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【#創作大賞2024】真夜中のエンターテイナー

〜悪魔の種〜


1982年。




バチッ


バチッ


バチッ


6畳の和室に響く
何回にも渡る重いビンタの音。

部屋は寒く、空気も凍りそうだった。

母がマッチで付けた石油ストーブから
冬の匂いがした。



父の手は誰よりもぶ厚く、
透明感のないくすんだ色の
男の手だった。

父は瞬きを全くせず、息子の行いに
心底怒りがこみ上げていた。


自分では分かっていた事だが、
父親が帰ってくるまで、
布団の中で縮こまっていた。



父が帰るなり居間に呼ばれた。
声で分かる。

赤鬼が呼んでる。

ちょっと来い。


居間の襖をゆっくり開けると
想像した通りの光景が目に入ってきた。


そこに座れ。



眉毛が釣り上がった父と
眉間にシワが寄っている母。


お前がしたことを言え。



正座し、手を膝について
事の顛末を
ゆっくり話し始めた。

終わるや否や
手がいきなり飛んできた。














左…


何回ビンタされたか覚えてない。


僕は正座をしたまま顔をあげなかった。


僕は言い訳や反抗など知らない
ただの10歳の少年だった。


怖さと、痛みと、
取り調べのように
聞かれる父の質問に
涙と鼻水と一緒に
かすれ声で一言一言、
つっかえながら話した。

頬がジンジンする。

母は僕の行いを一緒に責めるだけだった。



電球色でもない無機質な丸い白色蛍光灯は
無様な自分を照らす憎き明るさだった。



時計はちょうど長針短針が重なり合う。



数時間後、
部屋に戻されたときには、
顔が膨れ上がって
痛さと恐怖が終わり、
ひとときの安堵を味わえた。

しかし
罰の重さに押しつぶされて
眠ることなどなかった。


布団に体を横たえ、目を閉じると、
涙が止まらなかった。

理由などない。



衝撃が強かった。


なかなか寝付けず、
涙を拭こうとすると頬が痛くて、
涙は耳に入ったまま戻らなかった。



二階の姉たちは2人とも
自室にて聞こえていたはずだったが、
誰も僕の部屋に来なかった。



ただ、その時は罪に対する罰を
痛みと後悔で学ぶしかなかった。



もっと小さい時、父親から受けた
暴力の全て思い出してしまった。


それは夢の中でもずっと上映されていた。


夢の中でも泣いていた。


父親は説教や暴力の後、必ずこう言った。





お前は悪い奴だ。



一時が万事。



この言葉が耳から離れない。


悪いことをした僕は常に悪い子なんだ。


翌朝、小学校へ行くために
洗面台に行くと
見るも無残な腫れ上がった顔で、
普段は被らないプロ野球の
野球帽を被って登校した。



友達には悪いことをしたから
叩かれたと言え。



父の言葉を背にいつもの通学路を歩く。

やはり、下しか向けなかった。

アスファルトをじっと眺めてたら
いつもの小学校があった。



父の行為は愛情である事は間違いない。
導き方は人それぞれだ。


でもその時はそう取れなかった。


クラスからの視線が辛かったので、
保健室に氷を貰って1日過ごした。
保健室の先生にどうしたの?
と聞かれても
ずっと聞こえないフリをしていた。


授業が終わると誰よりも早く
逃げるように帰った。
惨めな気持ち、情けない気持ち、
友達にも話したくない
やるせない気持ち。



そこで一旦記憶は無くなる。



これが少年期に多々あった出来事の1つ。




父親は絶対だった。

どこの家庭もそれが
当たり前だと思っていた。




ただ、いい子でいなきゃ痛い目に合う。
まだ少年だった僕に刷り込まれた
新たに作られたDNAなのかもしれない。


いい子でいなきゃ。



いい子でいなきゃ。


愛情というものは、
表現がいくつもあり、
暴力・暴言は更生のための
最終手段でもあったんだろうと
大分大人になって少しは理解している。



全てとは言わないが、
昭和の父親像というものは
背景として戦前生まれの祖父世代が
大戦時の大日本帝国に仕えたことが
影響しているのではないだろうか。



しかし、時代は育ち、
高度経済成長期生まれの子供たちは
ゲームやその他の娯楽が増えて、
少しずつ価値観が多様化する中、
厳しい環境下に置かれた父達とは明らかに
違う人類だった。



それでもやはり父親が
恐怖の存在であったことは
少なくとも間違いではない。



怒鳴り声や、
家をドスドス歩く音、
母や家族への暴言は最早子供達にとって
逃げるか耳を塞ぐか、
いい子でいる事しか
選択肢が無かったのかもしれない。
少し偏った見方ではあるが、
少なくとも一般家庭においては
そうだったのかもしれない。



僕は姉たちが怒られて
助けるには非力であり、
勇気がなかった。


自己嫌悪に陥る。



しかし少し経つといつも通り、
ボールが見えなくなるくらいまで
サッカーや野球ボールを追いかける
どこにでもいる少年に戻った。



その時は今までの数々の罪と罰が
ゆくゆく人格を形成するなんて
ひとつまみも思わなかった。



帰り道はどこからともなく香ってくる
夕食の香りに自然と急ぎ足になっていた。
高尚な考えの子供などいるものか。
お腹が空いてるだけなんだ。



帰ると姉の部屋から
いつも大音量の洋楽が流れていたのが
日常だった。


それは耳で覚えるほどになった。


そしてグローブやサッカーボールを置き、
ギターやドラムに心酔していくのに
そう時間はかからなかった。


中学になると友達の部屋でタバコを吸い、
レコードを聴き、テープに録音した音楽を
ずっと聴いていた。   


音楽には若者を覚醒させる何かを持っていた。


下らないちっぽけな
アイデンティティを表現出来たのだ。


俺はあいつらとは違う。

楽器ができるんだぜ。

そしてセッションがうまくいった時の
メンバーとの一体感。


ライブも多くなり、
スポットは自分達のためにあると
勘違いしてたくらいだ。


そしてメンバー全員
女の子にチヤホヤされた。


怖くて痛かった気持ちなど忘れて
欲求に忠実で、
ちっぽけな自己が生まれつつあった。



バンドは楽しかった。

人生の全て(中学生レベル)を懸けていた。

ライブでキャーキャー言われるのは、
さながらロックスターの気分だった。

ライブ前の楽屋には
手作りの差し入れでいっぱいだ。


音楽が新しい自分を開拓していく…

有頂天になっていた。


しかし、しばらくすると
受けた罰が思いもよらぬところで
顔を出し始めるのだった。



セミが大騒ぎする
夏の日差しの強いある日、
バンドの練習でスタジオに向かう途中、
気のせいか、
自分の影だけが人より
濃く見えるようになっていた。



黒い別の生き物のようだ。



気のせいではなかった。


何か自分の中で
ガラスの割れた音がしたような
感じがした。


〜支配されつつある心〜


バンド活動は楽しかった。

ドラムを叩くたびに上達するのが
何より楽しく
メンバーといると
音学のことばかり話して
あっという間に日が暮れていた。

メンバーの家でいつも振舞われる
ミルクティーは極上の甘さだった。

勉強は試験の一夜漬けだけで乗り切っていた。


あのガラスの割れた音は
中にはあるものが入っていた。


思春期の自分には気づかなかったが
突然その中のものが分かった。


それはある日のライブだった。


極度の緊張に襲われたのだ。


楽しいはずの音学が
ライブ前の楽屋で震え出したのだ。


まわりのメンバーには気づかれないように
いつも通りイキッたフリをした。


心臓はさながら
スポーツカーのエンジンのように
高回転でまわり、
汗が止まらなかった。


ステージに震えながら出ると
大きな拍手とは裏腹に

俺を見ないでくれ


そう思っていた。
失敗するのが怖くなったんだ。


ドラムはバンドの屋台骨。
失敗するわけにはいかない。


オープニングの音学(SE)が終わると
自らの手で顔をピシャンとやると
スティックでカウントを始めた。


楽しむことより、間違わないように
することがその日のライブだった。

4曲目の
スピード感のある曲

バラードよりも
体を激しく
動かしたくなるような曲を
お客さんは欲していた。


ボーカルが次の曲を告げた。


ウォーーーー
お客さんも
待ってました!と気合いが入る。

エネルギーが伝わってくる。

ところが、

僕は
曲の展開を間違えて
途中で 曲を止めてしまった。

バンドのメンバーはみんな僕を振り向いた。

盛り上がりに水を差すように
なってしまった。

必死に挽回してくれようと
お客さんが盛り上げてくれたが
バンドのメンバーはいつもと違った。

特にボーカルはあからさまに
テンションが下がっていた。

何か言いたげな視線が辛かった。

ライブが終わると、普段は
ガヤガヤ話しながら
缶コーヒーとタバコ

お客さんとのハイタッチを
したりするのだが、


その日はまっすぐ帰った。


自慢のブラス製で
ピカピカの金色のスネアドラム、

鈍く光っていた。

おーい

遠くの方でメンバーの誰かが
呼ぶ声が聞こえてきたが

振り返れなかった。


〜呪い〜



ステージに立った人なら分かると思うが
客席は暗転しているので
意外とお客さんの顔は見えない。


後ろ姿のメンバーだけが映っている。

しかし、自分には
お客さんの目だけが
暗闇に浮かび上がって見えたのだ。


視線は矢を放っているようだった。


緊張が高まり、
比較的スローピッチの曲は
心臓の鼓動に合わせて
ミドルテンポにまでなった。


曲中、メンバーにピッチ(スピード)を
落とせと合図があったのだ。

これはライブあるあるなんだけど、
興奮状態からドラムのピッチが早くなる。


僕のは違う。


前のライブの失敗の恐怖による緊張だった。


体ではなく、心が震えていたのだ。

生きたまま皮を剥がれ
毛皮にされるウサギのように。

それから、明らかに人が今までと違う
生き物に見えた。


15歳は複雑だ。
成長期に迎える、
なるべき大人の選択肢の道を
選ぶ事などできないのだ。


これからは社会に入るための知識と雑務を
ひたすら頭に入れる。


自分が何者たるか、
手がかりさえわからず。

当たり前のようだが、
ここでつまづいてる奴は
一生つまづいたままだ。

断言する。


そんなちっぽけで不安定な自分とは裏腹に
世の中は好景気だったが、
そんな事すら知らず、
ただただスティックとラジカセを前に
過ごした。

当然勉強などせず、
成績は学年で下の下だった。

いつもならロックを気取った態度だったが
今まで見た事ない通信簿に
恐怖がよみがえった。

いい子でいないと…

出来る子でいないと…

間違えないようにプレイしないと...

罰を受ける。



ビンタの記憶よみがえる。


みんなに嫌われてしまう。

離れていってしまう…

頭の中が白くなり、
額と脇から汗が止まらず
学校を早退して
地元のモスバーガーに駆け込んだ。

木の壁に掘ってある相合い傘の落書きを
見ながら思った。

みんなに嫌われたくない。

帰属欲求なのか、分からない。


群れからはぐれた狼は
やがて飢えで死んでいく


明かりの一切見えない山の中
痩せこけ、死んでいく。
ミミズクの見守る中で。

生きたいという生物として当たり前のことが
違う形で現れた。

あの割れたガラスには
恐怖が入っていた。

しかし、
恐怖の横にあって転がっていった
もう一つの恐ろしいものを
見逃していた。


その恐ろしいものは
人類史上、
もっとも恐ろしいものかもしれない。

その後勉強は取り憑かれたようにし、
学年上位だった。
ただ取ってつけたような意味のない知識で
急速に脳に埋め込んだのだから
大学ではその知識はヘチマのようにカラカラに
乾き、何の意味もなさなかった。

カラカラな僕は
何の目的もなく、
ただただ生きていただけだった。


しかし
時折現れる恐ろしいものは


自分を苦しめた。


嫌われたくない。


そしてその恐ろしいものは

執着だった。


父親は自分で商売をしていた。

会社員でもなく、職人でもない。
飲食店、いわゆる赤ちょうちんの
飲み屋の店主だった。

これは父親の兄妹全員がそうだった。

そして今は亡き、
中国満洲に渡った祖父がそうであった。


満州では外国人の祖父は
地元の人に喜んでもらえるような
飲食店を営んでいた。

戦中の中、国同士摩擦のある中で
盛況していたようだ。

大日本帝国がアジアを制圧し、
まだ優勢だった頃。


その混乱期に父親は正妻の子ではなく
戦中の混乱期に妾の子として生まれた。

その息子が僕だ。


祖父は客の前ではエンターテイナーだった。
そして父もそうだった。

しかし家庭内では暴君だった。
今のような全ての人種に人権を、
のような世界ではない。

時代を背景に生まれ育った男性だった。


祖父が帰国した時は
敗戦で日本へ生まれ変わり
アメリカの俗国として、
経済成長を選んだ。


娯楽のない日本で
祖父は子供たちに飲み屋をさせた。

収入は経済成長真っ只中の
日本のサラリーマンの
年収を月収で上回るくらいだと聞いた。


妾の子である長男の父、
正妻の子である兄弟
6人でそれぞれ居酒屋をやった。


その儲けはほとんど祖父にいった。

祖父はその金でやりたい事を
やっていたそうだ。

欲にまみれて死んでいった。
90だった。
悲しくもなかった。
なぜなら祖父と過ごした時間など
殆どないからだ。


直感的に祖父に近づきたくないと思っていた。


程なくして妾の妻が亡くなった。
祖父は祖母の遺骨を墓に埋めず、
枕元にずっと置いていた。


寂しいからであろう。
離れられなかったのかもしれない。

北海道から嫁いできた世間知らずの
天真爛漫な母が眠っていたら
ある日枕元に亡くなった祖母が現れたという。


母の名前を呼び、
寒いから墓に入れて欲しいと。


その時まだ世間のことなど何も知らない
小学生の自分は
ちょっとした怖い話程度に受け止めて
何の言葉も返さなかった。


その祖父の祖母への執着心が
脈々と受け継がれているとも知らずに。


執着は強欲。

恐怖によるスマイルの仮面。

これが僕の呪いだった。


〜アウトサイダーという青臭くて美しいもの〜



高校を卒業した僕は
大学にもろくに行かず、
音楽に惚けていた。


ふと、機会があって
自室の部屋の整理をしていたら
高校のノートが出てきた。

使い込んでキャンパスの端が丸まっているノート。


中を開くと
授業の内容以上に書かれた
トライバルの模様のタトゥーの
落書きだらけのノートだった。


大学に入れてもらったものの
心の中は尖っていた。
理由はない。
スーツを着ている人種が
嫌だった。


真面目、成功、勤勉、会社の犬
ロックに一度でも本気でのめり込んだ人間なら
共通の敵は社会だった。

恥ずかしい限りの青臭さだが、
あんな人間なんかになりたくない。


スピーカーから聞こえる人々を不快にさせる
ギターのノイズ、
苦情がくるくらいのドラムの音は
世の中を斜めに見るのに
最高のシチュエーションだった。


そして
自分の腕に高校の落書きの中での
1番のお気に入りのトライバルを
掘りに行った。

誓約書を書き、4時間
右の腕に模様を入れた。

有名な堀り師のお弟子さんというだけあって
信頼した。


マンションのたわいもない一室で
それは行われた。


多分恋人だろう。
掘られている間、
その彼女がロールプレイングゲームを
していたので、
宝箱のありかや、抜け道を教えながら
痛みを逸らしていた。

部屋のカーテンから昼の明るさが
無くなった頃、施術は終わった。


腕にサランラップを巻かれ、
1週間ワセリンを塗り続けてくれと言われ
サッと挨拶を交わし、
街に出た。

僕はタトゥーを入れたことに興奮した。

サラリーマンとすれ違う度に
俺はお前らと違う。
俺はアウトサイダーだ。
社会のはじきものだ。

と奮い立つ一方で、
これから一生コイツが
ついて回るという
変な怖さもあった。


しばらくは痒みと戦いながら
誇らしくしていた。


TATOOなど、
マイノリティ中のマイノリティだった
90年代。


自分が王道ではない生き方を
選んだ分岐点になった。


右手の中指は空に突き刺したままだった。


雨が降り、雷が鳴ると
何時間も空を見上げた。


なんて美しいんだ。


通り過ぎる何台もの車のヘッドライトに映る自分は
鎌を持った死神のようだ。

〜初めて襲った呪い〜


学生の時、何人かの女性と
付き合う機会があった。


いつも短命な付き合いだった。


僕は、彼女達を好きではなかった。

もちろん、今思えば好きだったのは間違いない。
ただ、理由がない。


ただの所有物としての見方だった。


思い通りに事が運ばなかったり、
言葉の行き違いがあると
街中問わず口論となった。


その暴君振りに彼女達は逃げていった。


その後ろ姿をずっと点になるまで見送った。


悔しかった。
俺は間違ってない。
俺はアウトサイダーなんだ。
俺は皇帝なんだ。
くだらないプライドは
あっという間に霧となり
空に溶けこんで雨雲となった。

怒髪天を突く怒りは音楽にぶつけ
メンバーから
お前今日ノッてるなと
褒められた。


馬鹿につける薬は、いまところ
ない。

愛を知らない恋は
出来損ないのする典型的なものだった。

愛ではなく所有欲だった。

僕は
嫌われないように
優しく笑い、
男達の前では
嫌われないように
話を盛り、


一人でいる時は
ただ無表情で飼いネコを撫でるだけだった。


でもその内、
ネコはいつだって眠る前に
僕の前からいなくなるのだった。


本当の居場所で眠るために。

理由は今思えば
撫でるだけで、餌は母がやっていた。


のんびりふわふわなに見える猫も
生きる術を知っていたんだろう。


次の日、仕事から帰ると
折りたたみ携帯電話が鳴った。


お客さんからだった。

〜剥き出しにされた自分〜



得意先で商品を説明するのに営業後、
時間をもらった。

電話が鳴り、
僕の会社の商品をスタッフみんなに説明して
欲しいとの事だった。

新規の飛び込みで付き合い始めたそのお店で
人生で初めてプレゼンをする事になった。


と言っても、
3人の女性しかいない個人サロン。

40代のオーナーと、
20代前半のアシスタント2名。

実に簡単な内容の説明のはずなのに
6つの目が僕に寄せられた時、
足が震え出した。

声も震え、顔からは滝の汗、
頭からは蒸気、
耳は自分でも分かるくらい
熱を帯びていた。



理由はその時は分からなかった。

呪いの一つが目を覚ましたのだった。

時間にしてたったの20分ほど。

テキストを見ながら話していても
顔の汗で、テキストの字が濁った。


沈黙の中、声も踊り始めた。


どうした?俺?
いつでもライブで人前に出ることは
緊張感こそあり、それでも
人に手拍子をさせてきた俺だぞ?


情け無い程の緊張と恐怖と情けなさで
失神寸前だった。


永遠と思えた20分後、帰りの営業車の中で
シートを倒したまま
動けなかった。


正確には
恥ずかしさで、消えて無くなりたいと
体を硬直させていた。


呪いは容赦ない。

どんな世界でもことわざがある。
覆水盆に返らず
こぼしたミルクをなげいてもしょうがない


同じ意味で違う言語で
人類が共通するコトバ。


三つ後の魂百まで


科学的には根拠はないと言われているが、
世界中で認識されている。

幼き子供にかかった呪いは
いつでも背後からホラー映画のように
顔を逆さまにして
上から僕の目の前に現れる。


いい子でいなきゃ
いい人でいなきゃ
出来る人でいなきゃ
罰を受ける。



祖父が父にかけた呪い
父が僕にかけた
無意識の呪いだった。


いくらアウトサイダーだろうが
ロックだろうが
ひん剥けば
ただ弱々しい男が
醜態をさらしているに過ぎなかった。

ユダヤの男女が禁断の果実を食べ
羞恥心に気付いたように。

白い営業車は停車したまま朝まで動くことはなかった。


時代の性に対する広き門が開かれると
人間は野生と興味でお互いの違いを知る。

探究心と言えばカッコつくが、
ただの動物だ。


秘め事なんて、いつの話。

日本は世界に誇る性産業大国として
世界に君臨していた。

実際誇れることではないが、
宗教色のない日本独自の文化は
カオスのような状態で、
近代化と経済成長を理由に
進化の過程を蔑ろにしていた。

ヨーロッパではとても考えられない話。

伝統も深い信仰心も
アイデンティティすら見受けられない
経済でのし上がった不思議な国、日本。


男女の出会いなんて、単なるビジネス。


そんな時、
僕に舞い込んだ一枚のカード。

自分ではふんだんに買えるものではないが
仕事上で僕を上手く利用しようとした
サロンのオーナーがしきりに手土産として
そのカードを僕に持たせた。

出会い系なんて言葉も生まれるもっと前、
テレクラカードなる出会いを目的にした
専用電話サービスが雨後の竹の子の如く
市場に参入してきた。


プロフェッショナルではない
一般女性との出会いを果たす
薄っぺらいが、
男性の夢が詰まったカード。

どこの誰か分からない人と出会う
未知との興奮と妄想が、そこにはあった。

部屋でベッドに座り込み、
気の赴くままに電話をする。
熱い紅茶も忘れずに。


もしもし、初めまして。
そこからが続かない。
お互い目的が同じだとしたら
会話が続くはずなのに。


と、思っていたのは男性の話。


女性は単なる無料の暇つぶしだった。

結果どうだったかを
オーナーに土産話として
持っていくのが通例だが、
実際、出会うことなど無かった。
夢のカードでもなんでもない。


夢を片手に手をこまねいている
男性を手玉にとった業者の笑いが
止まらないビジネスだった。

もういい加減やめよ。


最後のカードを経て
一人の女の子と繋がった。

その後、そのシーンが
人生における交差点になるなんて
その時は知るよしもなかった。

初めましてから、
性的な面を前面に出しながら
会話を続けていくが、
違和感しかなかった。


まるで捨てられた子猫なような
人間不信の塊のような
か細い声で
思わず大人の世界に顔を突っ込んでしまった
女性、いや、女の子だった。


紅茶冷め切っていたが
透き通った飴色のそれは
守りたい気持ちにさせるのだった。


人の繊細な心に触れて、
心が動かない人間は
ただの動物だ。

かすみが話したことは
無垢な性の受け答えと
「よくわからない 」
「ごめんなさい」

だった。


会話は殆ど成立しないものの、
波長が他の女性と明らかに違っていた。

からかいでもない。

性的な欲求でもない。

やや低めのテンション。


異質過ぎた。


大抵は
「本気にすんなよバーカ 」
「もしもし」「ツーツー 」
「どこに住んでるの?」「ツーツー」


女性の買い手市場、暇つぶし。


かすみは話した。

東京から数百キロ離れた場所から。

ネコが言葉を話せるようになって
人間を調べるかのように。


ある意味興味といえばそうだが、
甘くてゆっくりした話し方で
ポツリ、ポツリ


カードには時間制限があるから
ゆっくり聞けない代わりに
電話番号を伝えてみた。


彼女がなにを考え、何を欲しているか
知りたかったからだ。

野性の僕は人間になり、
その日を終えた。


切り終えたばかりの携帯電話を胸に
思いを巡らせながら
そのまま眠ってしまった。


会えなくても、繋がってみたい。


初めての経験。



その頃の僕はわずか
2週間の結婚生活を終えて
その尋常ならざる両家のいざこざに
疲れ果てていたので
心療内科に通い、
眠るための薬と抗不安薬を
処方されたばかりだった。


自信をさらに失い、 
あらぬDV疑惑にかけられ
示談を余儀なくされたのだ。


後でわかった事だが、
反社会組織に所属している家族だったようだ。
あまりにも大きな家、表向き不動産経営の父。


結婚生活が始まった直後、
何かと事が上手くいかないのを
僕に当たり散らし
家族で僕を恫喝した。


どうやら僕と結婚した理由は、
彼女が厳しい家から出たいだけだったと
人づてに聞いた。

僕はそのための手段だと。


僕はまさに道化だ。


家族にあんなに謝ったのは
初めてだった。


このお人良しめ
見る目ないよ
何でわからなかったの?
あんたが悪い
お前がだらしないからだ。


家族から充分矢を放たれ、
満身創痍状態になった僕は
チクチク痛む胸をドンドンと叩き
ベッドに潜り込み丸まっていた。

僕が一番ダメなんだ。

蚊のように近づいては血を吸って離れ
血を吸って放れるように、
その思いはいつまでも僕のまわりを
飛び回っていた。


不安定な僕が
安心するやわらかな声と
かすみの言いたい事を
言葉にできない不器用さに
徐々に惹かれていく。


まだ義務教育を受けているくらい
もしくは高校1年生くらい。


かすみは大きく傷ついていた。

言葉こそ少ないが
送られてきた写真が
大きく物語っていた。


自分のことなど、
どうでもよくなった。


かすみの今の背景に
一気に引き込まれていた。


眠る時は、
いつも携帯電話を枕元に置いて眠った。


そして祈った。

かすみが月に照らされますように。

太陽だと火傷してしまうかもと
本気で考えたほどだった。

心配、恋、癒し、安心
まだ答えはわからなかった。


それから会社を幾つか渡り歩き
人の前でプレゼンをする仕事に
つき続けた。

プレゼンはかつてのライブより
はるかに緊張する。

それはライブハウスと違い、
明るい部屋で視線が自分に
向けられることの恐怖だった。

緊張が大きな波のように押し寄せ
額から流れ落ちる滝のような汗は
さらに視線をあつめるのだった。


数年もすると
流石に数をこなすことで
慣れてきたのかもしれない。

33歳で今の会社に転職した。
年齢的にも人生最後の転職だ。  


慣れてきた、、、
言い換えると
正確には過剰なクスリに溺れていた。


人前に立つ恐怖と
突然襲う心の中の雨雲に襲われて
極端な臆病になっていたのだ。


医者を掛け持ちし、
カバンの中はクスリでパンパンだった。


色とりどりのクスリは
エンターテイナーに変身するための
劇薬だった。


広角の泡を指摘された事も何度かあったが
病んでいるのに普通に接する事ができる。


それどころか
すっきりと胸のつかえや
不安な雨雲を取り除いてくれ
人前で堂々と話せて、
笑わせることも出来る。


夢だ。


夢に酔いしれ
不思議な事に
お酒も酔わなくなった。


お酒など世界から無くなればいいと
思っていた僕が。


そんな夢を何年か続けた。


海では大波も怖くなかったし、
男性5人女性20人の合コンでさえ、
20人を下品なジョークで
からかっていたほどだ。


女性は僕を毛嫌いしたが、
楽しかった。


感覚が完全に麻痺している。


脳が停止状態だった。
理性を司る方の。

まさしく躁状態だったのだ。

それをエンターテイナーと勘違いしていた。

だけれど、

見えてる景色は夢なのに
自分を取り巻いているものは
雷雨の暗い暗い雲だった。


それは人生を予期していた。


クスリでヒーロー気分の僕は
ある事に気付いた。

演じられている自分に酔いしれて
倫理、道徳感を失ってしまったのだ。


毎日空の展覧会が出来るような
秋の空の中、

自宅に刑事がやってきた。


僕は
犯罪を犯してしまっていた。


捕まっても、捕まっても
その場しのぎだったが、

ついに逮捕される事になった。


書類送検、略式裁判ではあったが、
前科者となった。


ヒーローのはずの僕が。



警察署内で指紋、正面写真、斜め写真
検事による犯罪の流れの確認、
そして重い罰金刑。


一度僕はそこで人生を終えている。


死神が毎晩話しかけてくる。
足元にはゴキブリが埋め尽くされていた。

不自由なく、物理的にも大体は満たされた
一見普通の家庭で、
なぜこのような事が起こるのか


ほどなくして
ある日刑事が訪ねてきた。
ベテランの年老いた男性刑事と
若い女性の見習い刑事。


父母はただ息子の愚行をひたすら謝っていた。
温かいお茶を出したが、断られた。


恵まれた環境で起きたこの事件、
原因を追求したかったとのことだった。


何故こうなってしまうのか。


部屋中を見回され、
父がベテラン刑事に言った。


息子は前科者になってしまうのでしょうか?


残念ながら、そうです。


これから更生の道を望みます。


そう言って2人は帰っていった。


僕はお辞儀をしたままだった。


吉祥寺署、新宿署は父が、
渋谷署では、姉夫婦が迎えに来てくれ、
釈放後、街中で大声で泣き崩れてしまった。

僕は一体何だったんだ?

署に入ると必ず身元引受人が
来なければならない。
勾留こそなかったが、
最初は父親が1人でやって来た。


父は黙っていたが、
咎めることはしなかった。
きっと何かの間違いだ、
お前は巻き込まれたんだ
とウソで慰めてくれた。


母は
何でこんなことしたの?
真っ赤な目がグチャグチャになっていた。


僕は
正座をし、ただひたすら謝り
2度と犯罪を犯さないと誓った。

姉たちは僕を抱きしめ
大丈夫だよ、と言った。


ほんの一瞬だが、
バラバラしていた家族が一つになった。

ただたった一つだけ
刑事の温情があった。


会社にリークしなかったことだ。


だから、今まで通りに仕事には行った。


本当に普通通りに。


精神病患者は外では普通でいることだ。

しかし、病んだ僕は
しばらくすると
またサイコパスになっていた。

犯罪ではなく
医者の処方箋を手当たり次第、出来る限り
受け取り続けた。


もう心は普通でいられない。


両肩のTATOOは
初めから予言していたのかもしれない。


社会から落とされる。


反省しても反省しても
呪われた強欲で臆病なピエロのままだった。

澄み切った空を見上げたら
電話が鳴った。


人事異動だった。

転機はいつでもやってくる。

望もうが望まないが、関係ない。

送別会であらゆる酒を飲み干して
急性アルコール中毒で救急搬送された。


何故死なせてくれない?


何故生かす?


何故世の中に出す?


悪魔の悪戯なのか、
守護霊なのか、
分かるはずもなかった。


体重は20キロ減り、
鏡には痩せこけた老人の自分が
映っていた。


新天地だった大阪は
不安だった。


1人は寂しかった。


しかしクスリによって
ピエロとなり、元通りの
見た目普通のサイコパスになっていた。


次第に環境に慣れていった。
人も優しかった。


東京にはない仲間意識があった。


それでもなお、暗闇のエンターテイナーは
おどけていた。

みんなを笑わせるのが楽しかった。


1人でいる時は毎日ワインをひたすら飲み
過ごした。


指をカッターで切り、白ワインを
赤くしようとした。


ほんのり赤みを帯びた安い白ワインは
極上の味だった。


犯罪こそしなかったが、
みんなを笑わせたり、楽しませたかった。


これは
祖父や父が、飲み屋でやっていた事だ。


暗闇のエンターテイナー
かつての祖父や父がそうであったように。


たった一つの違いは
お酒かクスリか。


クスリは合法の覚醒剤だ。


社会から振り落とされた人間が
まともな人間になるための。


過剰な摂取が
僕をエンターテイナーにさせた。

躁状態になるのだ。


また、夏になるとサーフィンを始める仲間が増え
束の間幸せだった。

仕事も順調ではいたが、
プライベートで女性と付き合うと
たちまち彼女達は前と同様
ほどなくして逃げて行ったのだ。


本質を見る目が無く
自分本位で
キリギリスのように
ヴァイオリンを奏で続ける。


年齢を重ねる毎に
振る舞いや態度や真面目さを
求められるようになったが、


出来やしなかった。 

かすみは今どうしてるだろう?


出張途中の車から
思い切って電話した。


もしもし


変わらない声が僕を包んでくれた。


自分だけの居場所が欲しかった。


花と話し、自然に同化しているような
かすみに僕は無償の愛を求めていた。

本当はかすみの心の
つっかえを取りたかったのに
いつも逆だった。

でも大阪で少しだけ会うことになった。

かすみに電話する時は
死のうと思ってる時だけだった。


話しかける事すら
いけない事だと思っていたからだ。


ジャンキー、前科者、TATOO男

これは魔界の住人だ。

本当の地獄は
帰るところがないこと
転落して上を向く事だった


下には死しかない。

"ガキを作って長生きしたりゃ
ドアの限りして眠れよ、watch your boy

油断してたらバットの餌食さ
そんな風になりたくなけりゃ
watch yor boy


いつも頭の中はいっぱいさ
他人を蹴落とす事で
エリートさ
カッコがいいぜ
お前ら
いい思いをしてる奴らを
真似るだけじゃ嫌なのさ

隙があれば足を引っ張って
苦しむ顔を見たくてウズウズ
そのくせ決まった顔で
道徳を気取りやがって
テメェに火の粉がかかりゃ
置き去り裏切りなんでもオーケー"



何回もプレイしたバンドの台詞
80年代の当時の社会風刺の曲

浮かんでは消え、浮かんでは消え
消えた後にはそこにたどり着けない
自分は2000年代を生きる
暗闇の狂気のエンターテイナーだ。


お姫様は空想の人
かすみは雲に浮かぶお姫様だった。

俺なんか、

俺なんか、


何がアウトサイダーだ。

単なる意気地なしさ。


"体がなきゃ
誰が誰がお前を

体がなきゃ
だだだだ誰がお前を

綺麗な台詞のバーゲンセールだぜ

我慢が出来なんだねぇ"


付き合ってた彼女とカラオケで歌った。

もちろん僕のレパートリーの
1つとしか捉えてないから
メッセージなど届いてない。

いよいよお別れだ。

"give it to me, I say good bye."

痩せすぎて、笑う力も残っていなかった。


恵まれただと?

犯罪者になってからでは遅すぎた。

両親を責めたりはしない。

もっとその先の呪い
脈々と受け継がれてきた
血の濃さを、恨んだ。


乗り越えるのも自分だけど

今さら…


中々止まない横殴りの雨が
窓を濡らす。

ベランダのとっておきの
タバコの吸い場が台無しだ。


ネクタイはしても
必ず第一ボタンは付けなかった。


ワンタッチの大きな黒い傘を差して
湿った地下鉄に乗った。

特に何か思ったわけではないが
大阪から実家へ突然帰った。

新幹線は乗り心地が悪かった。

3人掛けの真ん中で雨降るレールを
スーパースピードで駆け抜ける。

午後、突然実家に戻った母は驚いていた。

何があったのかすかさず聞いてきた。



小さい時のこと

記憶がない


自分も働き、
育てのメイドのおばあちゃんに任せっきりだったと。

メイドは僕をおぶって、
ダメ、ダメと繰り返すだけだった。

あんたは泣かない子だった

手がかからないいい子だったと。




泣かない子供?

そんな子供などいない。


母も同様、生きていくのに精一杯で
暴君の祖父のもと、終日働かされて
息子との時間が極端になかったらしい。


僕が覚えてるのは
安っちい薄暗いベニヤの
暗い暗い部屋から差す小窓の
一筋の光だけだった。


母は一度、辛過ぎて長女をおぶったまま
中央線の橋の下、このまま
北海道に帰ろうとしたらしい。

奴隷だ。


寝てる時すら、僕と別々だったと。

これが文句ならただの駄々っ子だ。

そんなんじゃない。


戦争で産んだ歪んだ人間の欲が
日本すら変えてしまった?


結局人間がクソなのか…


答えが壮大になり過ぎて
地球規模になったとき
iPodでジュリーロンドンを聴いた。


もう答えなんて…


20時の大阪行きの新幹線内は混雑していた。

ビールとつまみとお弁当の匂いで
気分が悪かった。

新大阪駅に降りると、
土産袋を片手にする
サラリーマンだらけな光景が
妙に滑稽に見えた。


明日は

大阪にかすみがやってくる。

何をどう伝え
どう接したらいいのか

彼女自身も同じだった。


何をどうしていいのか
感情の赴くままに
スケジュールの隙間を縫って
少しだけ会える事だけが
お互い分かっていることだった。


どうしよう


どうしよう


移動の景色の中
かすみは色々な事で頭がいっぱいだった。


最初に何話そう?

本当に会えるのかな?

電車の窓に映る自分の髪を
何度か整えた。

これでいいかな?

話しかける余地はなかった。


深呼吸をしても
味わったことのないドキドキが
頭の中をかき混ぜていた。


かすみ

僕はあなたが伴侶である事を望みます。

限られた時間の中で
そんな事言えるのか?


会ってみないとわからない。


2人は世間の事を束の間忘れてていた。


当日、雨である事を恨んだ。

ベストな状態で会いたいのに。

それなら雨よ、
どうか2人の心まで潤してください。


初めて知り合ってから
十数年
世の中もすっかり変わり

変わってないのは僕たちだけだった。


初めて見るかすみに

つみたてのストロベリーのような
ピュアな甘さと

毎日窓から吹かれる風で
邪心のかけらすら知らないような
ディズニープリンセスのような
ひたすら純心な面持ちで

くすぐったいような
恥ずかしいような
触れたことのない女性像に
戸惑ってしまった。

お城に幽閉されたプリンセスが
小さか動物達と協力して
街に飛び出してきたのだ。


紅茶はダージリンかな

焼き菓子はどうしよう?


執事のような不思議な気持ちだった。

〜見つめ会えない2人〜


かすみは僕の部屋で
自分の部屋との違いに興味を持っていた。

これが男の子の部屋かぁ。

サーフボードにバットマン、
見たこともないDVDの数々。

所狭しと置かれたものに
目をやった。



ねぇ、初めて会ったね


ようやくベッドに腰掛けてゆっくり
話し始めた。

うん、十数年振りだね

私まだプリクラ持ってる

え?
そんなん、あるの?

わたし、貰った手紙全部持ってるんだ。


丁寧に過去をなぞる話を少しずつした。


ただ、見つめ会って話すわけではなかった。

かすみは
会ってもかすみのままだった。


僕はそれが嬉しくて、
クリスマスの前日のような
気分だった。


精一杯大人ぶりながら
ありのままを話した。


いつもありがとう、かすみちゃん


ここは心療内科ではない。

治療やカウンセリングの場所ではない。

少しの間が空いた時、かすみの細い手に
手をかけた。

時間がピタリと止まった気がした。


その時初めて2人の目が合った。

傷ついたプリンセスと
暗闇のエンターテイナーは
その後の展開がどうなるのか
全く予想がつかなかった。

重なる手は1mmも動かず
時間だけが世界中に平等に与えられた唯一のもの。


かすみが立ち上がった。

ドキドキと混乱とどう立ち振る舞っていいのか、
次のスケジュールが一気に頭に飛び込んできたのだ。


ねぇ、そろそろわたし行かなきゃ。


プリンセスの理性がうまく稼働し始めた。

イヤだ。心が全力で叫ぶ。


僕はかすみを抱き寄せた。


かすみは黙っていた。


帰らなきゃ行けないのよ。


うん。


僕は唇で彼女の唇をふさいでしまった。


これ以上目を覚ましたくなかった。


かすみとのキスは永遠の時間であり、
一瞬でもあった。


この部屋だけは
時間の概念を超越している。


ねぇダメだよ、だってわたし…


再度僕は唇をふさいだ。

かすみと僕は交わした。

愛撫に時間をかけ

とりわけキスは何度も。

かすみのしかめる顔に
慎重に体を重ねて 1つになった。


かすみの目に涙が浮かんでいた。
涙が僕の胸についた。


僕はそのまま、ただ一体感に
幸せを感じた。


恥ずかしいよ


そうだね、

嬉しいよ

わたしも。


その後しばらく
離れることなど出来なかった。


聞いたこともない肩書を持つ2人は
一男女として、心も体も裸だった。


お互い心の傷や痛みは
感じなかった。

充分陶酔し切ったあと、

キスをしてかすみはシャワーを浴びた。


今起きていることは
夢ではないと、
ほっぺたを両方つねってみた。


僕は初めての愛情に心底参っていた。


かすみへの想いが
気遣うことへ変わっている事も
明らかに分かった。


太陽は沈んだが、
クリアで明るい月はカーテンを
開けると目の前だった。


かすみ、
僕は膝をついた。

お願いがあります。


僕とずっと一緒にいてくれませんか?


当たり前だよ、
これからもずっと一緒だよ


ううん、、いや
その、恋人として一緒にいてくれませんか?ってこと。


かすみはうつむき、しばらくして
小さくうなづいた。


嬉しいけど、少し時間をちょうだい


あ、それはもちろん

何で?とは聞けなかった。

かすみには越えるべき北アルプスのような壁が
あったのだ。


かすみを見送り

時間がオーバーした事を詫びて


今日の出来事を整理する事なく
余韻に浸った。


こんな温かいことは無かった。

夜明け前にサーフィンして
日が昇る時の温かさに似ていた。

かすみの時間を置きたい気持ちは
肌で感じていた。


家のこと、結婚のこと、今抱えてる心のこと


しばらくすると、
いつもなら可愛い便箋で届く手紙が
少し固い感じの便箋で届いた。


開けてみると
イラストが描いてあった。


絵描きとは程遠い可愛らしい
授業中描くようなマンガのような
イラスト。


泣いてるネコの絵だった。


そして2枚目には

ごめんなさい。

わたしは一緒に入れないよ

嫌いとかそんなんじゃなくて

わたし強くないの

すぐ泣いちゃうし、力になれない

あと…

ここで手紙は終わっていた。

直感的にさよならではないことは
わかった。


それは甘い行為で人を引っ張りあげられるであろう
という僕の甘さだった。


しばらく連絡は途絶えたが、
繋がっていると信じていた。


悔いてはないが、もっと力が欲しかった。


自分とかすみの心の傷は
種類が違っていたのだ。


僕はいつものように朝スーツを着て出かけていく。


カラスはゴミを突つき、
ゴミ回収者とと共に逃げていく。


同じ朝、かすみは会社を休んでいた。

一日中眠っていた。


もう一生起きてこないのではないかという
深い深い眠りだった。


余りにも眠るかすみを気にして
月が近づいてきて
部屋を覗き込んでいるようだった。


かすみはベッドの中でも泣き続けていた。

あまりにも事が重すぎたのか
解決できず、誰にも話せなかったのだ。


妹たちは遠巻きにかすみを見守っていた。

眠りから覚めては眠剤を飲み、覚めては飲み
を繰り返すばかりだった。


かすみが深夜トイレで目が覚めると、
妹がいた。


お姉ちゃん
あった事全部話して
海行こう

かすみはしゃがむと
クスンと泣き始めた。
妹はかすみの頭を撫でて
ね、行こ?
と一緒にしゃがんだ。



あれから随分経った。
数ヶ月か1年か、2年か

かすみとの関係は一旦リセットされたようだ。


心の中に残るモヤモヤは
他人から見て分かるほどだった。

もはや、実在しない人のように感じていた。

僕はあれから仕事に打ち込んだ。
何も考えられなかった。


その後何人かの女性が僕を通り過ぎたが
全ては儚い幻のようだった。
一瞬で過ぎていく。
もう後ろ姿など見なかった。

かすみからの連絡は相変わらず
不定期で期間も長く、
季節をまたぐ事もしばしばあった。


雪が降り、春一番が吹き、
新緑と日差しで
コントラクトの強くなった
街の色が濃くなる頃、


会社からの人事異動があった。
僕は東京に戻る。


会社はチェスの駒のように
簡単に人の人生を左右しやがる。


大阪では僕を可愛がってくれた先輩や
後輩が出来たので
心底寂しかった。


不安を感じつつも
しばらくの間は何とか襲いかかる業務の多さに
追われていた。


毎週の連泊出張と仕事で
自分に目を向ける余裕がなかった。


馴染みのある長野とはいえ
人々と近しくなるには時間を要した。


3年間
北アルプスを見続け
上高地付近に行き、
妙高、黒部、戸隠、軽井沢
あらゆる自然に身を置いた。


その中では音楽なんて聞かない


葉が重なって揺れる音、
静流の以外と大きな音
山道でみかける野生の動物たち


浄化されるのが実感できた。


かすみにもたまに連絡はしたが、
お互い辛い時の特効薬のような
役割でしかなかった。


でもかすみとの電話は
小麦粉と砂糖とバターだけのクッキー
少しだけ甘く、苦く、でも優しい
カモミールやレモングラスのような
ハーブティー
後味は口の中に何も残ってないような感じに
してくれるのだった。


今見えてる景色、元気?最近どう?
今何してるの?

尖らず、なめらかで爽やかで
記憶に残らない夢の中のような
短いものだった。

かすみは
相変わらず心は
お城に幽閉されたままだった。

そして決して派手ではないが、
美術展や買い物、友達との紅茶、
女の子だけが訪れる事を許される世界にいた。


日常のルーティンに
慣れすぎて
逆に現実から離れる事も出来ないでいた。


僕との連絡も
途切れない程度に
文通するかのように。


そしてあの時何もなかったかのように。


そしてたまに小さな恋心をぶつけながら


何とか繋がっていた。


といっても、元の関係に戻っただけだった。

メッセージのやり取りを遡ると
2017年だった。


季節に1回ほど。


かすみのことは忘れることはなかった。


2人とも相手を思いやり

欲を忘れ


理性の森と感性の森と
芸術の森と優しさの森と
悲しみの森へ

会話で誘った。

この距離感は
僕たちだけのものだ。


かすみはいつものように眠剤の前に
SNSを開いていた。


シトシト聞こえないくらいの
雨の中
罪悪感に打ちひしがれた
かすみの気持ちを


僕に伝えてきた。


それは優しすぎるが故に起こる
胸の痛い出来事だった。


かすみも毎日を戦っていた。


僕は思いつく限りの言葉を書き
かすみに寄り添った。


かすみが霞の中に幽閉された
プリンセスである事が
証明された時でもあった。


かすみは混乱していた。

それはずっと変わらないもう1人の自分との
対話でもあった。



僕は鏡だった。


姿見に映る僕は
家族がいる幸せな人間なはずなのに
顔だけが黒く塗りつぶされた。

クスリの過剰摂取が始まっていたのだ。

かすみの痛み、悩みもがく苦しみ

時は進んだり、戻ったり

時系列の存在しない4次元のような世界だった。


お互い2人目の顔が出始めていた。

かすみはただ内面にこもり
ベッドの中で夢に生き


僕はありもしない笑いのピエロとして
突き抜けた演技をすることで
生きていた。

滑稽で周りから不思議に見える2人は
役は違うが役者になっていた。

かすみも僕も夜が好きだった。
というより
眠ることで少しでも裏の自分から逃れられることが
唯一の救いだったのかもしれない。


2人で夕暮れの話を何度もした。


夕暮れの太陽はいつも優しい顔だった。

さようなら、お前たち

今日も苦しみ抜いたね。

俺のことを嫌いにならないでくれ。


そう言って滲んで消えていくのだった。

東からは
痩せこけた月が
ビルの間から、
山の隙間から
見えてきた。


僕たちは月が見えると
お互い愛を伝えあった。


かすみは会社の中では
静かだった。

元々前に出るタイプではなかった。
目の前の仕事を淡々とこなしていた。


時計を何度も振り返りながら
あと何時間
あと何時間
と逆算ばかりしていた。


かすみが行きたかったのは
近くのエリアの花と水の見える
公園だった。



日が沈む前に
美しく天国に見える
地域紙でそう紹介されていた。

ただ、
天国のように見えるには
季節、時間、天候が一致した時だけだった。


それが今日だった。

小さな車を飛ばして
幸いに信号一つ引っかからずに到着した。


普段静かなかすみがバタバタしてるのを
同僚たちは不思議な目で見てた。


かすみは1番見晴らしのいいベンチに座り
花と空と向き合った。


夜までのわずかな時間、
乗り越えたい事があった。


かすみは体で感じられる全てを
公園に注いだ。

しばらくすると、かすみの体は溶け
着ていたワンピースだけがベンチに残った。


わたしが消したいもの全て
消し去りたい

15歳の夏

美術部に所属していたかすみは
毎日一生懸命デッサンに勤しんでいた。


描いては描き、描いては描き
時にはイタズラ描きや
自分のネームもその時決まったものだった。


この歳独特の、女子の方が男子より
色々な事に精通していたり
多くの女子は男子が子供っぽく見えた。


遅くまで筆を握って、自分の手を
描いていた時に
顧問の先生が現れ、
かすみ、デッサン上手だね
もっと全身を描いてみたら?

見上げた先生の顔は
優しかった。

同時に認めてもらえた事が
なんだか嬉しくて
取り掛かることにしてみた。


帰ってから
美術の本を見渡し、勉強した。

何度も練習して自分らしさの出る絵が描けた。


次の日、顧問の先生に見せた。
彼は喜び、絵を褒め称えた。

かすみ、いいね
らしさが出ている。

コンクールにも出られるよ

かすみは嬉しくなった。

部室を出ようとすると、

かすみ

先生が読んだ。

何ですか?

僕はかすみのことを描いてみたい

きっと勉強になる。


部員はモデル慣れしていたため
快諾した。


なんだか恥ずかしいけど大丈夫です。


放課後のスポーツ部が片付けを終える頃
先生はかすみを描きだした。


ありのままに近い状態で書きたいんだ。


かすみは拒絶した。
ヌードだと思った。

嫌です嫌です、絶対嫌です!!


違うよ、
体に白い細かいレースを
まとうんだ。

美しい絵を見せたい

かすみの実力は全てを知って開花されると思うんだ


かすみは戸惑った。

薄暗くなった部室に
衣のような白い布が置かれた。

困惑と恥ずかしさ、なんとも言えない背徳感に
襲われながらも
仕上がる自分の絵に興味が勝った。

先生向こうに行ってるから。

そう言って扉を出た。


白い少しレースがかかった布を
上着とスカート、ソックスを脱ぎ、
身にまとった。

しばらくすると絵の準備をして戻ってきた先生は
いいね、それじゃ始めよう


かすみは椅子に座り、
足を組んで横を向いた。

肩と足の大部分は露出されていた。


耳が赤くなるのが分かった。


時計のコチコチ音だけが響いた。

どれくらい経っただろう

足も痛くなってきた。

かすみ、おいで


先生は美しい全身のかすみの絵を見せた

そこには凛としている少女の
美しい絵があった。


キレイ


かすみは思った。
わたしには描けないレベルよね


そう思った束の間
先生はかすみを抱きしめた。


えっ、えっ、何?


かすみは何が起こったのか理解できなかった。

15歳のか細い腕は男性なら力に敵うはずもなく、
ソファに倒れ込んだ。

突然唇を奪われ、抵抗する力も尽き
下着も全て剥がされてしまった。


かすみは考える力を無くしていた。


全てが終わって
放心状態のかすみを
先生が優しく抱きしめ
シャツとネクタイを締める頃


かすみは布をまとったまま服を持って
急いでトイレで着替えて
逃げるように帰った。


とても頭で理解することなど出来なかった。


帰りの電車はサラリーマンと学生が
ポツポツと乗っていた。


家に帰るなり
ただいまも言わず
シャワーを浴びて
部屋に閉じこもった。


コンコン

妹が代わる代わるノックしても
かすみは返事すらしなかった。

どういうことなの?

かすみにはまだ重過ぎる事だった。


ベンチでコーヒーを飲み終わる頃
辺りはすっかり暗くなっていた。

涙は止まらず、
顔はグチャグチャだった。

世界一キレイな時の、
お気に入りの公園ですら

かすみの心は癒えなかった。

会いたいよ

辛いよ

生きていたくない

かすみはメールを送った。

あの経験が足枷になってる。 

ワタシハヨゴレテシマッタノ 

僕は珍しく波の穏やかな夕方のサーフィンを
終えたところだった。

波はイマイチだが、誰もいない海に
1人占め出来る感覚を楽しんでいた。

美しくもあり、怖くもある。

家に着くと
メールが入っていた。


かすみからだった。



寂しいよ

苦しいよ


かすみ、どうしたんだ?

電話をした。


久しぶりに聞くかすみの声は
相変わらずフワフワしながらも
世界の終わりのような
感じがした。


かすみは何も言わなかった。

声聞きたかっただけだよ。

そっか、ありがとうね。

久しぶりだね、元気?

うーん、元気じゃないかな。
少し弱々しく笑った。


それ以上話さないかすみに
違う話をして
ほぐそうとした。


答えは返ってくるけど、
どこか返答に違和感があった。


かすみ
会いたいよ

わたしもよ

電話はそこで終わった。


かすみは眠剤を飲み、次の日会社を休んだ。


わたしはどうしたらいいんだろう

助けて


深い眠りにはならなかった。


朝、会社に休みの連絡を入れると
またベッドに入った。


全身を重い鉛で押さえつけられてるように
体が動かなかった。


そしてまた眠剤を飲んで眠った。


かすみが目覚めたのは
夜だった。


かすみが住んでいる辺りは
駅から離れた閑静な住宅街のため
夜遅くなると、
街の音はほとんど聞こえない。


そして家族も
深い睡眠についているであろう深夜、

さすがにかすみは
喉も渇き、お腹も空いたので
水を飲み、アイスクリームを食べていた。


カチカチに冷えたカップのアイスは 
寝起きということもあって
かすみには一口分削ることすら
時間もかかった。


前の晩から数えると
20時間以上経つというのに
目が冴えるような感覚ではなかった。
まだまだ眠りたい。 

かすみにとって今はっきり言えることは
眠りこそが現在から逃げる唯一の術だった。

かすみの現実とは
度々襲ってくるあの過去が
後悔であり、
自尊心の低さだった。


眠ることは

理屈ではなく
辛いことから脳が逃げるための
人間の仕組みなのかもしれない。


中毒者はみんなそう言われる。

したり顔のニュースコメンテーターは
こんな事件信じられませんね、
なぜこんな事が、
と言うが
当たり障りない言葉で
濁す意外ないんだろう。


人間を知れば、おそらく難病以外は
そんな難しいものではないと思ってる。


ただ、なってしまったものを
修復する技術は
未来のそのまた未来かもしれない。


夢の中では
かすみが黒いネコになってしまい
自分のお墓をさがしているという
変な夢だった。


安住の場に辿り着くのが目的。


ソファを見ると
ロシアンブルーの飼い猫の目だけが
光っていた。
彼にとっての家の中の定位置だった。


かすみはネコを頭から背中、尻尾の
付近まで2回ほど撫でると
目の光は消えた。
そして自分の腕にアゴを乗せ眠るのだった。

月のように丸く。


何かが欠けてどうしようもないとき
それを埋めるように
かすみと僕のお互いが存在していだ。


たった一回の接触と
手紙とメールだけで  
15年以上続いてきた。


本当なら、僕が週末に度々かすみを
訪ねていけばいいだけの事だった
のかもしれない。

クラブの酔っている女性に
話しかける事はできても

かすみの存在が特別だった。

好きを超えた空気のような。


年月がかすみを空想上の人にさせかけていた。


僕は毎日のように遅くまで仕事だった。


心斎橋から歩いて15分の
単身者ようなマンションに住んでいた。


街は明るく、
若者は眠ることなく
人気のクラブの前のコンビニは
待ち合わせ時間を潰すため
深夜は大盛況だった。


道端にはエナジードリンクの缶が散乱していた。

エネルギーを持て余している若者だらけなので
ケンカも絶えず、パトカーが
度々待機していた。


今日も僕は仕事終わり、
シャワーをサッと浴びると
後輩とコンビニで待ち合わせをした。


週末のルーティンだった。

行く理由も特にないが、
断る理由も特にない。


地下2階の階段を降りると


会話すら出来ない大音量なら薄暗い空間の中、
4つ打ちのダンスミュージックが
ドスドス流れている。

会話は耳元で大声で話す以外無理だった。

そう、話す場所ではないのだから
踊って飲むこと以外できないのだ。


ここも夜の時間の概念などないので 
誰も腕時計など見ない。


音のうるささや
麻薬の取引が
民間から警察へ苦情が入ると
警察の立ち入りの元、
音楽が鳴っていても突然1時に、
苦情が入らない時は4時に閉店していた。


ゾロゾロ若者が外に出ると
お互い始初待ちや違う飲み屋、
ラーメン屋、ホテル、自室などに
散り散りに去っていった。


普通というか、一般的な認識では
男女の自然な出会いの場なんだろう。


各々成果について
男たちは大声でと語り合い、
女性たちはこっそりと語り合い、または、
私たちは踊ること自体が好きなの
声かけてくる男ウザいなどと、
虚栄心を前面に出してたり、
ラーメン屋では負け戦について男たちが
笑っていた。


1万年前から行われていた
人間の男女の出会い儀式のようにも
感じられる。


僕は少し古びたロードバイクで
踊り狂ってかいた汗を乾かしながら帰った。

僕は、一人でいることが怖かった。


かすみと同じ時間、
自宅でアイスを食べて酔いを覚ましていると
余計寂しさを感じた。


花火大会のあと、パーティーのあと、
週末の何もない日中。

1人でいることは好きなのに
孤独を感じる事がいやだったのだ。


金曜日から土曜日へかけての
同じ時間、
僕はかすみ同様眠剤や数々の抗不安薬を
処方の倍飲んで眠った。

これが僕の孤独の回避だった。

満たされない欲求や孤独、
不安に思春期、幼児期
の記憶の底の底の記憶により
人は自分をコントロール出来なくなる。


アダルトチルドレンと
揶揄されることもある。


世間では恥ずかしいことだと
認識されていた。


今でこそ違うが、
当の本人からしたら
差別用語以外の何物でもなかった。

そんな主張とは裏腹に
たちまち眠剤の影響で
起きる時間など
関係なく眠るのだった。

僕の夢は
激しい嫉妬だった。

かすみの電話が着信拒否になっていて
SNSのアカウントから
自分が削除されている。


一切関係を断つようなかすみの
不可解な行動に
夢なのに腹が立ってしまった。


僕の中の根底に
かすみの事が本当に好きなんだと
気づかされた。


本当の自分を知りたければ
マリファナを吸うか
ケミカルの薬を飲めばいい。

もしくは相当量のお酒。

自分の意思とは無関係に動くのだから。

大学生のある日
ただいるだけの授業が終わると
同じ大学内のバンドのメンバーから
連絡があった。


今からウチに来いよ
イイモンあっからさ


二つ返事で彼の自宅に向かった。

地方出身者の彼は
下北沢駅北口から歩いて10分ほどの
少し奥まった隠れ家的なところ、
やや古びたアパートを借りていた。


シチュエーションは申し分ない。
僕は下北沢が大好きだった。


決してものすごく洗練された街ではないが
雑多感のあるオシャレな商店街に
溢れんばかりの古着、マニアなCD屋
スケートショップ、

若者のカルチャーが詰まった街だった。

そのカルチャーを彼の自宅で体験したのだった。

このラインより上のエリアが無料で表示されます。

テーブルを囲み、

アルミホイルを上手く小さな
パイプのように作り

そこに乾燥したマリファナをほんの一つまみ
載せる。

火をつけ、息を吸いながら
タバコとは違う吸い方
一旦口に含んでから
肺に入れるのではなく
息を吸いながら
そのまま直接肺に送るように吸った。


何回かむせる。

味も良くない。

うわー、なんだよ、これ。

ゴホッゴホッ、、、、、

それは一瞬にして来た。

フフッ


クククッ


クックックッ


アーーッハッハッハッ


バンバンバン!


面白すぎて床を叩く。

何も現実には起きてない。

このままだと腹筋は簡単に6個に割れるだろう。


笑いが止まらない。


どんなに自分で制御しようとしても
どんなものを見ても
ほんの日常の些細な
なんでもない事が
おかしくて
腹筋が崩壊する程わらってしまうのだった。

マリファナは症状は人によって様々。

友達はみんな目がトロンとしてるだけで

突き抜けて笑い転げてる
楽しそうに笑ってる僕を見て
無理に笑おうとしていたけど
誰も出来なかった。


僕は笑う。
笑い過ぎて立たない。
なんて笑いって楽しいんだ!

でも、笑いすぎて息が吸えない。

そこには
俯瞰して見てるぼくもいる


これが僕の本質なのか


割と広めの古びた1kの一室で
長髪、白いピチピチのHanesのタンクトップで
笑い過ぎて息も絶え絶えに
なっている自分を眺めた。

笑う事自体が好きなのか
いわゆるゲラというタイプ

もしくは笑う事で
辛い事を帳消しにしようとしているのか

バイト代をためて
街でマリファナを買うようになった。

週末になると、
いつものメンバーで
ポテトチップとコーラ
ギターで曲作りをしながら
マリファナパーティーを楽しんだ。

中指を突き立て
いい曲出来たぜと
おどけて、ギターを持ち
1番細い6弦をピンピンと 
弾くだけで
大笑いしていた。

一体何がおかしいというんだ。

頭がおかしいんだ。


狂ったような嫉妬の夢から覚めると
身体中が痛かった。

また床で寝てしまっていた。

ビールの空き瓶のように。


少し明るくなり始めたその日の朝
カラスが街の食べ残しを取り合っている。


僕は一気にシャワーを浴びて
外に出た。


地下鉄を乗り継ぎ、特急に乗った。

休日の朝だからか、
慌ただしさは無かった。


特急にしては速度の遅い列車の中
街から次第にビルやコンクリートが消えていった。


ウトウトしてると
やがて車掌の声が目的駅を伝えた。

お昼手前だった。


駅のロータリーのミスタードーナツは
家族で溢れていた。


甘くて溶けそうなドーナツとコーヒーを
ゆっくり食べながら

メールした。


昼間の光は眩しくて
焦げてしまいそうだ。


メールは数時間経ってから返ってきた。

かすみは眠っていた。  

僕のメールに
いつものように
ネコみたいに
おはようと書いてあった。


会いたくて来た

会えないかな


メールを続けると


本当に?
なんで?!
どこにいるの?!

かすみはベッドの中から
起き上がった。

僕は溢れ出た想いが行動に出たことを
冷静に保つ事が出来なかった。


少し、時間、もらっていい?


かすみは急な誘いに戸惑いながら
支度を始めるのだった。

一緒にいたネコは
かすみが起き上がるのを
ジッと見ていると

また丸くなって眠ってしまった。

かすみが来たのは
2時間が過ぎてからだった。


ロータリーの駐車場に来て
僕にメールをくれた。


着いたよ
どこ?

黒のコットンのTシャツに、
甘い香りが染み付いていた。


かすみ


止まっている車に声をかけると
かすみは両手に手を当てた。


細くしなやかな腕に
繊細な指
華奢な守りたくなるようなかすみが
運転席で固まっている。


とりあえず乗って


かすみの柔らかい声に促されて
僕は助手席に乗った。


どこへともなく、車は走り出す時した。


かすみは聞きたい事がいっぱいあったが、
いざ会うと、
静かだった。


なにを話していいのやら
どこへ行っていいのやら
信号と標識で
頭はクルクル回っていた。


かすみ
ごめんな、いきなりで。

僕はかすみに昨日見た夢の話をした。


かすみは黙って聞いてくれた。


混乱の車の中は少しずつほぐれ

もー、前もって言ってよ~

と言うのだった。


かすみはいつも語尾が~で終わるような
甘くて幼くて、それでいてセクシーな
話し方をした。


海に着くと
たわいもない話をした。


あの船はどこから来たのかな

風はどっちから吹いてる?


途中のコンビニで買った紅茶は
いつもより美味しかった。


かすみがいると、僕は落ち着きを取り戻し
時間の流れがゆっくりになった。


お互い波長が合うのに時間はかからなかった。


会話は丁寧に1ターンずつ続けられ

5秒空いたその時
僕はかすみにキスをした。


恥ずかしがって下を向いてしまった
かすみの顔を両手で包むように
優しく持ち上げ
何度も何度もキスを続けた。


人は感情で動く。理屈では動かない。


その夜
2度目となる繋がりを持った。


ほぼ真っ暗な部屋で
僕たちは何度も結ばれた。


僕たちは心の中から
ようやく出て来たんだ。


現実を帯びた、人間臭い、
そして温かい繋がりに
酔いしれた。


わたし、そろそろ帰らなきゃ


そっか、そうだね


抱きしめたかすみは
想像のままの美しくて透明な女性だった。


僕たちは付き合うことになった。

かすみは僕からの申し出に
少し時間を置いて
うん、と小さくうなずいた。

わたしなんかでいいの?

いつもの奥ゆかしさが愛おしかった。


最後にロータリーでキスをして
僕は電車に乗った。


帰りの特急は
相変わらずゆっくりだった。

暗闇を走って走って
家に着いたのは深夜だった。

かすみは家に着くなり
部屋に入った。


今日1日を
何度も頭の中で再生していた。


深い心でつながっていた僕たちは
現実をどう生きていくのか
分からなかった。


でもこうなる事が1番だとお互い信じて疑わなかった。


しかし
かすみには越えられない壁があった。

心の傷と家族の存在だった。

いつか話そう、話そうと思いながら

近くて遠い距離の付き合いが続いた。

誰にでも持っている秘め事だが
2人とも闇が深過ぎた。


会ってる時は
そんな事、あたかも無かったかのように
お互いの体温の温かさや
緑の移り変わり
季節によって高さの違う空の高さ
行ってみたい国ランキングなど
笑いと温もりの絶えない恋人だった。


気づくと3年が過ぎていた。


3年目の付き合った記念日に
僕はかすみに再び会い、指輪を贈った。


左手の薬指に。


僕と結婚してください。
どうか、お願いします。

僕はひざを付いた。


海は穏やかで、優しかった。

かすみは
泣いた。

色んな感情がコントロール出来なかった。

嬉しい、不安、緊張…

その場ではありがとうと言ってくれた。


黙っているかすみに

もしオッケーなら
ドライフラワーを手紙で送って

とお願いした。

1週間後
美しく儚いドライフラワーが届いた。


僕たちは結婚した。


ささやかな式をかすみの街で挙げ

かすみの家族は温かく娘を送り出してくれた。

ウェディングドレスを選ぶ時
サイズ感が合わなくて、苦労して探した。

かすみの顔色が少し曇った。

わたし、ドレスに拒否されてるのかな

そんなこと、ないよ
どれもかわいいよ

僕の言葉も右から左へ。


すると、ハンガーの後ろ側に
引っかかってズレて
隠れていたドレスがあった。

かすみはそれを引っこ抜き
鏡に当てた。


これにする!


ドレスもかすみも引っ込み思案だった。


そして、1番美しかった。


かすみの家族は僕に
くれぐれも娘をよろしくお願いします。

と頭を下げてくれたので
僕も恐縮して、
こちらこそかすみさんを
ずっと幸せにします

と力強く答えた。


かすみの2人の妹達は泣いていた。

目が真っ赤なのは明白だ。

ハンカチで目を押さえながら
3人で抱き合った。

式を無事に終えると
僕たちは都会のホテルに
向かった。



かすみと僕は
抱えきれない幸せで胸がいっぱいだった。

ホテルでグラスワインを頼み
1杯だけ、2人で祝った。


なんだかまだ信じられないね

そんな会話が続いた。

高層階から見るその景色は

地上に映る星を映し出していた。

上を見ると、半月だった。


やっぱり月の方がいいねと
キスをして2人で笑った。

住むところは僕の住む街だった。

小さな公園がポツリポツリ
それ以外はビルと個人店に囲まれた
様々な人種の住む都会の外れ。


かすみは専業主婦だった。

僕が帰るまで、

絵を描いたり、

色んな形のクッキーや
ケーキを焼いて

帰るといつも甘い香りでいっぱいだった。


いつもの
おかえり~
が聞こえると僕は安心した。


外ではいつでも手を繋ぎ
家では
動けなくなるくらい
愛し合った。


相変わらず2人とも
薬は飲み続けていたが、
寂しいという言葉がなくなり
心と体が溶け合った
まるでプリンとカラメルソースが
混じり合ったようだった。

家の中は
かすみのお気に入りのアンティークな家具や
小物、絵に包まれ、
温かみが増して居心地がよかった。


今日もキレイな半月だ。


都会にしては澄み切った空のせいか
目を凝らしてみると、
もう半分の照らされてない
黒い部分の半分の月も見えたのだった。


〜ハーフムーンの呼ぶ声〜



かすみは僕が帰宅すると
いつも紅茶を入れてくれた。

透き通ったダージリンを
ティーポットに入れて出してくれる。

ウェッジウッドのティーカップに
ぴったりな組み合わせだった。

僕はそれが毎日の楽しみの1つだった。


必ず飲む前にキスをしてから
熱い紅茶を飲む。


僕はいつものように
用量以上の薬を飲んで
仕事のパフォーマンスを保っていた。


人を喜ばせようとする姿勢
それは授かった先天的なものなのか
後で強迫観念として
植え付けられたものかは分からない。


パフォーマンスの質が上がるほどに
沈む落差が激しくなってきていた。


かすみはかすみで
住ま慣れない遠い街で
僕が仕事でいない時
独りになることを
段々と恐怖になるようになっていた。


かすみは
それを薬で必死に抑えていた。

昔の傷や、孤独は
1人になることで
徐々に浮き堀りになっていたのだ。


2人で抱き合ってベッドで眠ろうとすると
かすみは必ずと言っていいほど
涙目がポロポロ出ていた。

少しずつ2人に陰りが出始めていた。



お互い、月の欠けた部分だけ
目がいくようになっていた。

それをどうにか支えていたのは
お互いを愛する気持ちだった。


ささやかな会話にそれが見て取れた。


ある、半月の夜
かすみの携帯に電話がかかってきた。


末尾は0110
警察からだった。

もしもし

かすみは見知らぬ番号に出た。


お宅の旦那さん
今、こちら署で勾留しています。
御来署願えませんか?

かすみの血の気が引いて
顔が薄いブルーになった。

かすみは急いで
深夜の警察署にタクシーで来た。

身分を確かめた上で

警察官が言った。

実は…

あなたの旦那さん
麻薬所持と
窃盗の罪で現行犯逮捕しました。

かすみは

え?
え?
段々と気が遠くなるようだった。

ウソだ、違う
そんなこと、、あるはずない


間違いじゃないんですか?

残念ながら、事実です。

今日はあなたが身元引受人となりますが、
後日行政と司法からそれぞれ、連絡がきます。
出頭してもらい、
いわゆる検察による書類送検となります。
略式裁判になるでしょう。
初犯であれば、勾留は無いと思いますが
余程の事がない限り、罰金刑は間違いないです。

取り調べ室から出されて
かすみの元にきた僕は
下を向いて黙ったままだった。


言葉が無かった、感情もなかった、
言葉だけがようやく本能的に出る。


かすみ

かすみ


かすみは僕の名前を何度も呼び
ウソだよね?
そんなことするはずないよね? 

…。

とにかく今日は帰ろ?


かすみに手を引かれて歩いた。

明るい夜道をゆっくりゆっくり歩いた。

僕は一般の人から見たら
一見普通に見えたのだが、

すでに悪の華に染まっていた。


理性がなくなり、
ドーパミンだけが出ていた。


半月の反対側にいつのまにか
いたのだった。


家に着くと
かすみはずっと泣いていた。


何をどうしていいか
分からなかったからだ。


ただ身についた習慣からなのか
美しいダージリンティーだけは入れてくれた。


ねぇ、何かあったの?

かすみは赤い目をして尋ねた。


僕はうっすら笑顔を浮かべて

仕事がうまくいってるだけだよ

と答えただけだった。

私、怖いよ


そうだよね、ごめん


こんなに長く感じた夜は
お互い初めてだった。


静かな夜が続いた。

かすみは愛に誠実だった。

夫が犯罪者になってしまったことは
胸の奥にしまっていた。


僕は
羞恥心と情けなさと劣等感と戦っていた。

かすみはこんな僕を
誠心誠意支えてくれた。


わたしも一緒に悪いことしちゃう~


むしろ茶化すくらいの姿勢で
いてくれた事が嬉しかった。


もちろん道徳に反する行為には
賛成こそしないものの、
2人で誓い合った事に対しては
全く影響がなかった。 


しかしかすみは時々、胸がチクンと
するのが気になっていた。

街にカボチャが飾られる頃、
かすみはアルバイトをすることにした。


地下鉄で2つ離れたフラワーショップ
で短時間バイトを週に何回かするのだった。


花屋はいつも盛況だった。
季節の花が月毎に替えられ
お客さんからの
花束作りで大忙しだった。


水で手は冷たいままだし、
店頭からは冷たくなり始めた風が
常に当たっている。


勤務時間こそ、そんなに長くはないが
寒がりのかすみにとっては過酷な職場だった。



ある日、真面目に働いているかすみに
店長が近づいてきた。

ここにはオーナー店長含め、
5人ほどのアルバイトで
シフトを回している。


かすみちゃん
いつもご苦労さま
かすみの手ごと握って手渡したのは
温かいミルクティーだった。


あ、あ、ありがとうございます

いきなり手を握られて
びっくりしたが、
優しい人なんだなと
好印象を持った。


自分では気づかなかったが、
ドキドキが止まらなかった。


帰って僕と話したが
少し上の空のように感じた。


翌日出勤すると
アルバイトはかすみだけだった。

1分の休みもないくらい
花束作りと花の管理をやり続け
今日は閉店まで勤務する事になった。


閉店10分過ぎにようやく最後のお客さんが
帰って行った。

かすみは急いでレジしめを行い
掃除をして帰ろうと
薄手のレインコートを
羽織った時
店長から声がかかった。

ドキっとした。

かすみちゃん

今日ご飯食べて帰らない?


え?わたしですか?

えと、あ、大丈夫です。


2人はお店のシャッターを閉めると
街の賑やかな方に向かって行った。

空調が温かくて
センスのいい洒落た店だった。

スープ、サラダ、前菜、軽めのメインディッシュ、
そして赤いグラスワインだった。


いきなりこんなのデートみたい!


かすみは驚きを隠せず
ただ呆気に取られていたが
彼の絶妙な話し方やら豊富な話題、
かすみを気遣う態度が
段々とかすみを酔わせていた。


そして、


かすみちゃん


これ、かすみちゃんのために作った
特別な花なんだ。

フワッと突然かすみの前に
差し出した。


ワインの肩押しもあり
かすみは受け取った。


みんなにこんな事するんですか?


オーナー店長は首を横に振った。


そんな事ない

かすみちゃんが初めてだよ

結婚しているのは知ってるけど
気持ちには逆らえない


かすみちゃんを
好きになってしまった

大変申し訳ないと思いつつ
今日誘ったんだ


かすみは彼の目をジッと見つめ
それがウソではない事は分かっていた。

普段の行動の随所随所で
好意的と取れる行為がいくつもあった。

そして
それを悪い気がしないという
自分にも気付いていた。


かすみは花束で顔を隠した。

酔っているのではなく、
顔が赤くなっているのを知っていたからだ。

急いで退散しなければ…


オーナー
いつもよくしてくれて
ありがとうございます

わたし、もう帰りますんで


というとパッと腕を掴まれた。


帰っては、ダメだ。
お願いだ。

いつも優しいオーナー店長が
真剣な口ぶりだった。


僕はその頃、薬で
眠りこけていた。

いつもならとうに帰ってきている
かすみが帰って来ていない。


かすみからのメールには
バイトの人達とごはん食べてくるね
いい?


と入っていたが
僕は気付かなかった。

目が覚めると
真っ暗な部屋で
よろめきながら立ち上がって
ミネラルウォーターを
一気飲みした。


かすみは、、、?
まだ帰って来てない

時計の長身と短針が重なった。


かすみは体を重ねていた。

背徳感と興味
好意と懺悔の気持ち


今まで感じたことないくらいの
SEXだった。


止めたいのに止まらない。


感情の分からない涙、汗
体液、体温の上昇
心の乱れ、敏感すぎる体


かすみは最早自分の力では
体を動かす事ができなかった。

帰ってきたのはそれから2時間後だった。

かすみの携帯電話の
僕からの着信は10回以上になっていた。

ガチャ
扉が開く音がした。


かすみ??


玄関にかすみを迎えに行くと、


ごめんね、、
ワインで酔って介抱してもらってたの


そっか、
大丈夫?


かすみはすぐにシャワーを浴びたがっていた。


口には出さないが
お互い、何となく分かっていた。


シャワーをしてる間に
僕はハルシオンを一気に飲み
すぐ眠った。

かすみは
僕に布団を掛けた。


ごめんなさい


ごめんな


お互い心で謝っていた。

事実は聞くつもりはなかったし、
かすみもそれ以上の事は言うつもりがなかった。

僕が堕ちたからだ。


僕は自分を激しく責め、

でも表面上はいつも通りの自分、
いや、すでに偽ってる自分で過ごした。

悪魔はいる。

自分の中に。

殺してやりたい。

天使が悪事をするために嘘を言う。

それは天使ではなく悪魔というんだ。


〜地獄の果てに〜


何事もなかったかのように
お互いが接し、一年が過ぎた。


街は陽気なクリスマスの歌と飾り付けで
賑わっていた。

北風は首に巻きついて
遊んでいる。


その後、かすみは彼との関係を続け
僕は相変わらず薬依存で
夜の仕事のステージでピエロのマスクを被り、
社内の飲み会で人々を楽しませることを
唯一の拠り所としていた。


だからといって夫婦生活は
順調そのもので
ケンカもなく、お互い優しさで
溢れていた。


ある日風の冷たい
クリスマスの街に出かかることにして
陽気なシャワーを浴びていた。


手を握って街を歩いていると
ふいにかすみが手を離した。



フラワーショップの彼が恋人らしき女性と
親しく歩いているのを発見したのだ。


僕には分かっていた。
かすみは慌てて 


ねぇねぇ
あっちのイルミネーション見てみない?


かすみの言葉に
僕は黙っていた。


ねぇ?


僕は突然走り出した。

そして電柱に向かい、
力の限り頭を何度もぶつけ始めた。


血が舞った。


キャーーーー


街の人が騒ぎ始め
逃げ出した。


必死で止めるかすみをよそに
僕は一心不乱に頭を打ちつけ、
ついに倒れてしまった。


最後に見えたのは
汚れた街の綺麗な澄んだ空だった。


救急車が来て緊急搬送されて
家に戻ったのは病院に一泊して
翌午前中だった。


鼻と頭蓋骨に軽くヒビが入り
おびただしい出血だった。


それでも僕は笑ってしまうのだった。


出口が見えないよ


かすみはただ泣くばかりで
ずっとそばに寄り添っていてくれた。


入院を必死で断り、
自宅療養にしてもらった。


会社には自転車で転んだと言って
しばらく休む事になった。


かすみはアルバイトを辞めて
ずっと介抱し、通院に付き合ってくれた。


僕が痛み止めで眠りにつくと
必ずかすみは僕にキスをした。

sabath bladdy sabath
これこそ血の安息日だ。

かすみは決意した。

お互い傷ついて、心で離れずに
ずっとここまできたけど、
現実はお互いが苦しんでしまう。


年も明けて寒さが大暴れする頃
傷も癒えてきたが、
ある朝目覚めると
かすみはいなかった。

手紙とともに。

手紙にはこう綴られていた。


ごめんなさい
わたし達
前に進めなかったね

しばらく冷静に考えてみます

その間、連絡はしないようにしましょう

わたしもどうしていいか
分からないよ

こんなに好きなのに

クククッ

ククッ

フフフッ

アーッハッハッハッハ

笑いが止まらなくなった。

可笑しいんじゃない。

多分僕を絶望から救うためにくれた
神様からのギフトだ。

かすみ

俺はどうしたらいい…


悪魔の顔はずっと笑って1日をやり過ごした。


暗闇のエンターテイナー


なんて皮肉なんだ。


〜×印の赤い目〜



ニットキャップのような包帯が取れると

額に×印の赤い傷が付いていた。

江戸時代に罪人が額に
罪と刺青を入れられたようだ。


かすみはあれから連絡が無かった。

何度か連絡をしたが
返事は返って来なかった。

窓を開けて真冬の冷たい風を入れる。

脳を凍らせたかったからだ。


上司から電話が鳴った。

具合はどうだ、お大事にな、何かあれば
言ってくれ


ありがとうございます


そう言えば通院以外しばらく外に出てないな。

病院がてら、街に出た。

吐く息は白く、一瞬で消えた。


マフラーを巻いて包帯の上から
黒いニットキャップを被り
フラフラと商店街を歩いた。


ゲロとカラスまみれの汚い街だなと
改めて思った。

病院で診察を受けると
頭蓋骨のヒビは思ったより軽く、
順調に回復してるようだ。

たまに頭の中がズキッとするが
別に言わなかった。


家まで帰ると、痛み止めを飲んで眠った。


自分が世界のどこに立っているのか
分からなかった。

衝動に任せた行動は
結局こうなる。


インターホンで目が覚めた。

宅配業者からだった。


かすみからだ。


チョコレートと共に
家のカギ、そして離婚届の紙が
入っていた。


ごめんね

ごめんね


小さな小さな封筒の中に
それだけ書かれていた。


夢と思いたくて
薬を飲んでまた眠ってしまった。


森の中に腐るまで発見されなかった
死体のように。


誰か

僕を見つけてくれ


額の×印は段々と赤くなっていった。


〜言葉で表現できないこと〜



かすみは両親に
僕が転勤になったと嘘を付き、
戻ってくるまで実家で過ごすと言った。

両親は少し頭のを傾げながら

そうなの

何でそんな大事な事言わないの

とかすみをたしなめた。

色々あるのよ

かすみは静かに答えた。


かすみは毎日、夜になると
涙が止まらなかった。

ベッドに座り、涙が仕事を止めるのを
ひたすら待った。

そして毎朝腫れた目を見て
また悲しくなるのだった。



お昼になって腫れが引き始めると

軽くメイクをして
車で街を一周するのが日課になっていた。

目的はなかった。

家に居過ぎると気が滅入るのが
分かっていたからだ。


極寒の季節
一周30分かけて
ゆっくり丁寧に小さな車を走らせる。

見慣れた景色、見慣れたパン屋、見慣れた信号

平穏無事な景色でもあった。


途中で僕から着信が入っても
ドキドキするだけで
決して出ようとはしなかった。


自己嫌悪に陥っていた。


かすみもまた僕と同じように
自分が世界のどこにいるのか
分かってなかった。

2人とも暗闇を彷徨う小さな船だった。


かすみは手慣れたように車庫に
車を入れると
そそくさと家に入った。

近所の人に会いたくなかったからだ。


体裁、自分の弱さ、僕のことで
グルグルまわっては消えた。

会って話したいけど…

わたし、どうしたらいいの

もう今さら後に戻れない。

もしかしたら
鬱屈した人生だったのかもしれない。

周りの人が幸せそうに見える。

私は感情の出し方すら
分からなかった。

周りに歩調を合わせ
はみ出ないように振る舞ってきた。

静かな人生。


僕と同様、心が世界の外側で
肉体だけがあるだけだった。


たまたま人生のスクランブル交差点で
僕と出会い、ぶつかっただけだったのかもしれない。


かすみはその夜
アルコールを買って
何缶も飲んだ。

砂漠で見つけたオアシスの水のように。


体は酔ってきたが
心は溶かなかった。

今を抜け出す手段が分からなかった。


月が寄り添い
一緒にただひたすら
飲むのだった。


朝目覚めるとと月はいなくなっていた。


窓についたしずくを拭うと
自分の涙のように垂れ始めた。

かすみは手首を切った。


窓の滴のような美しい赤がしたたり始めた。


〜最後のラブシーン〜



かすみの母親が
部屋をノックすると

真っ白なシーツに赤いものが付いているのを見て
慌てて救急車を呼んだ。

かすみは運ばれ、
意識のないまま
手当てを受け、
数日間眠っていたままだった。

見慣れない番号から電話が鳴り
僕は電話を取った。

かすみの両親からだった。


なにがあったんですか?

娘が実は…

僕は急に頭の中がオンになり
光速でかすみの病院に向かった。


かすみ!


病院の個室を開けると
眠っているかすみの横に
両親が座っていた。



かすみの両親は
僕に何があったのかを聞き始めた。


僕は黙っていたが、

申し訳ありません

僕が不甲斐なくて

と詫びるとかすみの両親は激怒した。


何が原因か分からないが
あなたに関係してるとしたら
とても許せることではない


厳しい言葉だった。


両親は僕のニットキャップから
はみ出る包帯を妙に感じつつ、

とりあえずしばらく安静にしておかなければ
ならないので、
今日は引き取ってもらえないか?

命に別状はないが、退院したら
詳しく話を聞きたい

との事だった。


……


かすみが僕の声を呼んだ。


かすみ?


お父さんお母さん

2人にして

お願い


僕とかすみはしばらくぶりに
2人になった。


お互いしばらく下を向いていたが

かすみが言った。


ねぇ、私のこと
どう思ってる?

怒ってる?


僕は静かに言った。


かすみがいなくて寂しかった

僕を許して欲しい

一緒にいれるなら
今度はずっと離れないで欲しい

離婚届は破いて捨てたよ

かすみは細い手で僕の手を握った。


わたしこそ
ごめんなさい

ささやくような声だった。


これで十分だった。


大好きよ

大好きなんだ


かすみは両親に電話した。


急いで病室に入ってくるなり

どうなってるんだ?

と聞いてきた。


お互い、すれ違っていただけです
すみませんでした
僕が一生責任もって
かすみさんを守ります


お父さんお母さんごめんなさい


わたし、迷惑かけちゃった


テヘッと
穏やかに笑った。


かすみの両親は複雑な気持ちでありながら
少し安堵の表情を見せた。

僕には厳しい目だった。


数日後、かすみは退院すると
家に戻ってきた。


かすみは手首に
僕は頭に包帯を巻いて
ハロウィンのやり直しと言って
ささやかなパーティーをした。


お互いの過去など
簡単に流せる。


相手を想う気持ちがあれば。


ホールのケーキを2人で半分も食べると

愛情を確かめ合った。


それはとても神聖で
美しく
甘美なものだった。

2人がまるで1つの人間になるような
一体感だった。

性的というよりは
精神的な交わり方。

長く長く愛し合い
どちらかが眠るまで続いた。


僕たちはそれ以降
離れることはなかった。


春が過ぎて

夏が過ぎて

秋も深まってきた頃

かすみのお腹は大きくなっていた。

クリスマスの飾り付けが始まる頃

かすみはつわりが酷くて

ちょっとしたパーティーはことごとく中止になり

2人で笑い合いながら

中止じゃなくて延期だね

と言ってキスをした。


太陽が僕たちにふさわしい
美しい夜を運んで来てくれた。


〜十字架の夢〜



かすみと僕の子供は可愛かった。

エンジェルと呼ぶにふさわしい女の子だった。

かすみは24時間子供と過ごし
いわゆる誰もが一度は憧れる
幸せな生活が続いた。


泣き叫ぶ子供をあやし、
ミルクをあげ
優しく撫でて寝かしつけるかすみが
愛おしかった。


ある雨嵐が狂う夜

天気予報は明け方まで
雨が続くと伝えていた。

僕は夢を見た。


世の中で成功している人が
十字架の形をして空を飛んでいる。


僕は手を差し伸べるにも
高過ぎて届かない。


ただ見上げるだけだった。

憧れなのか、嫉妬なのか
分からなかった。



ただ、届かない。

それだけが頭に残った。


朝になってかすみに話すと
笑って、変な夢だね~と
デレデレな顔だった。

かすみは幸せの真っ只中なのだ。

トーストにジャムを塗り
ご飯食べよ

と用意を始めた。

娘は笑い、泣き、甘え、あらゆる手段で
かすみの気を引いていた。


額の傷は赤いまま水膨れのように
目立つようになった。

×

ちょうどおでこの真ん中だった。


話す人の視線が大体そこに集まるのが分かる。


ズキン


あれ、なんか頭痛いな


薬で散らして、仕事に向かった。


今朝もまた空には多くの十字架の人間が飛んでいる。


夢じゃないのかよ


午後、会社でデスクワークをしてると
そのまま倒れてしまった。


周りのメンバーはギャグだと思って
無視していたが、
30分過ぎた頃に
僕が寝ているのではなく
気絶していることが分かり
騒然となった。


目を覚ますといつかの病院だった。

〜ラストステージ〜



医者は精密検査をやたらと何度もし、
結果を待った。

ただの体調不良と言われるだけだろ

また余計なお金が飛んじゃうなぁ
と舌打ちした。


次の通院の日、かすみも呼ばれた。


僕は脇の癌が転移し、頭や内臓に少しずつ転移
していたようだ。


かすみは立ち上がり娘を抱えたまま
泣き出してしまった。

ウソでしょ

そんなはずないよ

違うって言って!


かすみは今まで聞いたこともない大声だった。


逆に医者にたしなめられた。



額の十字架は日に日に成長した。

まるで墓場のようだった。

長くて後半年です。


医者は残念な雰囲気を醸しながら
淡々と話し始めた。

こらから自分の好きなことをやって
残りの人生を悔いのないように
生きてください。


先生!

取れるだけ取ってみてください!

もしかしたら治るかも!


先生は黙っていた。

転移のスピードが速すぎるようだ。


逆に僕が落ち着いていた。


いくつもの夜を経て、
かすみと色々なことを話した。


癌治療は拒んだ。

しかし医者である以上
処方せざるを得ないのだ。

激痛や倦怠感、抜け毛、癌にまつわる
症状は増える一方だ。


唯一の救いは娘がまだ小さ過ぎて
僕を父と理解してなかったことだ。


何を言っても聞かない僕に
少し疲れたのか、理解を示したのか、
僕は好きに生きてみた。


僕は仕事場にも言わなかった。

頭は剃ったと笑わせた。

夜の講習も残りの命を削って喜ばせた。

飲み会すら断らなかった。


体が思うように動かない。


それでも酒を飲みピエロとなるのだった。


かすみはそんな僕を見て
段々と笑顔になってきた。

もちろん笑顔の後のかすみの目は大雨なのだが。


余命なんて、オジサン相手に飲んで
バカにしてたフレーズだ。
メタボの人に寿命何日、体がポンコツ…


多分、みんなは気づいてないだろう。

夏の暑い日だった。

ついに有給を取らざるをえないくらい
体が言うこと聞かなくなった。


体は急激にやせ始め、
マッチョからガリガリになる僕を
さすがにみんな不思議がった。


そこから僕は世間から顔を消した。


もうそろそろいいだろ


額の十字架が話し始めた。


かすみは変わり果てた健康感のない僕をみて
泣くばかりだった。


コーヒーを飲みながらかすみに
手紙を綴った。


少し出かけるね。
すぐ帰ってくるよ。

かすみのおでこと娘のおでこ両方にキスをして
出かけた。


コンビニでタバコを買い
ヨタヨタと歩きながら
着いたのは南伊豆だった。


大分夜も更けた時間だった。


やっとの思いで捕まえたタクシーに30分ほど乗り
とある海岸に着いた。


食べ物も食べられず、
痛み止め、安定剤、酒を出来るだけ買って
真夜中のビーチで過ごした。


人は時間が時間だけに誰もいなかった。


2時間ほど、満天の星空の下で
考え事をした。


かすみからの着信は数えきれないくらいだった。

自分は何のために、
何の目的で
神様が命を授けてくれたか
最後まで分からなかった。

かすみ

ごめんよ


もう体動かないし、体中痛いよ


僕が北アルプスに行かなかったのは
見つけられない怖さが
どこかにあったのかもしれない。

海なら、、、

死ぬまで往生際が悪い男だ。


持っている薬どんぶり茶碗1膳分くらいの
全ての薬をウォッカで流し込んだ。


眠いのか、気を失ったのか
分からない。


星空は僕を照らし、
死神たちが僕のまわりを囲み始めた。


なるほど
やはりそこに行くのか


10分もするとそのまま横向けに倒れてしまった。

キレイな、ビーチじゃないか

かすみにもうこんな姿を見られたくなかった。

頬もこけ、ガリガリの僕は
さながら死神だ。

額に浮かんでるやたら赤い×印の傷痕。

黒いパンツに黒いTシャツ、黒いニットキャップに
黒いスニーカー


僕は
暗闇で人を喜ばせるのが
大好きだったんだ


昼間はエリートや偉い人が
世界を作りゃいい

最後の力を絞って

かすみにLINEした。


あいしてるよ

そのまま起き上がることはなかった。

額の赤い×印の傷はいつのまにか
なくなっていた。

俺の人生はロックだぜー

いい曲奏でられたかな

俺の人生は喜劇だったぜ


な?

神様よ



波の音で見送られ
翌朝には僕はただの遺体だった。


その夜、月は探せど探せど見つからなかった。


〜黒い死体〜



僕の遺体が見つかったのは
3日後の朝だった。


ビーチからすこし外れた
岩場の小さなくぼみに身を潜めていた僕を
犬と散歩中地元の老人が発見したのだ。


悪臭とまではいかないが、
独特の死体臭があったのだろう。


僕は地元の警察病院で検査され、
自殺、他殺ではないことを確認され
地元に遺体を移された。


葬儀は行わなかった。
僕は出かける前に枕の下に
ちょっとした遺書を書いておいた。


かすみへ

葬儀はしないで欲しい
死ぬところを誰にも見られたくない
墓にも入りたくない
もし骨になったら
骨を粉砕して
どこかの海に撒いて欲しい
よろしくお願いします
かかる費用は僕の保険から
出しておいて欲しい

ありがとう



僕の意志はかすみが継いだ。

かすみは僕が死んだ
南伊豆の入田浜の隣の
大浜に静かに撒いた。

波が押し寄せて
引く波に合わせて、
少しずつ僕の骨を海に戻した。

指で砂に×を描いた。


かすみは感情がなかった。

ただ海を見つめるだけだった。

かすみは伊豆の大浜の
アーネストハウスという
ペンションに宿を取った。

列車とバスをいくつも乗り継ぎ
それはそれは長い旅だった。


次の日かすみは目の前の海に出た。
風もなく、波も小さく
ビーチは眩しかった。

数人のサーファーがいるだけで
お昼前には誰もいなくなった。

ザー、シュー、

波だけは休まずに鼓動を続けている。

ねぇ

もう悲しいとか辛いとか
分からないよ


今どこにいるの?

わたしのそばにいるの?

どうして一緒にいてくれなかったの?

娘は小さすぎたので
かすみの実家に預けてきた。

かすみは久しぶりの1人だった。

水平線はキラキラして
かすみの目を細めるのだった。

ガーデンバーで温かい紅茶を頼み
バスに乗り、列車に乗って東京へ向かった。

かすみは東京の僕の実家へ寄り
僕の両親から感謝を受け
苗字を戻すよう促された。

会話は少なく、
沈黙が続いた。

娘がいるから戻るように
言われると
かすみはお辞儀をして僕の実家を出た。

かすみが実家へ戻ったのは
夜10時を越えたくらいだった。

娘は安らかに眠り、
誰が見ても分かるくらい
かすみに似ていた。


娘にとっては
父の記憶が無いことが救いだった。


新居を引き払い
かすみは自分の地元で生活し始めたたが、
娘にかかりっきりで
外に出るのは買い物と公園くらいだった。


心配して駆けつけてくれた
友達にお茶を振る舞い
かすみの想いをポツリポツリ

詩集のように語った。


そして紅茶が冷たくなるまで
泣くのだった。


友達はかすみに寄り添い
肩に手を当て
大丈夫だよ
と優しく撫でた。


僕は少しだけ
地獄に行く前に
数日間の猶予を天から
もらった。

3日間
どこへでも行ける切符を
手に入れたようなものだ。

僕はかすみと娘はといることにした。


かすみには見えないけれど
確実にそばにいた。


かすみ
瑠花


母として接するかすみ
かすみにべったりな瑠花は
2人で1人の人間のようだ。

美しかった。


僕のかすみ、僕の瑠花

ありがとう。

人生や人を憎む中で
愛されたい
という気持ちを
満たしてくれた
たった1人の女性だ。


僕の狂気な人生は
かすみにとっては
なんの意味もなかった。


ただの1人の愛する男なだけだった。

3日目の夜明け
僕はいなくなった


さようなら


これから下に堕ちるよ


〜新しい人生〜



いくつかの年が過ぎ、
マフラーとウール生地が
手放せなくなる頃


かすみは

窓の内側に滴るしずくをボーッと眺めていた。

1人になると忘れられない思い出たちが
かすみを取り巻き始める。

瑠花は
まだ学校から帰ってくる時間じゃない。


雪が降るごとに
かすみの僕の記憶も少しずつ薄れ
日常を過ごす事ができるようなった。


窓のしずくが
いくつかの細い線になり
太くなって滴った時


自かすみは自分も泣いていることに気づいた。


最後の卒業式とでもいうべき
時間だった。



思い出のものは
クローゼットの奥に出来るだけしまって
部屋には
僕と小さな瑠花、そしてかすみの映ってる
写真立てだけが残った。


そこに黒っぽい柔らかい生地の
大きめのハンカチで覆った。


僕を忘れる、というより
僕を日常から外して
新たに進む決意表明だった。

ママただいまー!


仕事のない日
大きな声で娘が北風と共に
帰ってくると
寒寒〜っといいながら
ローファーを揃えもせず
リビングにやってきた。


かすみはいつも通り
紅茶を出して
今日あったことを
手作りのクッキーとともに
聞くのだった。

お母さんあのね!


冷たい手のままの瑠花は
嬉しそうに話すのだった。

瑠花は父の面影はあるが
全く違う生命だった。


〜大きな愛〜


かすみ草は
他の色めく花を引き立てたり
際立てる花ではない。


周りを囲んで
優しくする花
だから主役。


僕のような現代社会の歪みは
かすみ草が薄めてくれて
優しく包んでくれる。


花言葉は知らない。


いつも誰かといて
優しい気持ちにさせる。


その優しい白が
闇すらも塗り替える。

僕はかすみ草が好きだ。
そして
かすみ草のようなかすみを
愛してやまない。


鬱屈とした自分が
暗闇の中でエンターテイナーを
演じていたつもりの 僕が

実はかすみとの出会いで
僕の陳腐な役はとっくに終わっていた。

暗闇は既に開けていて
白い明るみの中で
全く気づかなかった。

かすみの大きな愛の中で
僕は自慢げに役に没頭してたのを
知らずにいたなんて


とんだ幸せで、喜劇な人生だった。


瑠花はクッキーをたくさん食べると
かすみに
そんなに食べたら
晩ご飯たべられなくなるよと
優しくたしなめるのだった。


部屋のクリスマスのデコレーションは
幸せの象徴。


かすみは
娘の話を
いつまでも
聞いているのだった。


〜僕が残してしまったもの〜


ある夕方
瑠花はドアをバタンと閉めるや否や
部屋のドアまでもバタンと閉じて
部屋にこもりっきりになった。


かすみが名前を読んでも応じない。


何度も呼ぶと
ほっといて!今いい!

叫ぶのだった。

何かあったのかなぁ?
イジメか何か…


部屋が静かになるのを
見計らってかすみは部屋に入った。


瑠花は布団をかぶったまま
クスンクスンと泣いていた。


鼻と目は赤くなり
かすみの顔を見るなり
また湧き水のようにジワジワと目が滲んできた。


嗚咽こそなかったものの
しばらく背中をさすりながら
落ち着かせた。


瑠花から言葉が出るまで
ずっと待っていた。


しばらくすると

ママ
わたし、パパのこと
クラスの子に言われたの。


なんて言われたの?

瑠花に父がいない事は
クラスメイトには言ってなかった。


ある話題から両親の話になった時
自分は母親しかいないと告げた。


すると心ない同級生の男子1人が
わたしは欠陥人間になると。
片親の女子ってそういう奴多いんだよな。

いるじゃん、C組に万引で捕まった奴。


つららのように瑠花に突き刺さった。

彼は悪気とかではない。

歪んで元に戻れない時代が
産んだ言葉だった。


かすみは何とも酷い言葉に胸を痛めた。

何で私にパパがいないんだろう。

コンコン

かすみは瑠花の部屋のノックをした。

瑠花は連日の徹夜のネットサーフィンで
ボーっとしていた。


ママがいいもの見せてあげる。


その時
なぜだか僕もいた。

姿形とかではなく、
モヤっとした意識が
そこにはあった。

こんな事あるのだろうか?


魂は永遠なのか
そうかもしれない

ただ大切な時だけ
許されるのかもしれない。


かすみはいつものように
温かい紅茶、クッキーを
お茶会のように準備して
着替えたら下に降りておいで。

瑠花に伝えた。


しばらくすると
トン、トン、トン
階段をゆっくり降りてきた。


なぁに?


座って座って!

かすみはラップトップを開くと
瑠花に画像や動画を見せるのだった。


僕との馴れ初め
付き合ってた頃の写真
結婚式
何でもないスナップ写真

そして瑠花を抱いている写真
3人で映ってる写真


瑠花は産まれて初めて見る父に
見入った。

紅茶をすするとかすみに言った。

これ、パパなの?

そうだよ


しばらく2人で見入っていると

かすみもついに泣き出してしまった。


幸せな部分だけ切り取って
瑠花に見せていたのだ。


しかし何年も経つと、
思い出は浄化され
美しい記憶だけが残る。


パパは癌でね、
もう手遅れだったの

ずっと瑠花のことを気にしていたのよ


名前もね
わたしがかすみだから
花の名前にしようって
瑠花にも花の字があるでしょ?


瑠花は大事なパパとママの子なの


1分ほどの沈黙の後、


しばらく思い出すの辛くて
話せなかったの。

瑠花、ごめんね…

目を赤めて言った。


今はなき僕の動画を何枚も
見てるうちに
瑠花は落ち着きを取り戻してきた。


パパ茶髪ぅ
ひげもある
ムキムキだね!

少しずつゆるりとした空気になっていった。

瑠花は肩車の動画を気に入ったようで
何度も何度も見ていた。

パパ生きてたらな


そうね、また一緒に遊んでくれるよ


かすみは安堵しながら
一抹の不安を感じた。


繊細な瑠花
傷付きやすくて
か弱い


私たちのようになってはいけない。

かすみはより一層強い決意をかためた。


部屋には年中かすみ草が置かれており
欠ける事はなかった。


その日、
瑠花は本調子ではないながらも
夕食をいつもより多めに食べ
かすみと一緒にお風呂に入ることにした。


たわいもない話
僕の話
学校の話
テレビの話
勉強の話

のぼせ上がってやっと
お風呂から出てきた。


冷えたリンゴジュースで乾杯して

瑠花

パパもママも
いつも瑠花の事かんがえてるからね


ママ、ありがとう、ごめんね


部屋にパタンと入っていった。


かすみは一晩中寝付けなかった。


僕とのあまりにもぶつ切りの関係だったことを
切なく思い、前に進めないで
心のどこかに封印していた。


辛い事を封印したくても
子供はやがて親と向き合う時がくる。


そんな波を1つ越えたのだが、
写真と動画以外の事は話さないように
した。

真夏が秋にどかされた頃
かすみは思い切って瑠花を旅行に誘った。

アーネストハウス
南伊豆だった。

伊豆ってどこ?

荷造りをしながら

綺麗な海だよ

たまには2人で旅行もいいでしょ


瑠花はルンルン気分で
カバンにあれやこれや詰めるのだった。


かすみも少し落ち着いて
荷造りを始めた。


始発の列車に乗って
カーディガンが必要なくらい
過ごしやすい日に
2人は出かけたのだった。


まだ暗い始発は時とともに
秋晴れを映しだしていた。


瑠花はこの歳になって初めての
母と2人の旅行だった。

もちろん病気で亡くした事はかすみから
知らされていた。


当然周りのほとんどの友達は
その酷い言葉を発した子を責め、
かすみをなだめた。


かすみは大丈夫だよ、とその時は言った。

しかし、深く傷ついていた。

片親なんて珍しくないこのご時世、
しかし些細な一言が
瑠花の心をえぐるのだった。


パパの思い出も何もない。

どんな人か知らない。

だからわたしは偏った人間になっちゃう。

ママもパパの事を話さない。


純粋で柔らかい心だ。

ねぇママ、なんでパパの事話してくれないの?

瑠花は詰め寄った。

かすみは少し困惑しながらも


パパはかすみのこと誰よりも大切にして
大好きだったんだよ。

もう少し話しておくべきだった。
瑠花、ごめんね。


瑠花はしばらく学校を休んだ。

スマホで 片親 子供
と検索し、終日ネットサーフィンを
するのだった。


かすみは困った。
どう話していいんだろう。

単に病気で亡くした事しか言ってないし。


この弱さが
僕が残してしまった呪いなのかもしれない。


思春期に自分が形成される
1番大切な時に
1番愛情が必要な時に
かすみは全て話すか悩んだ。

〜黒い月〜



かすみと瑠花がアーネストハウスに
着いたのは午後の遅い時間だった。

晴れにしては少し寂しげな明るさで
シーズンオフということもあった
電車もバスもガラガラだった。


30分ほどバスに揺られ、
歩いて15分ほどすると
アーネストハウスというペンションに着いた。


チェックインを済ませ、
2人はビーチに出た。


昼間のバーベキューの香りがほのかにする。

打ち寄せる波は
心地よい音だった。


瑠花は初めての美しいビーチに興奮して
走り回ったり、砂に絵を描いたり
写真撮影に余念がなかった。


かすみはただ水平線を見つめていた。

あれから何年経ったっけなぁ。

キラキラしていた事は覚えてる。
そして、今日もキラキラしていた。


ママ
この海来たことあるの?

瑠花の問いに

パパと一度だけ来たことあるよ

と嘘をついた。


え?ママも水着で泳いだの?


イタズラっぽく尋ねてくる。


パパがサーフィンしてたの待ってたのよ


簡単な会話のラリーをした。

瑠花は貝殻をいくつか拾って
帰ったら瓶に詰めよ

といって、白さが際立つ貝殻だげを拾った。

ママ

ごめんね、なんか、

瑠花は唐突に言い出した。


時々すごく不安になるの


理由は分からない


だから誰にも話せなくて…


かすみと一緒に貝殻を拾いながら

誰にでも瑠花くらいの時には
あるのよ


パパもそうだったし、
ママもそうだった


2人ともそうなの?


かすみは微笑みながら

そ、誰にでもよくあることなの

そしてみんな成長するの


でもいつか誰かの助けは必要になるよ

瑠花はジリ、ジリと近づき、
かすみに抱きついた。


パパに会いたい


…。

そうね、わたしもパパに会いたいな

パパとの思い出の場所だから
瑠花を連れてきたかったの

陽射しは段々傾き
熟れた甘い蜜柑のように
濃いオレンジと紫を帯びてきた。


風が2人を撫で始め、冷えて始めた頃、

さ、部屋に戻ろ?


かすみと瑠花は自然と手を繋いでいた。


部屋に戻り、暖をとって
夕食をとった。


客はかすみ達以外1組しかいなかった。

ね、今日お酒のんじゃおうか?

かすみはイタズラっぽく笑った。

えー!
わたし飲まない!


あっそ、じゃ瑠花はジュースね


食事を済ませ、
ペンション併設のバーに行った。


暖炉が炊かれ
暖かかった。


かすみは軽いアルコールを
瑠花はグァバジュースを頼んだ。


季節外れの庭園のバーは
完全に夏仕様で
夏には多くの若者で賑わったと
一目で分かる雰囲気だが、
夜になるとまるで焚火で暖をとっている
薄暗くてロマンチックな佇まいだった。


今夜の会話は僕のことが中心だった。

パパのどこが好きだったの?
どこにデートしたの?
どうやって出会ったの?
初キスは?


やれやれ、
かすみは苦笑いしながら
大幅にフィクションを加え
話した。


瑠花は嬉しくて仕方ないと言った感じで
質問攻めした。

ふと

わたしのルカってどういう意味?





突然瑠花が尋ねると

3秒あけて、

そうねぇ、ルカって名前の響きがいいのと
あとは当て字なのよ

ルカって名前、かわいいでしょ?

花もついてるでしょ?

ルカはお父さん、漢字はママが決めたのよ

ふぅん…



そういえばノリで決めた感じだったっけ?

パパに任せてたような…


かすみが2杯目のカクテルを注文すると
スタッフから、

今日はこれでラストオーダーです

と言われた。

まだ21時。

シーズンオフならでは、だ。

暖炉が消えて
夜を見渡すと


見えるはずのない黒い月が浮かんでいた。


かすみにだけ見えていた。


かすみは
今夜はここにいてくれるんだね。
と思わず微笑んでしまうのであった。


ツインベッドだったが、
1つのベッドで2人で寝た。

瑠花、そっちで寝なよ〜

だって寂しいし


昔から人懐こい性格だったが、
今も健在だ。

先に眠ったのは瑠花だった。

かすみは窓を見て傾いてる黒い月を
眺めつづけた。

カーテン開けて、寝るからね

翌日
鳥のさえずりで目が覚めた。
今日も風の弱い絶好の晴れだった。

朝食のサンドイッチを
バスケットに入れてもらい
ビーチで食べてると


ママ、なんだか外国に来たみたいじゃない?

と喜んだ。

チェックアウトすると
オーナーから声がかかった。


お客さま

お預かりしていたものです


かすみ草のいっぱい花束と
一輪のピンクのガーベラだった。
予約時に準備してしておきました。


手渡されてキョトンとしてると、


何年か前にご主人に頼まれたものです。

いつか予約が入って
2人がきた時に渡して欲しい
との事でしたが、
お渡しするのに随分かかりました

渡せて良かったです


ではビーチを楽しんで。


受け取った花束を抱え
かすみはその場でうずくまり
顔を真っ赤ににしてボロボロと泣いてしまった。

子どもが泣くように。

鼻の頭が赤くなっていた。

今まで貯めていたものが
溢れた。


瑠花は


ママ?ママ?
どうしたの?ねぇ!

と心配したが、
泣きながら笑っていた。


かすみは瑠花を抱きしめ
パパからのプレゼント!

と言って瑠花を困らせた。

え?なに?意味わからない?

そうだよね

なに?なに?なに?

瑠花は食い下がるがかすみは黙っていた。


バスが来るのが1時間後だったので
2人でまたビーチに来ることになった。


サク、サク、と砂がコンバースに
入らないように
ゆっくり歩いてると


かすみが言った。


パパ、ここにいたんだよ

今までの経緯を話し始めた。

波打ち際に近い砂を片手に
サラサラと落とすと
パパが亡くなってから
ここの砂に撒いたのね。

パパの遺言でね。


瑠花は黙っていた。


パパは普段は無口だけど
おしゃべりがとっても上手なの

ママをちゃんと見守ってくれたたった1人の人


瑠花にもいつかそんな人ができたらいいね


パパはかすみ草が好きでね
この真ん中のガーベラ、瑠花

ママはガーベラが好きなんだー


どうせなら生きてる時に
渡してくれればいいのにね


笑って言った。


瑠花は母親の心の葛藤を垣間見て
余計に母を想う気持ちが強くなった。


パパ、まだここにいるのかな

どうだろうね

とっくに流されてハワイの方まで
行ってるかもね


打ち寄せては帰る、打ち寄せては帰る波を
何度も見ながら

さて、そろそろ行こっか

パパはいつもそばにいてくれるね

バスは2人だけを乗せて
伊豆急下田駅に向かった。


ママ
またここに来ようね

そうね
また行こうね




僕は暗闇のエンターテイナー。

自分を殺せば何にでもなれる。

天から授かった数日間の猶予は
今日で終わった。



雪の季節を迎えて
その度に桜が咲き始める度に
かすみと瑠花からは少しずつ
僕の記憶が薄れていくのであった。



僕はいない。



ルカという名前に
新約聖書  ルカによる福音書 10章18節



「イエスは言われた。
 わたしは、サタンが稲妻のように
 天から落ちるのを見ていた」



これだけは2人には永遠に知ることはない。

瑠花は僕の人生そのものを表したかったんだ


fin

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