米津玄師の 「Lemon」と「クオリア」
私は、まるでブレーキが外れてしまったかのように
「大好きなもの」を無我夢中で語る人やその姿が大好きだ。
歌手やアイドル、作家や本、学問、もっと身近な周囲の異性や恋人、家族
などに対する自分では止めることのできない語彙力の爆発と暴走
もはや何かに突き動かされているかのような、そんな姿に出会うたびに
どこかホクホクする。どこか羨ましく思う自分がいる。
「米津玄師」と聞いてパッと思い浮かぶことは
「アイネクライネとレモンの人!」
というファンが悲しむ(いや、怒る)と思えるほどに私は音楽に疎い。
そんな私も(紅白で)「Lemon」を聞いた。それまでも何度も聞く機会はあったものの歌詞を意識しながら聞いたのは今回が初めてだった。
徳島県出身であることも今回初めて知った(四国いいな、、)。
他の楽曲も、背景も、何も知らない私とファンとでは比べものにならないほど熱量に差があるだろう。
「米津玄師と楽曲」ではなく
「私が好きなこと」と「Lemon」がリンクした経験をほんの少しつぶやきたい。何となく曲を聞いていたとき直感的に反応した言葉がある。
「苦いレモンの匂い」(米津玄師 Lemon)
曲名にもなっているレモンである。それも、苦いレモンの匂いだ。
サビに入るまでの歌詞にはなかった「味覚」と「嗅覚」が急に出てきたことに驚いた。レモンの匂いだけであったら「嗅覚」の領域である「酸っぱい」あの香りが連想できるためそこまで反応しなかったかもしれない。心惹かれたのは、そこに「苦さ」という「味覚」の領域にあるものが組み合わさったからだ。「苦いレモンの匂い」。全く脳内にない感覚だったから響いたのだろう。
18-20歳にかけて「認知科学」に興味が湧いていた。
人間の経験のうち、計量化できないものを、現代の脳科学では、「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。(茂木, 2004, p24)
赤い色の感覚。水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。(茂木, 2004, p25)
茂木健一郎は小林秀雄の講演を著書の中で引用して、近代科学は、経験的なデータを重んじるにもかかわらず、私たちのあらゆる経験のうち「計量できる経験」だけに対象を絞ったと説明する。その背後には、全ての現象は数字に直すことができるという近代の科学的世界観があるとし、経験であるにもかかわらず数量化できないとされる主観的な体験の質が「クオリア」であるとした。
東野圭吾の推理小説が元になった「ガリレオ」の黒板や壁に数式を書き尽くしていくあのシーンのようにあらゆる経験は数式で表すことができるという立場を近代科学は取ったとし、言い換えれば「私が今どのくらいお腹が空いているか」などという主観的な体験はその対象から除外されたのだ。
もし、私たち人間を含む宇宙という自然の根源を理解しようとしたら、私たち人間が主観的体験を持つという奇妙な事実を説明できなくてはならない。(茂木, 2004, p29)
つまり、あらゆる経験を理解しようと試みるならばこうした「クオリア」も何らかの方法で拾い集める必要があるのではないかという提案を小林秀雄や茂木健一郎は打ち出した。
そんな「クオリア」という感覚に惹かれていたからこそ、「苦いレモンの匂い」というクオリア満載の不思議な歌詞が印象に残ったのだろう。
参考文献
茂木健一郎(2004)『脳と仮想』新潮文庫