【連載小説 短篇予定】文をだきしめて②
鳥堀の実家は築40年ぐらい。そもそも作った建材が安いのでボロボロであった。縦に長くて、5DK+居間。トイレふたつ、風呂ひとつ。3人と一匹で住むには広すぎた。
猫にとっては楽園である。ヴェランダも東南向きに二十畳ほどのやつと、南側に細長いのがある。この中の部屋とかへや、押し入れ、棚、ヴェランダなどを自由自在に行き来していた。ねこが。
玄関が開く隙を狙って外にも飛び出した。これが厄介で、半日探したこともある。子どもの友だちがよく来て開け閉めするので、そういうときによくいなくなった。
猫とか犬というのは認識できる範囲というのがあって、それがどれぐらいなのかはわからないが、この半径だが直径をちょっとでも外れると何もかもわからくなるらしい。町にはよく迷い猫や迷い犬、或いは迷い鳥などの貼り紙があるが、これはそういう理由である。
九十年代、うち(鳥堀)にはジャガイモという柴犬がいて二十年ちかく飼っていたが、ある日何処かに行ってそのままになった。随分探したらしいが見つからなかったらしい。
というわけで、この幸福(猫の名)の外出については神経質になっていたのである。
というか祖父母(子の、この家の所有者、いまは家を出ている)は幸福については無頓着というか邪魔者のように思っていた。子猫の時分は石を投げて幸福を追い払おうともした(祖母が)。
後年、この家を出て次の棲家を探している際、ペット可の物件がすくなくて往生していると、
「ちょうどいいさ。捨てたらいい」
と祖父は言った。
8年も一緒暮らした幸福を捨てるとか、言語道断である。ジャガイモのことはあんなに探していたくせに。
人というのはひとの気持ちがわからない。永遠に。たとえ家族だとしても。
話は変わるが人の寝言を聞くのが苦手である。ゾッとする。
「もう一杯」
とか、
「もっとちょうだい」などと言う。
詳細は忘れたが妻は寝言で「もういいっちゃ」的なことをいっていたことがある。何がもういいのか。
寝言というのは起きているときの人格とは全く別人になるようで怖い。
おまへ、誰? と思う。いつも一緒に暮らしているひとが別の次元におる。それがこわい。
ちなみに森鴎外の死に際のことばは「馬鹿馬鹿しい……」というものであったらしい。すぐらりんどやー、と思う。『舞姫』の、あの何とかいう女が聞いたらどう思うのか、手前勝手も甚だしい。
カントは「すべてよし(エスト・グスト・イスト)」と言ったらしい。どこがよ。自分さえよければそれでいいのか。張り倒すぞ、ちびの痩せたガキが。
信長は「人生五十年」と謡って舞ったらしい。適当なことを歌うな。それはおまへのことだらふ。もっと早く死ぬ者も、もっと長く生きるものも幾らでもいるわ。尾張のうつけ者が。
それはさておき。
Life is go on.
救いのない現世は紡がれて、魚獣鳥二本足がきょうも生きている。軌跡のように。
本稿つづく
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