あるいは後世に及ぼすものである、その自覚のありやなしやに関わらず。

 村上春樹さんの小説は売れる。ここまで売れ、ここまで読まれる文章は稀である。この現象において、村上春樹の文章は国民を創ってきた、国民を教え導き、その蒙を啓いてきた。

 批判を先に言っておくと、この現在の(令和六年現在)、無責任・無自覚・当事者意識皆無の大人ばかりとなった現世をつくった因は、勿論すべてとは言わないが村上春樹の小説もその一翼を担っていると考えている。

 国民作家の文章は、国民を創る。村上春樹にその自覚があるのかないのか、それは知らない。しかし国民作家の文章は国民を創り、教え導き、その蒙を啓く。

 自覚のありやなしやはさておく。村上春樹がその小説において、その責を果たしているとは到底思えない。というのが本稿のおもな、主張である。村上春樹の小説は、或いはその登場人物たちは、結局自分勝手で、拗(す)ね者で、被害者意識が強く、公共の福祉は二の次にして、現実を逃避し、それぞれ勝手に墓場を作るような輩(やから)だと思う。そんな輩を、都市に住む孤独者みたいな普通の人を、美化するみたいにして描(えが)いてはいないだろうか。この美化を温床にして、梅雨時の黴(かび)みたいに無責任・無自覚・当事者意識皆無が全国津々浦々に広がった有様がこんにちの、大日本帝国のあとの、この国ではないのか。

 というのが問題提起である。

 つぎに根拠を示さないとならない。なので次にいく。


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 言い訳ではないが(言い訳であるが)、近年の村上春樹さんの作品は読んでいない。理由は読むのが苦痛だからである。私は読者としては三流、四流で、読むものを真に受けるような仕方でしか読書をできないので、生理的に受け付けないような文章を読むことはできないし、短い人生、そのような時間も暇もない。

 なのでここで論じられる、というか偏見みたいな偏見は初期の村上春樹さんの、初期の作品についてのものである。私は初期の、しかもごく一部の作品しか読んではいない。なのでおおくの反論があるだろうと思われる。近年の作品は違うのかもしれない、或いはやはり三つ子の魂百までなのかもしれない。それらの判別は私にはできない。なにしろ私は春樹文学のごく初期の、ごく一部のものしか読んでいないからである。


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 ここで取り上げるのは「納屋を焼く」という短篇小説である。なぜこれを取り上げるのかというと、この作品を原作とした韓国の映画の『バーニング』という作品があるからである。

 この二つを比較し、この二つの決定的な違いを論じる。

 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちていない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は歳をとりつづけていく。
 夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

「納屋を焼く」村上春樹

 
「納屋を焼く」という小説の主な登場人物は三人、「僕」「彼女」「男」。

「僕」が主人公。小説家。音楽に詳しい感じ。

「彼女」ヒロイン。パントマイムの勉強をしながら、生活のために広告モデルをしている。収入の足りないぶんは、何人かいるボーイ・フレンドにたよっている。

「男」貿易の仕事をしている。若くてまあハンサム。金持ちっぽい。彼女のボーイ・フレンド。「納屋を焼く」のが趣味。納屋を焼くというのは文字通り納屋を焼くわけだが、おそらく殺人もしている。おそらく、男は彼女を殺している。

 こういう話である。

「彼女」はある日、消える(私の読んだ限りの春樹作品でよくあるパターン。女たちはある日、理由はようわからんが、消える)。「僕」と「男」はある日話をする。「納屋焼きまんねん」「え、なんで?」「他人の納屋ですわ。焼いて、すぐ逃げて、遠くから双眼鏡で眺めますねん」「ふーん、キモ」という会話がある。

「納屋を焼く」というのはメタファーで、おそらく男は本当に納屋を焼いているのだろうが、どうじに人(女)も殺している。「男」は「彼女」を殺しているし、「僕」はそれに気がついている。

 そして「僕」が何をしたかというと、上記に引用したように、「走っている」「歳をとりつづけている」「時折焼け落ちていく納屋のことを考えている」。

 そんだけ。終わり。しょうもな。どないやねん。

 韓国映画『バーニング』は「納屋を焼く」を原作としている。再現度は見事で、春樹ワールドをそのまま映像化している。春樹ワールドが嫌いなので、観ていてイライラ、イライライライラする。とくに「彼女」のキャラクターが嫌で、エキセントリックで「こんな女、ほんとうにいるの? いねーよ。バーカ、アホ、カス、ボケ」と思いながら観る。

 ところが後半、『バーニング』は面白くなる。オチになるので書かないが、小説版と違って、「僕」はきちんと行動するし、落とし前をつける。ちゃんとオチがあるわけである。

 さすが韓国映画だな、と思った。原作とは雲泥の差がある。あるいは現代の、韓国人と日本人の気質の違いかもしれない。どちらをとるかといわれれば、無論『バーニング』である。そんなに好きな映画ではないが、原作よりはるかに、ずっとずっと、マシである。

 ちなみに、村上春樹さんの『アンダーグラウンド』(ノンフィクション 1997 講談社)はとてもよかった。よい仕事をされている、と思った。

以上

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