【中篇】かぞくあたま⑤
葉(よう)のいる生活は、まるでAIが人類がこれまで負っていた労働の49パーセントを為すというような生活であった。私は実に四割九分の難儀から解放されたかのようであった。
朝起きて、おかあが目覚めるのを待って薬の用意をしなくてもよくなった、これは葉がやるようになったからである。そして、おかあと飛助の朝食を用意する必要もなくなった、これも葉がやるようになった。コーヒーの用意も葉がした、汚れた食器の洗浄も葉がした。
私の朝は詩作に集中できるようになり、葉が淹れてくれたコーヒーを飲みながら詩作にうちこみ、時計を見、ぱたぱたと動く葉を見ながら、詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの/それは非文化的な文明だった、などといった正気の時間を保つ時間となった。
私は何よりもこの朝を愛した。葉の居る朝が毎日待ち遠しかった。
八月、私たちはJ(おかあ)の生れ故郷に旅行をした、そこは飛助の生れ故郷でもある。
F県の義父母は、はじめ金髪の葉(よう)を訝しげに見ていたが、すぐに、阿(あ)っ蘇(そ)というようにこれを受け入れた。私たちはF県北九州市から別府市に電車で行き、そこでレンタカーに乗り換えて久住にのぼり、山荘で夏の数日を過ごしたのである。
この山荘は十数年前から利用していた、私たち家族にとっても思い出の深い場所なのであった。
昔、まだおかあが病(やまい)を得る前、おかあは三十代になってから始めた長距離走で、生まれもった才能をみるみる発揮し、四十二・一九五キロではおさまらず、さらに長距離のウルトラ・マラソンなどもやっていたのである。その頃、おかあはこの高原に旅行に来た際はトレーニングをしていたのであった。
百キロを越える道程を、マラソンしようなどとは、正気の人間がやることとはとても思えないが、おかあはやったのである。沖縄の百キロマラソン大会にも参加し、確か二、三度は完走しているはずだ。日も暮れてゴールである与那原の公園に迎えに行くと、流石のおかあもよち、よちと歩くようになり、そば屋に連れて行くと、殆ど食べられないでいたのである。あの鉄の胃腸を持つおかあがである。私はこのようなスポーツは馬鹿がやるものであり、己の体を酷使し過ぎてそのうち体を壊すのではないか何故こんなことをわざわざフラーアラニ、と不可解な思いを禁じ得なかったのである。
この頃からおかあのマラソン熱は物狂いのようになった。おかあの超・長距離への適性が人の目にとまり、有名なチームから声が掛かった。
或る年(二〇二〇年)のおかあの誕生日、儀保のやきとり屋で家族の宴が開かれ、そこでおかあは、願いがある、と言うのである。ゆくゆくは、わたしは、ギリシャのスパルタスロンに出たいと思っている、ウルトラ・マラソンにももっと本格的に、競技として向き合いたい、と。スパルタスロンというのは制限時間三十六時間、走る距離は約二百四十六キロである。
あのなあ、と私は思った。
練習は、金曜の深夜、また土曜の深夜に走り始め、翌朝八時頃まで走り続ける、とおかあは言うのである、できれば他の日も一日ぐらいこのような練習がしたい、と。
どこを走るのだ、と問うと、
漫湖公園か、南南東医療センターの周辺をグルグル回る、という。
深夜に、女人がひとりで、何かあったらどうするわけ……私は何かもう変態のようになったおかあが怖いような恐ろしいような感じもするのである。
そもそも、飛助はまだ小学生で(当時は小学五年生であった)、その母が何かに取り憑かれたように走ってばかりいては、家族の治安も悪くなるのではないか、このようなスケジュールでは、家族の週末もなくなるではないか、というようなことを理由にして、私はこの時、おかあの願いを却下した。
やきとり屋からの帰り道、おかあはトボトボと、牛歩のようにして歩くのである。この日はめかしこんで、赤い革靴を履いていた。その赤が夜道に映えていた。私と飛助は立ち止まり、おかあが追い付いてくるのを待った。近づいてきたおかあは、めそめそと泣いているのであった。
この夜のことを思い出すと、私は胸がちく、ちくと痛むような気持ちになる。許してやればよかったと後悔するようである。だがしかし、どちらにしろおかあがスパルタスロンに出場することはなかったと思う。このときすでにおかあは筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病を得ており、すこしずつ進行もしていたのである。この事実に私たちが気づくのは、翌年の春のことである。
久住の山荘にはバリアフリーの部屋があり(立派な心遣いである)私たち四人家族はそこに寝泊まりした。
車椅子のおかあを葉(よう)は何かと世話した。風呂も葉とおかあは一緒に入り、排泄の介助は私と葉が交互に行った。
義父母もくわえての食事の席では葉がおかあの世話をした。これには義父母も、有難いというような目でその様子を見るようであった。おかあもいるので、というか義父母も年老い(特に義父は年老いたように見えた)、久住山系を登るというようなことはせず、もっぱら車で行くことのできる遊興施設に行ってみたりするほかは殆ど山荘に居て、温泉につかったり、肉を焼いたりなどして夏の数日を過ごしたのである。
私はその数日を、叙事詩を一つ仕上げ、また書き上げた短篇小説の推敲をするなどして費やした。持って来た本もゆっくり読んだ。
山荘の窓から見える久住山は、ある日は背景に夏の青い空ばかりとなり、またある日は終日ガスをその身に纏い、また次の日は早く流れる雲の間隙(かんげき)にその御顔を明らかにし、また雲に隠すというようにして私たちを見下ろしていたのである。
それを見上げて、私は本当に、葉と結婚してよかったと、心から思ったのである。