笑う犬のコントを見ていたおかげで(死なない)憂国に出会い喰らって衝撃のあまり文字起こしした
長久允さんの舞台「(死なない)憂国」を見て考えたことをつらつらと書きなぐりたくてnoteアカウントを開設してから、2週間がたってしまった。幸いにもアンコール配信・さらには台本まで公開という、MISHIMA2020の大反響を感じさせられる展開に大歓喜しつつ、これから舞台をつくろうとしているただの会社員として感じたことを想いのままに走らせてみる。
もし万が一まだ(死なない)憂国を観ていないのなら、10月11日までなので今すぐぴあへ飛んでください。
痛いってことは生きてるってことだけどさ
長久允さんがツイートした予告動画。むわっとしたモッシュとともに流れてきたのは、「生きてるって〜な〜ん〜だ〜ろ〜生きてるって〜な〜あ〜に♪」のフレーズで、私は真っ先に、笑う犬の名コントシリーズ「生きる テリーとドリー」を思い出した。
「毎日毎日同じことの繰り返しで生きてる気が、しないんだよ!!!」とため息をつくドリー(原田泰造)に、弟のテリー(ホリケン)が板割りさせたり唐辛子まみれのゆでたまご食べさせたり熱湯かけたりと毎週違う悪戯を仕掛ける。ドリーは苦痛に悶えるが、「おにいちゃん生きてるじゃん!!!!!」というテリーの言葉に「ほんとだ!!!俺生きてる!!!」とハッピーエンドで締めくくる無茶苦茶なコントである。
子供ながらに、こんな痛そうなことよくやるな、、と若干引いていたが、このコントが今でも記憶に残っているのはそんな昭和的要素だけが理由ではなく、その背後に「生きてるってなんだろ生きてるってなあに♪」という超絶普遍的でポップなテーマが流れていたからだと思う。
そういえば夢か現実かを確かめる時にも、よく主人公が頬をつねって「痛い!夢じゃない!」なんて言っている。頬をつねることと自決なんて比べものにならないことはわかるけれど、やっぱり人間が「生きてる」ことを確かめるための絶対的手段は「自分を痛めつける」ことなのかもしれないなあと思ってしまう。
けど、本当にそうだろうか。
信二が死を意識した瞬間は2回あって、交番勤務で誰もいない町を監視し続けていたときと、ライブハウスに立て篭もった仲間を取り締まる立場に置かれたときだった。自分が存在する意味が感じられないから「死のうかな」と、誰かを犠牲にするくらいならば「自決するわ」の意味や目的は全く違うけれど、死んでしまったら「あの人は自殺した」という事実だけが残って、本当の気持ちなんて誰にも伝わらなかったんじゃないか。
それよりも、ライブハウスで肉体と感情を放出したり、氷結ぬるま湯割りを浴びたり、そんなことを続けて生きていさえすれば、犠牲にした「あいつら」ともまたやり直せるかもしれないのだ。
人を救うのは信じる心とか、愛とか、そんな抽象度の高い概念を伝えられるよりも、アルコール度数の高い氷結をぬるま湯で割って飲んでいるふたりを見ている方がよっぽど感情が動いたのはなんでだろう。
先の見えない世の中には目指すべき概念があふれていて、ビジネスの世界では会社の存在意義を「パーパス」なんてかっこよく言ってみたり、私だって「すべての人が自分らしく生きられる、誰も置いてきぼりを生まない社会を作ろう」なんてこと言っちゃったりしている。
だけど、それってじゃあ何をしたらいいの?って話になるととたんに威勢はしぼんで、「できることから始めよう」って結局わたしたちに丸投げかーいなんて展開が訪れる。もちろん一つ一つ国や企業が行動指針をしめすとなると、アベノマスクや牛肉券みたく反感を買いやすくなるだろう。みんなが同意できるのは、大きな理想的概念だけなのだ。だからこそ、芸術が示してくれるひとつの行動が、自分にとっての支えになるのだと思う。
2人の麗子、仕分け記号としての妻
この舞台に喰らったあと原作の「憂国」を観て、また喰らってしまった。信二が「あぁ、、セックスするの忘れてた、、」としきりに悔やむのも頷けるくらい、自決直前の「生きる」二人があまりにも美しく描かれていた。そしてその対比となる自決はあまりにも生々しくて画面越しでも目を背けてしまったというのに、麗子の目は「見届けなければならぬ」とひとつも動かなかった。夫のあとを追う女性像は、男性文学と評される三島作品ならではのリスペクトなのかもしれない。美しくて強い。けれど、崇高な自決に憧れた2020年の信二を、麗子は「武士ってんじゃねーーーよ!!!」と一蹴した。わたしにはそれが、今の女性像、妻像でありたいと思った。三島由紀夫さんが描く麗子も、長久允さんが描く麗子も、一見真逆の行動ではありながら夫を支える姿は同じ。でも、今描くべき支え方は、間違いなく後者だったんじゃないか。エロティックで崇高な死ではなく、汚くて酒まみれでゲロまみれの人生を一緒に生きていく、その選択に信二を導いてくれた麗子が、これからの希望なんじゃないかと思う。
にしても小春さん。。感情を肉体から放出することにかけては演技もダンスも変わらないのだなと思い知らされました。。
舞台と映画、フィクションとライブ
舞台を観る、その時点で、現実とは違うフィクションの世界に連れて行ってもらえるものだと、無意識下のうちに私の観劇スタンスは決まっていたが、「(死なない)憂国」内容そのもののライブ感と、演出方法・撮影方法によるライブ感が掛け合わさり、もうこれはイマ・ナマの現実をこの目で見ているのだ、と思わざるをえなかった。
マイクを使って舞台から語りかける2人。その瞬間、わたしは信二と麗子をただ見守る観客ではなく、彼らの叫びを受け止める第三者として、舞台の登場人物になった。
それと同時に彼らの言葉は、つたえたいことがまとまらないまま飛び出したようで、居酒屋で先輩に最近の悩みを語り散らすときのような、仏壇のお鈴が鳴り終わる前にひといきで近況と感謝を届けるときのような切羽詰まった生々しさを持っていた。
YouTubeで筋トレしてみたり、結婚式は延期になってしまったり、ムラムラタムラにハマったり、あぁこのひとたちも2020年を生きるひとりなのだなと、舞台をライブとして感じる小さな瞬間はいくつもあって、だからこそ彼らのいう「にーぜろにーぜろですからこちとら!!にーぜろにーぜろですから!」は凄まじく説得力があった。
そしてそれらをPC画面からでも感じさせてくれたのは、舞台に上がるカメラである。三島さんの憂国とおなじ、四角い箱の中と外を、縦横無尽に駆け回り信二と麗子に寄り添い汗のしずくまでを映し出した、たった1台のカメラは、日本刀でライブを切り裂く信二の表情や、バチバチとフラッシュの焚かれるラップ越しのキスシーンなど、定点で観ていたら絶対に感じられなかった気持ちの高ぶりを届けてくれた。
劇団ノーミーツの舞台は、コントロールできない視聴環境をもカバーしうるだけの没入感が生み出されていて本当に尊敬する。圧倒的技術力だけじゃなく、観る人の視点に立って寝転がりながら考えてみる、みたいな地べたの想像力が、関わる人みんなに備わっているんだろうなと思う。
観終わったあとの私は、「舞台なんだけどもはや映画で、でもリアルでこれはなに!?という感じ」と動揺するしかなかった。てかそもそも映画の定義って何?というと明確な定義はなく「映像作品」でしかないと思っている。ワンカットで撮る映画もあればドキュメンタリー映画もあるし、映像の美しさやカメラワークも千差万別だ。だからこの「(死なない)憂国」は舞台であり映画であり、つまりは舞台好きにも映画好きにも見てほしい作品なのだ。「家」の概念が崩壊したように、「舞台」「映画」の定義だってどんどん変わっていく。そこに懐疑心を持つ人もいれば、新しいコンテンツの形に胸を高鳴らせる人もいて、それでいいんじゃないかと思う。
まだまだ考えはまとまらないけれど、ひとまずこんなことをぐるぐる考えながら、セリフやシーンを全てWordに文字起こしした。2020年失われかけたライブが詰まった宝物である。そして最後にわたしがぐっと来すぎた、長久さん・信二と麗子の言葉たちをこちらに。。
・人間にはロマンチックが必要なんです
・汚い×汚いで相殺で美しい!!!
・ああ言葉とは強いものです
・日本人の一番尊い部分が、そのへらへらとした生命力じゃないか
・自決を止めるのが結婚なんだなって
・濃厚接触者ってことばができる前から、ぼくたちは濃厚接触者だった
・物理的にはまだ生きている、俺たちは白でも黒でもない、きったねえロフトの床だ!