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【連載小説 中篇予定】愛が生まれた日㉒帝王切開、器用貧乏…Suck My Kiss
由希子から渡されたマスクをして、ビニールの手袋をする。手袋をしてから消毒薬をたっぷりつけて手もみをする。由希子に指示された。
人を殺すかもしれない。この手で。
寝ているのか気絶しているのか、何も言わない腹の大きい女と。
まだ陸の世界の空気に触れたことすらないわけのわからない生き物。この生き物は大きな、ふくらんだ腹の中にいる。これを取り出さなきゃならない。そうしないと母子ともに死ぬ。
人が死ぬんだ。
落ち着け、JJ。この状況、状態では普通死んで当然だ。さっきニュースのテロップでも見た。通り魔。入院していた妊婦も被害に遭った。掃除婦のなんとかさんも。医者も重体だ。
ここ、今ここにある現象はあくまで偶然だ。不幸中の幸いであり、禍福はあざなえる縄みたいなものだ。
ここから先のエピソードには、おれは何の責任もない。何があってもおれのせいじゃない。
言い聞かせる。きかせるのだが手の震えがとまらない。雪子(おれの妻)を見る。雪子はじっとこちらを見ている。二つのこぶしを握りしめて、胸の前で合わせている。
「あんたは器用貧乏だから」
という声がきゅうに浮かんで聞こえた。お母さん、おれの母親の声だ。
「あんたみたいに何でもできる子は、そのうち損をするよ。何でもできるから、何も極めることができない。勉強しなさい。もっとちゃんと、本気で勉強しなさい」
たしかに。
と思う。おれは何でも人並にというか人並以上にできる。理由はわからない。料理だって、お母さんよりも雪子よりもうまい。誰に教えられたわけでもないけれど、料理の要諦というのが身に付いている。しかしそれはおれの責任ではない。生まれつきそうなんだから。
「何も極めることができない」
そう。その通り。おれはとくに何をしたわけではないし。三十一年の人生において。生き過ぎたのではないかとも思う。女を騙し、社会を欺き、誰の役にも立たずに生きてきた。ただ生きただけ。
併(しか)しピンチはチャンス。
今こそ、おれがおれであるという、おれにしか出来ないという、あれ。
何だっけ。生まれてきた理由。
お母さんはおれを生んでくれたし、お父さんも、親戚の人も近所の人も、みんなおれを可愛がってくれた。妹たちは常におれに従い、左のものを右といえば右といい、黒を白といえば白といってくれた。
雪子には頭が上らない。わがままで、何度もヒモ、禄でなしなおれと結婚して11年、何の文句も言わず(文句はいわれたけどしかし)離婚もせずいっしょに居てくれた。
この恩に報いるのは今じゃないのだろうか。
言い聞かせるが、手の震えはやまない。というか沸かされた湯と大きな鍋から立ち上がる湯気。強い酒の壜。これって何かに使うのかな。演出なのか。
「JJ」
と言われて由希子からメス(刃物)を渡される。
震え。足まで震えてくる。ごめん、やっぱ無理。無理だよ。無理。かたつむり。
と言おうとしたときに音がする。音楽。
ギターを絞る音。人の声。ギターとベース、ドラムがどらどらどらと流れ出す。
つよくぶって
レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「Suck My Kss」だ。
見回すと、ユキノシタのスマホの表面が光っている。着信。
スタンガンだよ そこにある きをつけて
おうべいびー……
わたしをぶって あなたができるだけのつよさで
Suck My Kss
おれは電話に出た。
「もしもし」
「あ、あんたか。ユキはどうなってる?」
「ゆきむらさん?」
「そうだ」
「早く来てください。何してるんですか」
「うん。はい。……今、警察にいる」
「え?」
「もしかしてだけど、あなた弁護士だったりする?」
「え。ちがいます」
「だよな。はは」
「ゆきむらさん、兎に角今すぐ来てください。駅を出てすぐ左にあるスノー・ガーデンというカフェです」
外は暗くなっている。パトカーのランプの赤がより赤くひかっている。
本稿つづく