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大切な人の自死から絞り出した意義

※同じような体験をされた方、メンタルが安定しない方はご注意ください。リアルな胸の内を吐き出しています。

1ヶ月ほど前に突然、身内でありお世話になっていた人が亡くなった。自ら。

まだ若く、心身ともに頑丈で(とみんなが認識していた)、サービス精神旺盛で、ムードメーカーで、頼もしい存在だった。


芸能人や一般の人のそういうニュースを見ては心を痛めたり、その周りの人は大変だなと思ったりしていたけれど

いざ当事者になってみるとそれは想像を絶した。

正確には、想像していないような異様な気持ちに襲われた。


異様な雰囲気に押しつぶされる


それは心の痛みとは別の、暗い穴にゆっくり吸い込まれていくような不穏な気持ち。

「異様な」ものを心に感じた。

心の痛みだけだったらどれだけマシだろうと思ってしまうほど。

どうして?
なぜ1人で抱え込んだのか?
残された人のことは考えなかったの?
近くの人はなぜ気がつかなかったの?

自分の無力さと、当事者と、その周りの人と。
全てに疑問を抱き、全てを責めて、そしてどれだけ苦しんでいたのかを想像して自分も沈んでいく。

最後には「苦しみから解放されてよかったよね」しか落とし所がなく、しばらくしてそれでは納得できない、と考え直してそこからまた暗い穴に落ちていくループが始まる。

ふっとお焼香の時の匂いがよみがえる。

何も話さず誰も頼らなかった本人との、
内側と外側という大きな壁を感じた。
近寄ることさえできていなかったのかと息が苦しくなった。

崖と崖の間にかかった吊り橋が一方的に外されて、橋の残骸が崖の底に落下していくのを眺めているような。

とにかく、今まで味わったことのない異様で独特な閉塞感を感じた。


自分なりに考えたこと


この出来事から1ヶ月が過ぎ、自分なりに考えたこと。

私に今なにができるだろうかということ。

それは、自分の心と生活を守ることを最優先に考えながら当事者家族との繋がりを保っておくこと。

私には私の心があって、家族がいて生活がある。
だからそこは守る。
そこを守った上で、当事者家族と定期的に会う。

メンタル的な様子をチェックしたり、必要なケアを調べて遠回しに少しずつ少しずつ情報を渡したり。

(自分も持っていかれるので深く話を聞こうとか、家族らのメンタルを自力でなんとかしようとはしない。)

一歩踏み出させるのではなくて、見守ること。

介入するのではなくて、そばにいること。

一緒に泣くのではなくて、真ん中から気持ちを肯定すること。

時間をかけてコツコツと関わっていこうと考えている。
少し離れた私の立ち位置だからこそできることがあるから。

かつて注いでもらった愛情を家族に返していく。

生きていればなんでもいいっす


この出来事で痛烈に感じたのは

生きていればなんでもいい

ということ。
ありきたりだけどシンプルに。

死んだら終わりってよく言うけど、実際死んだら終わりではない光景を目の当たりにした。

死んだらそこから絶望が始まる家族がいて、そこから闘いながら生きていく周りの人がいる。

そんなことならもう、家族だって仕事だってプライドだって捨てられるものはなんだって捨てて生きればいい。

頼れるものは頼ればいい。

なにもかもぶん投げて、自分の背負うリュックを空っぽにまですればいい。
泣きたい時に泣けばいいし、笑いたい時に笑えばいいし…。

そんなこと簡単にはできない立場の人が多いこの世の中だろうけど、
私は自分のために逃げることを肯定していこうと決めた。

心を1番に。
心に世の中の理屈を持ち込まない。
心だけは自由でいられるように。


そんなわけで私も自分を生き続ける。

より確信した。
より強く決意した。

私が楽しく、私が満足できる人生。
私による私のための素晴らしい人生。
愛する人々と。

そんな訳で、自分らしく生きる意義をより強くしました。

こちらを読んだ人にも何かを考えるきっかけになったらうれしいです。

重い話、最後まで読んでくれてありがとう。


おわり。

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