始まりの場所① 東京逓信病院内喫茶「コンパス」 【喫茶 手紙寺分室ができるまで】
こんにちは。手紙寺発起人の井上です。今回は時間を少しさかのぼり、私と父の思い出の場所についてお話ししたいと思います。
▼前回の投稿
肺がんを発症し、余命半年の宣告を受けていた父が、東京逓信病院に入院していたのは、1995年から1996年にかけてのことでした。
父は寺院の住職をしており、私はまだ、仏教を学ぶ大学の4年生でした。両親は私が中学3年の時に離婚しており、私も中学から全寮制の学校に寄宿していたこともあり、私の家族は一旦はバラバラになっていました。しかし父の病気をきっかけに、母も戻り、久しぶりに親子3人がそろった時期でした。
父は術後、いったん退院をし、母が尽力して借りた病院にほど近いマンションに三人で暮らすことになりました。それは、幼少期以来、親子三人が水入らずで過ごす、静かで充足した日々でした。私はその日々の中、専攻する真宗学の卒業論文を書いていました。病床の父を真近に感じながら、聖典に向き合えたことは、今想ってもこの上なく大切な父からの贈り物だったのだと思います。
私には大学の指導教授であり、時期を同じくして大学を離れて東京で仏教布教のために活動を始めた師匠がいました。京都の大谷大学を卒業すると同時に、東京でも師匠の活動に参加するようになったことを父は何より喜んでいてくれていました。
以前、このページの「父への手紙」にも書きましたが、無頼で家庭を顧みない父に私は全身で反抗して生きて来たので、病気のおかげで、初めて父と静かに向き合うことができたのでした。
病状が進み、再度、父が入院することになった時には、医師より残された時間が少ないことを聞いていたので、これまでの空白を埋めるように私はできる限り会いに行っていました。父は、私が会いに来ることを喜んでくれてはいましたが、体がつらいこともあり、また、何より、馴れ合うことを良しとはしない人でしたので、15分もすれば、分かった、もういいから帰れ、という感じでした。
そんな日々の中、ある時、父が病院内にある喫茶に私を誘いました。父はガウンを着た姿のままで。二人ともコーヒーを注文しましたが、父は口を付けることはなかったと思います。何を話したのかははっきりと覚えていません。ただ、父と向き合って座った印象だけは、今でも強く残っています。余命いくばくもないことを医師より聞いており、父自身もそのことを感じており、後がない中での時間でした。
あれは、父が亡くなる二か月ほど前でした。当時、私は学んだばかりの教学を盾に、頭でっかちな意見や批判を父にぶつけたことがあります。その時、父は悲しそうな顔をしていました。そして、お前はこのままでは中途半端になる。教学で行くなら寺の経営を辞めてそこに徹底しろと私に迫りました。私は、その時、中途半端なままで何も答えられませんでした。
父の死後、寺を継承して霊園や寺の経営に向き合ったときに、自分の無力さを知らされることになりました。そしてあのときに父が私に心配していたことがこのことだったのかを知ることになりました。そして、父と最後に向き合って座ったカフェに足が向かいました。あのときと同じ場所に座り、いないはずの父の気配を感じながら手紙を書きました。
その後も、自分ではどうしようもできなくなった時、私はこの場所を訪れ、父の眼差しを感じながら手紙を通して相談し、生きる力を得てまいりました。その最初の場所がこのカフェなのです。
最近、最後に来たのは一年くらい前になります。今でも私にとって、かけがえのない場所です。