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亡き父からの手紙

【あてのない手紙】は、手紙寺発起人の井上が書く手紙です。誰かに向けて、あるいは自分に向けて書く手紙。井上への手紙の返信もここでお伝えしていきます。


「想い出すということは、それまで忘れていたのではなく、こころの奥底で考えて続けていた証」

と教えていただいたことがある。

「忘れる」と「思い出せない」というのは別のこと。本当に忘れてしまっていたなら、もう想い出すことはできないから。こころの深いところでは大切に思い続けていたから、なにかのきっかけで想い出されたり、言葉になったりする。「忘れる」と「思い出せない」というのは別のことで、こころの蔵の中にしまってあって、消えることはないのだ。

想い出ともう一度出会えたとき、私たちはあらためてその記憶を回想したりする。そして、そこからなにかヒントを見出したり、ちょっとだけ前向きな気持ちになったりすることができる。

不思議なもので、自分一人のことなのに、想い出しているときは一人には感じない。まるで、その記憶の中にいる人と話をしているような気持ちになる。

いや、きっと話しているのだろう。
その記憶にある「あの人」と、そして自分自身と。

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私が手紙を書くことの大切さに気づいたきっかけはいくつもあります。今日は、その中でも大きなきっかけとなった、亡き父から受け取った手紙の話をしようと思います。

1995年、いつもと違う咳が出ることから病院にかかった父。すでに癌が全身に転移していることがわかり、余命は半年と告げられました。当時22歳だった私は、お寺の経営のことも、家業を継ぐということも、なにひとつ心の準備はできていませんでした。

お見舞いのあと、そのまま病院のロビーで考え込むこともあったし、直接父に伝えると心配をかけてしまう正直な想いを、届かない手紙としてノートに書き綴るようになりました。

父が亡くなったあと、親戚縁者の支援のおかげもあり、お寺の経営は少しづつ安定してきました。しかし同時に不安が出てきました。お寺の経営が安定するにつれ、本来のお寺の姿から、大きく離れつつあったのです。

私は、父の亡くなった病院のロビーに向かっていました。父はいないけれど、ここに行けば父に会える気がしたからです。ここでなら、なにかを見つけられると想ったからです。
そして、あの時と同じように、ノートに父に届かない手紙を記してみました。その内容は、父への呼びかけでした。父を想い出しながら、どうしたらいいのか分からない現状を相談していたのです。

そんなある日、ふと父の言葉が聞こえてきたのです。
「城治、あなたに宛てて書いた手紙が本堂の上にあるから、私が死んだ後に開いて見なさい。」それは、私が小学3年生の時、父にから言われた言葉、私以外はだれも知らない言葉です。念のため母や父を支えていた当時の仲間にも尋ねて見ましたが、私以外は誰も知らない言葉でした。しかし私はそのときの情景や父の声まではっきりと想い出していました。

家に帰って梯子を引っ張り出し懐中電灯を手に探してみると、そこには本当に父から私に宛てた手紙が置いてありました。手紙の最後に記してあった言葉は、

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「後継に告ぐ 證大寺の念仏の法灯を絶やすな」城治9歳

父が亡くなってから6年が過ぎ、私は29歳になっていました。父は20年も昔に私宛の手紙を書いていたことになります。しかしそれはまさに今の自分に宛てて時空を超えて届いたような手紙でした。

亡き父から応援されていると実感した私は、お寺の運営を本来の姿へ戻していくことにしました。

あの手紙は、私がノートに記した父への手紙の返事だったのでしょうか。

いまでも父の亡くなった病院へ行き、手紙を書くことがあります。
聴きたいこと、相談したいこと、迷っていることを、ノートに綴ります。

ここに来れば、父の願いに気づくことができるから。
ここで手紙を書けば、父の返事に出会うことができるから。

そして何より、自分自身の本当の願いに向き合うことができるからです。

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井上 城治  | 手紙寺 発起人
1973年生まれ。東京都江戸川区の證大寺(しょうだいじ)住職。一般社団法人仏教人生大学理事長。手紙を通して亡くなった人と出遇い直す大切さを伝える場所として「手紙寺」をはじめる。趣味は、気に入ったカフェで手紙を書くこと。noteを通して、自分が過ごしたいカフェに出会えること
を楽しみにしています。

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