教育研究医は学びを還元したい
【前回までのあらすじ】色々あって、初期研修をした北の大地にある総合病院で「臨床研究・治験推進室」と「臨床研修部」兼務になった医師7年目の春。当院初の非臨床常勤医師として様々な隙間産業に挑む日々を綴る。早くも医師8年目突入
ていねこは今年度、「現場で働く教員・指導医のための医学教育プログラム」に参加し、医学教育の理論と実践を学ぶ時間をとっている。
勤め先の病院に掛け合って、そう安くない参加費を出してもらいながら、主に初期研修医の教育をどうやったら「良く」できるかについての示唆を得るために学習を続けている。
しかし教育、特に卒後医学教育における「良さ」とは何なのか。
研修医に対して日々教育を行っている各科の上級医や、毎朝研修医主導のもと開催されている勉強会「モーニング・レポート」は常に意識的・無意識的にその教育効果を評価されている。しかし明確な評価基準がない中、結局「ベスト指導医」を構成する要素は何なのか。レクチャーはどうやって有意義となるのか。
自身が初期研修医、いや医学生だった時からずっと考えている。
医学教育プログラムでの学びを一つ共有したい。
教育カリキュラムを作るとき、必ずそこにはニーズがある。
大きく、学習者のニーズ(何かを学びたい)、現場のニーズ(何かができるようになってほしい)、そして社会のニーズ(こんな医師がいてほしい)に分けられる。
系統だってカリキュラムを組まない場合、往々にして現場における教育活動は現場のニーズに偏った内容となりがちだし、厚生労働省が要求する基準は社会のニーズに偏る。
対して、研修医が企画する勉強会は当たり前だが学習者のニーズが元になる。
ニーズのゲシュタルト崩壊が起こってきた。
若手〜中堅医師が教育活動に携わるとき、言葉にされていないけれども「元学習者で今現場にいる教育者が最もバランスよくニーズを把握している」という認識が横行している印象がある。しかし我々はあくまで教育者であり、年齢も国試予備校の数も働き方改革の影響力も違う研修医のニーズを把握する努力を怠っていては、やはりどこかに溝が生まれてしまうと思う。
私は今の勤務環境的に、初期研修医室にほぼ常駐している。そのため、研修医の日常的な愚痴から嬉しい報告、懺悔や呪詛まで何でも耳に入る。
1日に1回は、上級医と研修医のニーズのミスマッチ故に生じる、予防できた衝突事例を聞くことがある。
例えば、ある症例の方針について研修医が上級医に「どうしてこの方針になったのですか」と聞くとする。
すると、上級医は「この病気についての知識が欲しいのだろう」と推察して、「これを読めば大体わかるよ」とまとまった資料を渡してきたというのだ。よくある場面だし、親切な対応ではないかと思う。
しかし、研修医曰く「上級医の思考プロセスを聞きたい、追体験したい」と思っていたらしい。そのため、当該研修医は「冊子を渡されただけで教育を放棄された。不勉強を指摘されたのでそれ以上追求できなかった」と感じてしまっていた。あまりにも悲しいすれ違いだと思った。
上記はほんの一例だが、こんな感じで学習者・現場(教育者)・社会のニーズをバランスよく把握した方が、結果として円滑な教育活動ができるんじゃないかな〜と、
教育プログラムの「カリキュラム開発」のコマを受講して思ったのだった。
勤務先の臨床研修病院で、初期研修医を対象に「人文学ゼミ」を勝手に始めてみた。
勝手に、というのは、業務としてやることは全てBOSS(研修部長)の許可を得てやっているのだが、これは業務じゃないなと判断したという意味だ。
主たる目的は、ていねこが公衆衛生大学院や医学教育プログラムで学んだこと、特に人文学的な考え方について研修医と共有することで学びの還元を行うだ。
しかし、同時に存在するアジェンダとして「普段あえて考えないテーマを研修医に投げかけることによって、彼らの教育ニーズを抽出する」こともある。
先日、第一回ゼミで「良い指導医、良いモーニングレポートとは?」というテーマで、教育効果を分類する方法や成人教育の背景となる哲学の分類について紹介した。
その中で、参加者が思う「良い」教育の特徴について聞いてみた。
いきなり告知していきなり始めたにもかかわらず、2時間ぐらいオフィスのドアを開けておいて適当に出入りを許可していたら、4−5人が参加してくれたので嬉しかった。
また、研修医同士でも重きを置く「良さ」の違いや、モーニングレポートに求める学びの内容が異なっていたことが分かって、かなりの収穫を得られた。
人文学ゼミは学びの還元を名目に、今後も不定期で続けていきたいと思う。