おかんの手紙写真館(4)
就職氷河期(2000年)に母から届いた手紙が出てきた。
僕がかろうじて見つけた仕事は、「まずはバイトで」という条件だったため、手紙でも「就職」ではなく「働き口」という言葉になっている。
しかしその仕事も、2週間ほどで円形脱毛症になって辞めることになる。
大輔へ
働き口が決まっておめでとう
この知らせは母の日の贈り物として受け取っています。
この前の電話で腹の立つことを言ったかもしれませんが
一人で頑張って疲れるより、家族に甘えて暮らしたほうが
楽かもしれないョという意味もあります。
しかし、大輔の求めている職業は
田舎では難しいところです。
それでは体に気をつけて下さい。
(母の名前)
お母さんはヘルパー2級の講座を
週1回(地名)まで受けに行っています。
お父さんは篠笛に目覚め
文化祭にソロデビューすると言っています。
まともに就職活動をしなかった僕が悪いのだけれども、不景気だったこともあって、大学を卒業する直前まで就職先が決まらなかった。
そのころ、電話で母の「こっち(故郷)に帰ることも考えたら?」という言葉に声を荒げてしまったことがあった。手紙に書かれている「腹の立つことを言ったかもしれませんが」は、そのことを指している。
僕は田舎の生まれだが、東京に対して「花の都・大東京」みたいな、かまえた捉え方はしていなかった。単に、東京の大きさをよく知らなかったのだ。だから「ここで帰ったら『都落ち』になる」といった意識もなかった。
ただ、田舎にも働き口はないだろうし、家の仕事を手伝うことになるだろう……という風に考えていくと、その先の未来がすべて見えてしまうような恐怖があった。
「映画監督になりたい」という夢を抱いて大学を受験したが映画学科に落ち、別の学科に入って、1年後に転科試験(別の学科に移る試験)を受けたがそれにも落ちた。就職活動はやる気がなく、周りの人たちにつられてなんとなく出版社をいくつか受けたが、大きなところも小さなところも落ちた。
卒業する数か月前になって、「出版社がダメなら書店だな」と書店を持つ会社を受けたところで、ようやく採用してもらえた。この手紙はそのことを伝えた直後に届いたのだろう。いま読み返すと母親が心配していた様子が伝わってきて、申しわけなくなる。
ただ、仕事のほうは「書店は開店の準備中なので、しばらく系列のドラッグストアで働いてほしい」と言われ、在学中からなぜかドラッグストアで働くことになった。右も左もわからず、「ドイ君、それは外から見えないレジ袋に入れなきゃダメ!」とお姉さまがたに叱られる日々だった。頭に10円ハゲができたら、僕は働くのに向いていないんだな……とネガティブの黒い渦に巻き込まれて、卒業する直前に辞めてしまった。
新卒の無職になった。