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【読書記録】「舟を編む」三浦しをん
初め読んだ時に感じたのは、以前友人に借りて「羊と鋼の森」を読んだときに覚えた感触だった。自分になかなか縁のない仕事を紹介する小説は、なぜこうも序章を読むだけで心躍るのだろうか。まだ就職すらしていないのに勤労というものに対してまるで意欲が湧かず、金のために働かざるを得ない資本主義に変わる新しい経済システムが閃かないかとウサギの当たったことがない株を守っている自分が、何か虚しいようなものに思えてくる。
辞書というものを民間の会社が低予算で作るという実情も、決して楽しいものではないが側から見ていて安心する。国家予算ではなく私人が「舟を編む」意義も説かれている。
公金が投入されれば、内容に口出しされる可能性もないとはいえないでしょう。また、国家の威信をかけるからこそ、行きた想いを伝えるツールとしてではなく、権威づけと支配の道具として言葉が位置付けられてしまう恐れもある。
(中略)
言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とは全く無縁な、自由なものです。また、そうであらねばならない。自由な後悔をするすべての人のために編まれた舟。
(p226)
オックスフォード英語大辞典や康熙字典のように国費で編纂される(た)辞書があることを思い起こさせる一方で、辞書とはそのようなものであっていいのかという信念を問う疑問を再び投げかけるという、終末の谷のナルトとサスケを見ていた頃の気分を思い起こしてしまった。
松本先生の病状について読んでいる途中は「本題とはあんま関係ないとはいえ、こんな雑なブラフでいいんか?」と侮っていたが、終盤の回収テンポが予想を裏切るもので、いい文章書くなぁと感心してしまっている。
話の中で特徴的なシーンで観覧車が登場するのだが、観覧車とはどういう乗り物なのか、その描写がいやに刺さったので紹介したい。
香具矢は窓の外に視線をやったまま言った。「楽しいけど、少し寂しい乗り物だといつも思う」馬締も、ちょうどそう感じていたところだった。こんなに狭い空間に一緒にいるのに、いや、狭い空間にいるからこそ尚更に、触れ合えず覗き込めない部分があることを痛感させられる。地上から離れて二人っきりになっても、一人と一人だ。同じ景色を見て、同じ空気を分け合っても、融けて交わることはない。
(pp 70-)
小学校に入っていたかすら定かでない頃に祖母に乗せられたのを最後、このかた10年以上観覧車なんてものには載っていないが、どうも共感できてしまう。この哀愁は一体どこから湧いてくるのだろうか。