【読書記録】「7つの階級 英国階級調査報告」マイク・サヴィジ 舩山むつみ訳
帰省した際に寄った本屋で平積みされていたもので、高額だったため買わなかったが、非常に読み応えのあるものだった。2011年から実施された英国階級調査のデータを解析し、社会学の知見と合わせて研究したもの。本書の議論の根幹として以下のように述べている。
かつての階級論争では職業を基本軸としていた。高度な職業の人は裕福で教養もあり出世や権力に結びつく人脈も強い、逆も然り、という具合にである。しかしその点にはこの調査によって疑問が投げかけられている。
本書の最も革新的な部分は、階級を定める指標として過去の議論で用いられてきた職業ではなく、経済資本・文化資本・社会関係資本という3つを採用したことにある。
中層階級の厚み
3つの資本という指標の提示よって、まず第一に今まで考えられてきた上流→中流→下流という一次元的な階級理解ではなく、より重層的な階級の様相を見出すことができた。3つの資本を全て持つトップ層でも、3つの資本のいずれにも乏しい底辺でもない、いわゆる中間層の人たちが、どれだけ重層的で幅広い階級を構成しているかがわかるというべきかもしれない。
ここではトップでも底辺でもない人を「中層」と呼ぶが、本の中では「中流」と「労働者」という言葉が用いられている。中流と労働者を分ける形の階級構造はイギリスのエリートの政治的な経緯が関わっている。
つまり階級という概念に固執するのは、エリート(専門職や経営者)がそれ以外の人との差異を明確にするためと捉えることができる。実際、選挙権の拡大によって貴族による政治が危ぶまれたときに、エリートをジェトリーと呼んで自らの陣営に引き込むことで政治的な立ち位置を保とうとしたという事実がある。
この中層の人たちに共通して言えることとして、「自分は標準的な階級にある」ということを強調する。それはお世辞にも裕福とは言えないような生活をしている人から、収入が国民の上位10%に入るような人たちに至るまで当てはまる。
この態度の心理は後に言及するが、話はこれだけでは終わらない。中層の厚さを強調すれば、同時に上下両端の階級がいかにかけ離れたものであるか、影が立ってくる。上端については3つの各資本を個別に言及するときに同時に見てみたい。それよりも我々が直視しなければならないのは、底辺のクラスである。
中層階級が多額であれ少額であれ固定給を安定的に手に入れることができるために、そして安定した収入を手に入れられない人へ侮蔑の目を向けて向き合おうとしないために、この本で「プレカリアート (precariat; precarious + proletariat)」と呼ばれる日々の暮らしに困窮する階級が、最底辺から脱出できないシステムを構造化してしまっている。
階級の継承
階級の指標に3つの資本を導入した結果として、上記のような中層階級の厚さの他に、階級は上の世代から受け継ぐものであるということを強調できるようになった。経済資本で考えるとわかりやすいが、資本は親から子へ、子から孫へと相続することが可能である。一生のうちに資本を増やすことはできるが、スタート地点は生まれながらにして変えることはできない。これが文化資本・社会関係資本にも成り立つと考えれば、階級が固定化されて当然だろう。
この本の中では、新自由主義・能力主義の台頭によって上層階級が上層階級であることの言い訳が用意されているという。
上層階級は自らの階級位置をほぼ必ず「努力の成果」という形で表現する。しかし出身階級によって上層にまで上り詰める努力の量は大きく異なる。例えば日々の暮らしに困窮している親は子供に私立学校へ行かせる余裕などない。親の人脈が太くパーティーなどに子供を連れて紹介すれば自ずと社会関係資本は増えていく。当然上層の人間はそのことについて理解しているだろう。
しかし自分が上層階級の出身であることを認めてしまえば、それまでの努力を全て否定されたように感じてしまう。階級社会が法律で明文化されていない現代において、低層階級から上層へと上り詰めた人間がいる以上、低層の人間が自分より努力を怠ってきたと言っても間違いとも言い切れない。
当然社会では能力がある人間とない人間ではある人間の方が優遇される。資本主義を敷いている以上、優秀な人は必ず優秀な人と繋がろうとする。
このように考えると、自然の成り行きに任せたところで階級の不当な断絶を是正することはないことが容易に想像できよう。政府をはじめとする公共機関に格差是正を訴えるのは、このような背景があってのことである。
3つの資本 各論
経済資本
経済資本が階級を図るバロメーターになることは言うまでもない。しかしこの「経済資本」という言葉の中に何が入っているかを今一度考える必要がある。
階級と結びつけて真っ先に思い浮かぶのは収入だろう。派手に金を使えば元の木阿弥と言われるとはいえ、そもそも派手に金を使えるというだけで低層階級からすれば無縁の世界である。当然、上層階級とされるエリートなどの職業では収入は多くなる。3つの資本を軸に考えている以上、上層階級ならば収入が多いという短絡的な思考はよろしくないが、経営者や医師、弁護士といったエリートの職業に多額の金が流れているのは誰もが認める事実ではないか。
しかし「資本」という言葉を使う以上、収入だけではなく資産も見るべきである。特にこの本の中で強調されているのが住宅資産だ。「金持ち父さん、貧乏父さん」の本が出て以来「持ち家は負債だ」ともてはやされているが、それは個人のマネープランにおいて想像以上に出費と制約が嵩むというだけの話である。会計的に考えれば住宅は資産以外の何者でもない。
そしてイギリス、特にロンドンでは数十年にわたる地価の高騰によって持ち家が莫大な価値を持つようになってしまった。イギリス全土の資産の合計が絶対的に増加しているのである。
なぜ「持ち家が莫大な価値を持つようになった」ではなく「なってしまった」と表すのか。理由の一部はこのように説明される。
すなわち現代の若年層と高齢者層が若年層だった時代とを比べると、現代の方が経済資本の構築が難しくなっているというのだ。そして収入:資産比率も資産が超過しているという。経済資本の格差は、収入に注目すれば職種に差が生じるが、資産も合わせて考えると世代間格差がはっきりしてくる。
文化資本
文化には「正統」と「邪道」というカテゴリーが存在する。クラシック音楽を聴いたり美術館でモネを鑑賞したりというのが正統であり、高架下でヒップホップを鳴らしたり壁にスプレーで丸い文字を書いたりというのが邪道だと考えられているのは、この文章の読者ならば認めるのではないか。
しかしこのような価値観は年齢によって若干差が出る。若年層ではヒップホップなどのポップカルチャーに関心を示し、高年齢になるに従って認めなくなっていく。従ってこれまで「文化的に優れている・劣っている」と考えられてきたカテゴリーに分けて判別すれば、文化資本にも世代間格差があることがわかる。
しかし英国階級調査とそれに付随する調査によって分かった最も瞠目すべき事実は別にある。
第一に、公共の場での文化的活動が正統的と考えられるようになっている点である。劇場へ行く、美術館をめぐる、ライブへ足を運ぶ、こうした「家から外に出て楽しむ」文化活動が好ましいものと考えられるようになっている点は、根暗な自分からすれば好ましいことではないが、認めざるを得ない。
家の中で一人パソコンを見ているオタクと街に繰り出しグッズを買い漁り聖地を巡礼するオタクとで、どちらの方が好ましいか、このような議論で考えてみれば、少なくとも世間的には後者の方が受け入れられるだろう。本書ではその理由についても考察されている。
実際、自宅でアンティーク家具の収集をしている人は自分の趣味に自信が持てないと言う例がある。側から見ればアンティーク家具の収集は立派な趣味だが、当人からすれば普段自分の文化的活動が社会的に妥当であると理解できる機会がないために、自信を持つことができないのだ。
ちなみにこの調査結果のためか否か、「英国階級調査の開始直後の1週間、ロンドンの劇場のチケットの売り上げが平均191%も増えた」という「不思議な現象」が起こったことも申し添えておく。
第二に、上層階級が文化についてとやかく言う内容にも注目したい。
これは特にエリートがポップカルチャーへと向ける意識に表れていた。
上層階級にとって、文化資本とは単純に文化活動に親しむことではなく、文化活動を親しむに足る素養があることだと捉えられていることを暗に示している。それはある意味自分の趣味を擁護する理論武装であり、武装するために趣味を持っているとまでは言わなくとも、「こんな趣味がある自分って素晴らしい」という陶酔なのではないか。
社会関係資本
社会関係資本という言葉から考えるに、人と人とのつながりの豊かさを表すのだろうということは想像に難くない。しかしその「つながり」はどれほど親密な関係を指すのだろうか。
つまりパーティーで名刺を交換した程度の人脈が社会関係資本になるというわけだ。当然このようなつながりは満遍なくは広がらない。地位が高いと考えられる職業の周りには、それ相応の階級の人がまとわりついてくる。
階級の捉え方
階級に拘る心理
階級の現象的な実態はこれである程度わかった。しかし、階級の差異を強く感じるのは人間の心であり、我々はそのような心理についても目を向けなければならない。
まず、なぜ我々は階級という言葉からあまり良いイメージを受けないのか。もちろん「人類は皆平等であるべきだ」という信念があることは認めるが、それはあくまで建前であり、自分が上層階級に行けばそんなことなどつゆほども思わない人が多くなっていくことだろう。階級に関する議論においては、人類全体の階級よりも自分自身の階級がなぜ低いのかという個人的な不満にたどり着くのがしばしばである。
また、単純に階級が高ければ良いというものでもない。特に低層の階級から上層の階級へとランクアップした人たちは、その点をひしひしと感じている。
これは文化資本の摩擦に限らず、経済資本についても同様である。古くからロンドンに一軒家を持っており、先にあげた土地価格の高騰によって経済資本が瞬く間に積み上がった人たちは「周りに高収入の人たちが住むようになって自分の居場所が狭くなった」というように疎外感を感じ始める。
またこんな意外な心情も登場した。
階級への義理とはどのようなものか、私には想像はつかないが、「階級を上がったところでどうせ上層の人間と摩擦が生まれるだけだ」という心の現れなのかもしれない。
階級への心理として、この英国階級調査では非常に興味深いことが起こった。
これは上層階級の異常な階級への興味と、下層階級の異常な階級への無関心とを表している。本書ではエリート・プレカリアートそれぞれの視点からこの心理を考察している。
エリートの階級への異常な関心
この調査でエリートの参加率が高かった理由として本書では3つ原因が考えられているが、特に普遍的なものを1つ挙げるとするならば、以下のことが指摘されるだろう。
これが本書でたびたび強調されるスノビズムにつながる。上層階級はややもすると自分が上層であることを自慢げに思っているような行動を見せてしまうかもしれない。いわゆるお高く鼻についている様子で、一般に品がないものとして忌み嫌われている。
過去と比べるとその傾向は幾分か弱くなっており、上記の引用で挙げたように現代の上層階級は紳士的なアイデンティティを失いつつあるが、自分の階級をおおっぴろげに喧伝するのは避けていることが想像できる。そんな激しい主張を避ける手段として、自分ではなく第三者の科学に自分の階級の判断を委ねることによって、自分の階級を自慢げにならないように自慢しようという魂胆が垣間見える。
このスノビズムは本能的なのか、逐一の言動に通底しており、例えば社会関係資本について、「自分は下層階級の人とも知り合いである」ということは上層階級の一種のステータスになっている。
現代のスノビズムは、今では以下のような側面を持っているという。
ではどうしてスノビズムが見えにくい形で現れるのだろうか。1つには先にあげた「紳士的」なアイデンティティの残香と捉えられる。
しかし「階級の継承」のセクションで取り上げたような、能力主義への信奉という側面を見逃してはならないだろう。階級を肯定することは自分の努力が取るに足らないものだったという証左になりかねない。自分は出自ではなく能力によって評価され続けてきた。それゆえに自分の階級ではなく能力へ目を向けてほしい。そのような思いの現れのようにも見える。
プレカリアートの階級への異常な無関心
英国階級調査に参加したプレカリアートが異常に少なかったことは、イギリス全体でプレカリアートの数が少ないことを意味しない。
そもそも上層と低層で階級に対する理解が大きく異なるのは注目しておくべきだろう。
「階級がない」というのは必ずしも「社会に居場所がない」という意味ではない(もちろんプレカリアートが社会に居場所はほとんどないと考えるのも無理はない)。階級に属することを認めてしまえば、自分の生活が悲惨なものであることを自覚し、自尊心を自ら傷つけることになることまでわかっているためだろう。
特にこの傾向は男性に強い。
このために、プレカリアートは他の階級と関わることを極力避け、プレカリアートの中で生活しようとする。謂れのない「貧困ポルノ」によって国民から袋叩きにされている当人からすれば、このようなスタイルを取るのは死活問題である。
この見下しの視線というのには2種類の意味がある。
第1に「自分はプレカリアートではない」と安心「される」ということ。プレカリアートでなくてよかったという思いは、プレカリアートを悪とみなしている証拠でもある。
第2に「貧困ポルノ」と呼ばれる蔑視を受け続けていること。「ろくに働かない人間の生活保護のために汗水垂らして働いた税金を使うな」という主張は、(意外かもしれないが)多くの場合に的外れであることは既に見ている。これが差別意識に如実に現れていることが指摘されている。孫引になるがここに引用しよう。
プレカリアートが文化的活動をしていないというのは全くの誤りである。ただし、上段の「文化資本」の項目で見たものとは体裁が異なる。「文化資本」で仮定されているのは個人の教養としての文化であった。それがライブに行ったり美術館に足を運んだりという、どこか他人と関わる要素のありそうなものであっても、やはり文化的な活動をしている自分に酔っているのである。
一方でプレカリアートの文化活動は、それ自体に大きな意味はない。テレビを見たり酒を飲んだりというのが楽しいというよりも、それを誰かと一緒にしている時間が楽しいと考えるのである。
テレビを見たり酒を飲んだりといったことがなぜ「文化的でない」と判断されるのか、当人には全くわからない。これは決してプレカリアートの無知を責めるのではなく、「文化」というものを階級自慢に使っている、いわばスノビズムの示唆を意図して言っている。
なぜ「上層」「下層」に囚われ続けるのか
ここまでを振り返って、「最初と言ってること若干違わねーか?」と疑問に思う方もいるだろう。この本では経済資本、文化資本、社会関係資本という3つの指標を導入し、これまでの階級に対する一次元的な理解を脱却してより重層な階級像を見出したとした。とはいえここまでの話で何度も「上層」「下層」という言葉が出てきている。
1つには各資本の連関作用が影響している。金の集まるところに文化は集まり人も集まるのは世の常である。孤独な資産家がいるように、それが当てはまらない事例も多々生じてきたことは事実だが、全体的な傾向として3つの資本が集約されていくのは半ば自然の摂理である。
第2に、著者はこれだけ3次元的な階級の解釈を説いておきながら、やはり一次元的な階級解釈から脱却することができなかったともみなせる。仮にそうでなくても、想定した読者が一次元的な階級理解に染まっていれば、わかりやすさを重視すると「上層」「下層」という言葉を使わざるを得ない。
だが最も考えたいのは第3の理由である。これまで「上層」「下層」と呼ばれてきた人たちは、3つの資本を全て持つ上流階級と、3つの資本をいずれも持たないプレカリアートという、正真正銘の上層・下層であるという理解だ。
「上流階級」というと、我々はすぐダウントンアビーに登場するような貴族であったり、年収何億といったIT系社長であったりを想像してしまう。確かに彼らは上流階級の一部である。しかし、現代においてそんなわかりやすい上流階級よりも、隠れ上流階級の存在に目を向けるべきなのかもしれない。
我々は上流階級という半ばフィクションに近いような言葉に踊らされすぎて、自分の階級がどれほどのものなのかしっかり目を向けようとしなかった。
それは自分の努力が水疱に帰すからかもしれないし、自分の能力のなさをまざまざと見せつけられるからかもしれない。もしかすると、上流階級なら下層の人間に手を差し伸べるべきだ、低層階級ならプライドは二の次で公的福祉に頼るべきだ、といった自分を縛る固定観念を自分から遠ざけるためかもしれない。
そろそろ、社会階級の実態を、そして自分の階級の位置を直視してもいいのではないだろうか。