【金】セツメーしても誰にも通じない、わたしのお金の感覚について
さきほど、ユニオンに行ってきた。ユニオンというのは沖縄のスーパー。年中無休24時間。普通、台風が来ても営業する。ユニオンが閉店した場合、今度の台風は災害級レヴェルであるということを意味している。
わたしの、お金に対する感覚は、へんらしい。自分では論理的、合理的、人道的、経済的にみて、なんの問題もないと考えているのだが。妻に説明しても「はあ?」ってかんじ。何度もセツメ―したが、二度目からはまともに話をきいてもくれない。ほんとに。無視される。
ユニオンでわたしは、マルタイ棒ラーメンを買った。いちおう値段をみると、126円であった。二食入り。やすかったから買ったのではない。ひさしぶりにマルタイ棒ラーメンが食べたかったから、買った。
126円。わたしにはこの数値の意味がわからないし、わたしには何の意味もない。カンケ―ないということ。仮にこの商品が126兆円だとしても、わたしにとっては何ら違いはない。
いちおう、ルールにのっとって、現金、クレカ、ペイペイなどで支払いをするし、会員アプリとかいうのにポイントもつける。それがルールなんだろ? じゃあ従うよ。ってかんじ。
ユニオンにある商品は、いろいろと値段があり、種類があるが、これらはすべてわたしの物である。必要であれば、わたしは常に、いつでも、これらを手に入れることができる。本来は、金を払うひつようはない、とわたしは考えている。なぜならわたしの物だから。お金を払うのは、あくまで、仮のルールにしたがっているにすぎない。
ここらへんまで、話、ついてこれてますか?
正直不安ですが、つぎにいきます。
なぜわたしがこのように考えるのかというと、商品に価値があるように、わたしは自ら、ひとりで、価値を生み出すことができるからだ。コスト・ゼロで。言葉や、文字、音、図形をつかって、わたしは価値を生み出すことができる。
これらの価値は、無尽蔵である。時空を超えるし、のこる。いつのまにやら消えてなくなる公文書などとはちがい、電子的に拡散されたり、印刷されたり、記憶されたりして、いつまでも残り続ける。物理的に消えたとしても、物理的に消えない。ばとん・たっちされて、子々、孫々につたわる。永久に。
だから。そういうタイプの人間にとっては、お金というものは、まったくとは言わないが、木の葉ぐらいの価値にしか思われない。
本来は、わたしがたとえば道ばたの植え込みから落ちている木の葉をひろって、これをレジスター係に渡して商品を受け取る。
これが、あるべきすがたなのだと、わたしは考えている。本気で。
言ってること、へんですか?
馬券を買うので、ここらへんで一旦話をおわります。