
【読書記録】「ファスト&スロー」ダニエル・カーネマン 村井章子
仕事先のボスに「読め」と言われて読んだ本。人間の絶対的合理性を前提としてきた経済学に、人間は行動が一貫しないという心理学の知見を導入した功績で、著者はノーベル経済学賞を受けている。
2つのシステム
本書を通底する最も大きな概念が「人間の思考には2つの様式が存在する」というものである。直感に支えられ、あらゆる問題に瞬時に対応するシステム1と呼ばれるものと、理性に基づき合理的判断を目指すシステム2と呼ばれるものだ。システム1は一般にすばしっこく運用コストも低い(半ば条件反射的である)が、判断を誤ることがある。対してシステム2はなかなか作動せず、働いても処理に時間がかかって運用コストが高い。我々の社会では客観的・合理的判断がよしとされているが、システム2の作動が鈍いせいで、ときとしてこの期待に応えることができなくなる。
例えば先行刺激(プライム)と呼ばれるによって思考が誘導がされると、その影響を強く受けた答えしかできなくなるという現象や、質問に対してより簡単な質問の答えを代用するというヒューリスティクスと呼ばれる反応も、これによって説明がつく。
特に含蓄に富んでいるのが「平均への回帰」だ。例えば何かしらテストがあったとして、ある被験者が悪い点数(例えば30点)を取り、別の被験者は高得点(90点)をとったとしよう。さて、もう一度似たような試験をしたときに前者は成績が上昇(70点)し、後者は成績が下がった(50点)場合、我々は「前者ははじめに悪い点を取ってしまったために、次の試験で挽回しようと頑張って得点を上げた一方で、後者は最初の試験で高得点を取れた余裕から次のテストでがんばらなくなってしまった」と早々に結論づけたくなる。しかしなぜこう考えないのだろうか。二人とも平均的に取る点数は60点であり、2回目のテストでは平均化したに過ぎないと。我々は得てしてこの手の過ちを犯し、その道に精通している専門家であってもアルゴリズムには敵わないというほどだ。
2つの自己
我々が過去について(システム1の効果によって)振り返るとき、得てしてそれは印象的な出来事についてであることが多い。また「終わりよければすべてよし」というのもまさしくこの2つの事故に関わるものだ。2つの自己、それは
・経験の自己
・記憶の自己
と分けられる。
例えば被験者に苦痛を与える実験があったとして、長時間苦痛を与えるが終了時刻寸前では苦痛を和らげるものと、短時間しか苦痛を与えないが終了寸前で刺激を最大にする実験を考える(具体的内容は本書もしくは Daniel Kahneman, Barbara L. Fredrickson, Charles A. Schreiber, and Donald A. Redelmeier, "When More Pain Is Preferred to Less: Adding a Better End", Psychological Science 4 (1993): 401-405 参照)。両方の試験が終わった後、被験者が「もう一度やるならどちらがいいか」と尋ねられると、刺激の平均が等しいとき、苦痛の絶対量で見れば短時間の方が得なはずなのに、後者を選ぶ被験者が少なくなかった。これは記憶によく残っている実験終了間際の感覚に照らし合わせて判断を下したためである。従って完全な合理的選択をする人間からしてみれば考えられない選択を、我々人間はするものなのである。
2つの人間
この内容を俯瞰した上で、合理化の手段として考えられるような「経済人」いわゆるエコンを経済学の前提に据えていいのだろうか。理想的には NO である。我々は常に合理的に振る舞うことなどできないし、常に最適な選択をできるわけでもない。システム1は選択の自動化をしてくれることによって手助けをしてくれるが、いつもと違うことが起きると途端にその力を失ってしまう。
とはいえ私も現代経済学を完全否定する気はない。かなりいい眉唾物ではあるとはいえ経済学が実際に政治から参照されるほど有効性があるものなのは事実だ。現行の経済を明確に表現する根本原理が行動経済学にないという点も、心理学をベースにした考えが未だ経済学の本流になっていない原因の1つであろう。言ってみれば現行の経済学は一次近似である。そこからのズレを説明するために必要のない高度な数学をひけらかす学者を批判する者は多いが、それも同じ理由なのだろう。