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【連載小説 短篇予定】美の骨頂㊲MILKと弥勒はほぼ確実に語源がいっしょです
この話は、2026年現在のうちが、ウィンストン・チャーチル風に回顧して書いているわけですが、この2年前にうちらが辻のラブホでいちゃついているある日の夜、えらいことが世の中では起こっていました。
どういうことかというと、要するに、誰かを傷つけたり死なせたりしても、民主主義の世においてゆるされるということでした。
ちなみにこれは、目新しいことでも珍しいことでもなく、以前にはよくあったことだし、何度も似たようなことが繰り返されています。なので別に、あらためてアレしなくともよいと思います。
ちょっと話を忘れたのですが、正直、うちとなっちゃんとエーリー先輩が散々あれをして家に帰ったのは22時を過ぎていました。
帰ると、うちのおとうとおかあが言い合いをしていました。
「あのな、これが猫民主主義の始まりなんだよ!」
「は? あんたこの頃なにしとるん? どこに居るわけ、墓場か?」
「は、あ~ん? 何が、黒で、何が白かという普通のことをひとびとにおしえて回ってるんだろうがよ」
「はあ? 普通にはたらけよ」
「はいはい、はい。この、ストーリーが、終わると思ってるんだな、おまえは、馬鹿馬鹿しい」
「え、なんこんひと」
「生々流転。写真屋はつけ麺屋に。加勢大周はシン・加勢大周に……」
おとうの話は続きました。
親と子は似ている。DNA。保険に入るとき、親族のガン患者の有無を訊かれる。先祖を辿ると、似たような人がいる。鳶が鷹を生むこともあるがどちらも鳥類である。蛙は蛇をうむことはない。どちらも爬虫類だが。白黒写真や肖像画を見ると、ぶっちゃけ似ている。顔が。骨格が。
「それなのに、それで……よくも……」
人生が一度きりなどと、よくも言えたものだな
生まれ変わりがない、わけがない。転生が無い、わけがない。
残ってます。記録されているし、記憶されている。形のないそれらが消える道理がないし、殺すことも死ぬこともできない。
生命体がそれぞれかけがえもなく、一度きりの生をいきているのだとしたら、なぜこのように、延々と同じことが繰り返されるのか。
有り得ないことが起きているのか、或いは「一度きり」だからこそ何度も同じことがくりかえされるのか。
たとえば、高校一年生であるのは一生のうちに一年だけだから、誰もがそのように振る舞うのか。
高校二年生であるのは一生のうちに一年だけだから、誰もがそのように振る舞うのか。
高校三年生であるのは一生のうちに一年だけだから、誰もがそのように振る舞うのか。
「あーあーあーあーあー高校三年生」と歌って、ほとんどだれもが似たようなことを思い出すのは何故なのか。
「おれはもういい大人だ。いいか。そうじゃなかった実話を集める。そうじゃない思い出もあるんだ。歌の網からこぼれた、しかし現実に、じっさいにあった説話を蒐集する」
まずは、宇治からはじめる
おれは旅立つ。北へ向かう。
「サイの角のようにただひとり歩む」
と言って、おとうは若狭大通りの方に消えて行きました。
本稿つづく