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無い物ねだりの毎日です
ここ1,2ヶ月、区役所ランチにハマっている。
そもそも自分の会社の近くに区役所があること自体最近分かったのだが、区役所などの公的機関にある食堂は、誰でも自由に利用可能らしい。
私もほかの区役所には行ったことがなく、場所によりメニューの豊富さもコスパもややばらつきはあるようだが、イメージとしては大学の学食のようなアットホームさだ。
さて、私はとある23区に勤務地があるわけだが、その区役所食堂メニューにある「バランスプレート」が素晴らしいのだ。
まず区役所に入るときから少しドキドキする。実質まったくそんなことはないのだが、人の会社に勝手に入るような、少し悪いことをしているような感覚に。
食堂階に着き、慣れない券売機で食券を買う。
お盆を持っておばちゃんの待つレーンに並び「バランスプレート」の券を見せると、ご飯、味噌汁、メインプレートをとんとんとリズム良く置いてくれる。
箸を取り、最後に自動給茶機であったかいお茶を選び、お盆に乗せる。
見晴らしの良い席を探して、1人席につく。
両手を揃え、声には出さず、軽く頭を下げて。
"いただきます。"
必ず汁物から手をつける。
バランスプレートは日替わりで、ご飯、味噌汁、小鉢3つ、メイン、さらにデザートまでつき、値段は680円。
ある日のメニューがこちら。
ポークケチャップ
青菜のおかか和え
紅白なますの甘酢漬け
キンピラレンコン
レモンゼリー
東京都内において、ここまで揃って700円を切るのだから素晴らしい。
この定食は、何と言っても品数が多い。
そして野菜が多くバランスが良い。
栄養に飢えたOLは、日々、その恩恵にあずかっているのである。
また同じメニュー
だが、先日、はじめて同じメニューにぶち当たった時、その心情は自然と湧いた。
(あ、先月と同じメニューかぁ…)
覚えのある、ポークケチャップのプレートを見た瞬間、少しがっかりした。
がっかりした自分に気づいたとき、正直驚いた。
初めてバランスプレートを見たときは、あんなに感動し、ありがたみを感じていたのに!
同時に怖いとも思った。
新しいことへのワクワクが、いつしか"当たり前"になってしまう日常。
ふと、実家のご飯が連想された。
うちの母はいわゆる専業主婦で、パートなどもせず、毎日家にいてくれた。(今となれば父がすごいこともわかる)
朝・昼・夜とご飯が出てくることは当たり前だったのだ。
しかしそのありがたみに気づくことなく、「えー今日は魚かぁ」だの、「この味あんまり好きじゃない」だの、好き勝手言ってた訳だ。
あまつさえ夕食時ぎりぎりになってから、「今日はご飯いらない」と素っ気なくメールをしたこともあった。
そんな私に文句ひとつ言うこともなく、翌朝には新しいご飯を出してくれた。
今になって母の心情を思うと、区役所の片隅で、少し目が潤むのを抑えられなかった。
「当たり前」というありがたさ
当たり前にあるものにありがたみを感じなくなる。
それは今に始まったことではなく、何度も経験してきた感覚。
人間関係でも、物でも、仕組みでも、何に対しても。
そして、失くして初めて気づくこともたくさんあった。
気づけず、大事にできず、後悔したことも。
今ここにあるものは、今ここにしかないのにね。
それでも私は、また同じことを繰り返してしまうのだろうな。
なんというか、決意しても仕方のないことなのだ。長年「自分」をやってきて、それも自分でよくわかってる。
無い物ねだりの毎日ですな。
里帰りする電車の中で、そんなことを考える。
せめてそう気づいた今は、目の前にあるものを大事にしたいなと思う。
家に帰ったらお母さんとお父さんをいたわろう。たくさん話をしよう。家のことも少しは手伝おう。
うん。よし。
自分の目の前にいてくれる人、こと、ものにちゃんと目を向けて、大事にできる夏にしよっと。
夏休み、これといった予定のないひとり身OLは、そんなゆるい決意をしたのでした。