コミュニティーと環境教育 : 役を割ることで「わかる」と「かわる」
ゲスト:山口 洋典さん
(立命館大学共通教育推進機構准教授・浄土宗應典院主幹 ※2013年当時)
「コミュニティデザイン」という分野が注目を集めています。まちづくりや地域活性化の取り組みの中でも、地域のコミュニティが活き活きと、そこに暮らす住民が愛着と誇りを持ちながら、その場所で暮らしていくにはどうしたらいいのだろうか。そのための、つながりや関係性をデザインしていく取り組みです。もしくは、よりよい社会や暮らしのために、物質的な豊かさではなく、人と人、人と社会、人と環境の関係性の豊かさを追求する考え方だと言えるかも知れません。このような視点は、持続的な社会を目指す環境教育の分野にも通じる重要なテーマです。
今回は京都府の立命館大学で、学生とともにコミュニティデザインを実践されている山口洋典さんをお招きし、「コミュニティと環境教育」というテーマでお話しいただきました。
① 人間と環境の関係性のデザイン:集合体を包み込む良い雰囲気づくり
今日は多くの方にお越しいただきありがとうございます。今日のキーワードは3つありまして、「関心」「役割」そして「異化」の3つです。これだけだとピンと来ないかも知れませんが、この3つが鍵になって、いろんな思いが駆り立てられるかなと思っています。
今日は工夫をしてこんなものを持って来ました。折り紙です。今からこれを使って、コミュニティーと環境教育についてのさわりを深めたいと思います。どんな手段を使っても良いですから、おりがみで何かを作ってみてください。ただし、制限時間は5分です。
(5分間で各自が折り紙を折る)
それでは、ご自身が作られたものを周りの方と見せ合ってほしいんですが、もう一つ条件を付け加えたいと思います。皆さんが作られたものに作品名をつけてください。なぜその名前を付けたのかも含めて、周りの方と意見交換してみてください。
ありがとうございます。今日はただ折り紙を折ってくれとお願いしたのではなくて、折ったあとに名前をつけていただこうとしたのです。
今日は「コミュニティと環境教育」というテーマをいただいて、副題にこんなことを考えました。役を割ることで「わかる」と「かわる」。この分かると変わるの部分が今、皆さんに体験、体感をしていただきたかったことです。
いろんな人と人との動き、それによってコミュニティが生まれるんです。人の動きの背景にはストーリーがある。この鶴に名前を付けてみると、単なる鶴ではなくなってくるんですね。命名という言葉がそうですが、命を吹き込んでいくこと、物語をつくるということによって、いろんな人の動きや気持ちが重なって、コミュニティというものは活性化していく。物語をつくっていくことが、結果としてコミュニティをつくっていくことにつながると思います。
「環境」というと、自然環境ということに引きずられがちかも知れませんが、こうして物語をつくる環境が、いろんな人と人、人とモノとの関わり、あるいは新たな動きをつくっていく素地になっていくものです。今日は、そんな良い雰囲気、良い環境づくりこそが関係性のデザインであり、コミュニティデザインなんだということをお話ししていきたいと思います。
コミュニティって何だろう。難しいですね。コミュニティって捉えどころがないと思います。なので、私がコミュニティを強く意識させられた原体験をお話ししたいと思います。
それは、この言葉によって括られます。「感覚化」。要するに、コミュニティの中にはいろんな感覚で引っ張ってゆく人もいれば、足を引っ張る人もいる。いろんな人たちの感覚によって、そのコミュニティは左右されるし、あるいは左右させられてしまう。そんな経験をしたということなんです。
私がまだNPOの職員をしていた時に、学生を連れて内モンゴルでの砂漠緑化のプロジェクトに関わりました。もともと牧草地だったところが砂漠化してしまって、そこで日本人が緑地化と循環型の農業をしようと入っていったわけです。日本の方なので言葉も通じるし、現地との関係も出来ていたので、そこに学生を送り込んでいくというNPOの仕事をしていました。
今から2人の方の感想を紹介するんですが、それが私を苦しめたんです。さっきの感覚化です。ひとつは年配の方で、「説明がほとんどなく、活動の内容もわかりにくく、個人の思いや情念が伝わっただけです。」という感想。なぜここで、なぜこういう方法で砂漠緑化をしているのか、ちゃんと説明してほしいというちょっと批判的な意見でした。環境にかなり関心のある方で、ちゃんと知りたいという思いがあるわけなんです。
もう一人、こちらは高校を出たての大学生なんですが、「日本では体験できないことをたくさん体験できたし学べた。きっとまた何回か活動していくうちに、活動の意味をもっと深く知ることができると思う。」何でこうも違うのかということがショックだったんです。
枠組みにこだわる人と中身にこだわる人がいる。すなわち、分かりたい、全容を知りたいという、枠組みや構造に関心を向ける人と、何かを変えたい、変わりたいという、中身や状況に関心を向ける人がいる。構造的関心と状況的関心。その両者がぶつかると、感覚によって意思の疎通が難しくなったり簡単になったり、人が集まったり離れたり、あるいは共同体の連帯が強くなったり弱くなったりします。もう一度言うと、この箱と中身の関係がうまくいかないと、コミュニティというのはなかなかうまくいかない。左右させられてしまう。こんなことを感じたということです。
一歩引いてみれば、年配の方には「もっと楽しんでね」と言いたいし、学生たちには「楽しいだけではダメだろう」と言いたい。この構造と状況というそれぞれに向いている関心を、上手く織り交ぜていくこと、そうしてお互いが良い雰囲気に包み込まれるようにするにはどうしたらいいんだろう。そういうことが、私にとってのコミュニティデザインの出発点でした。
そこでいろんなことを学びました。それが環境教育という分野です。オーストラリアのジョン・フィエンという人が「環境のための教育」という本の中で、環境教育をどういう枠組みの中で提供すればいいかを考えた方がいいと言っている。環境教育っていろんな意味がありますよね。クラスルームでの教育だけが環境教育じゃない。批判的カリキュラム理論というのをこの人は提唱しているんですね。簡単に言うと、環境問題は社会的な公正さが貫かれない中で、政治的、構造的な問題が顕在化して起こるということ。関係が固定化し、それによって状況が悪化しまうということです。関係が固定化しないようにするためにはどうしたらいいのか、そしてその状況をより良くしていくためにはどうしたらいいのかという、この2つを上手く織り交ぜていくことが大事だということがジョンさんの主張でした。
環境教育というのは、環境に「ついての」教育と、環境の「ための」教育、この2つが対極的に位置づけられるだろう。「About」と「For」という言い方がありますが、環境について学ぶのが学校であり、環境のための教育はどちらかというと社会でなされます。もちろん逆の場合もありますが、環境についてちゃんと学びたいと思っている人と、それが感覚的な理解として環境のためになっているかどうかということを、うまく現場で結んでいくことが大事です。要するに、Through、環境を「通した」教育として、分かりたい人とより良く変えたいという人を現場でうまく結んでいくことが大事だということです。逆に言うと、私は現場で学ぶということを大事にし過ぎていて、両者をちゃんと結べてなかったんじゃないか。ということで腑に落ちたというか、救われた気がしました。僕は現場派なので、とにかく現場に身を置いて実感することが大事だということを改めて、そして現場でやれば良いだけじゃないということを、この中から学ばせてもらいました。
こんな本にも出会いました。ミルズという方が「社会学的想像力」という本で書いているんですが、トラブルとイシューは違うと言っているんですね。紛争と論争は違うと。要は、個人的に起こっていることと社会的に起こっていること、その問題の捉え方を区別しないとわけがわからなくなるよということです。
紛争というものは狭いところで個人的に起こるものであって、ともかく早く対応することが大事だと。反対に論争というのは、そもそも根付いてきた枠組みが揺らいでいる。トラブル(紛争)には早い対応が求められますが、イシュー(論争)は根っこみたいなもので、時間をかけてできたものに対しては時間をかけて対応することが大事です。環境問題も、トラブルという個人的に起こっている事じゃなくて、イシューとしてちゃんと掘り起こしていく必要がある。個々の問題には必ず原因があって、枝があれば幹があり、木があれば森がある。
そうして最終的に出会ったのが人間関係なんですね。要するに個人の頭の中だけではなくて、いかにして集団の中、グループの中で人はうまく振る舞えるのか、それが私の専門です。
大事なのは、鳥の目と虫の目、マクロとミクロと言うように、いかに複眼的な視点を持つか。トンボが近くも遠くも見るように、視点を変えるということです。物事に対して、引いた目ととことんこだわる部分を使い分けられると、うまい人間関係のデザインが出来ると言えます。
人間関係というのは、バームクーヘンとか年輪のように階層的になっているわけではないですね。階層的な社会もありますが、こういう関係はまさに年輪のように時間をかけて出来ていますから、変えるのはなかなか難しい。そしてその閉鎖性を問題にする人も多いですね。むしろ重層的で、ひとつが動くと全体に影響を及ぼすような、人の動きや何かの動きによって全体の雰囲気、構造、あるいは状況が変わっていく、そういうものが現代社会だと捉えることができます。流動性が高く、観光で人がどんどんやってくることがあれば、限界集落では人が次々に出て行くことも含めて、人の関係がどんどん変わっていく。そういうときにどうしていったらいいのかということが、環境教育という視点から、どういう環境をつくっていくのか、それを良い方向に持っていくコミュニティデザインという視点が生きてくるんじゃないか、こんなような話をしていこうと思います。
その時にこんなことが鍵になるということを覚えておいてください。昔から言われてきたんですが、「3M 」という言葉です。「Man」 と「Material」と「Money」。人とものとお金、この3つがあれば、世の中や環境というものがデザインできるとされてきました。経営資源という呼び方をする人も多いですね。ただ、この3つをデザインしていくだけではなかなかうまくいかないのが現代社会の難しさです。出入りが激しく、人との関わり合いが見えない部分、例えばインターネットの世界も含めて、なかなか関わりが難しくなっています。
その3つに加えて、今では情報も重要な資源となっています。他にはアイデア、いろんな発想を豊かにしていくことも大事です。そしてなによりも人脈、自分ではなかなかできない部分も、誰かに頼ればそれで物事がうまく運ぶようなネットワークが大事ですね。
この3つと、昔ながらの経営資源は性格が違います。どう違うかというと、上の3つは調達するもの、外から持ってくるものです。しかし、下の3つは自らが生み出すことができるものなんですね。外から調達しなければいけないものと、自分で生み出すことができるものを上手く織り交ぜて、さて何が出来るんだろうと考える。それを個人ではなく、集団で考える。そして実施していく。こうした動きが出てくれば良い環境が生まれるし、そこには納得できる、意志の疎通がうまくいっている、そして人が集まる、活気のある共同体ができ上がっているんじゃないかと思います。
これをキャッチフレーズ風に言うと、フットワークとネットワーク。人が動く、足取り軽く動く、そしてそれがつながりになっていく。コミュニティデザインというのはたいてい「つながりのデザイン」だと言われています。つながりというものは、つくるだけじゃなく、それを維持する、つながり続ける、つながりを活かすことの方が難しい問題です。では、どうやってつながりというものを維持発展させていくことができるのか、つくることよりも維持発展させていくことが難しいのはなぜなのかということをお話ししたいと思います。
② コミュニティとは共同体?:異質性に支えられる人間と環境の関係
「無縁社会」という言葉が、2010年1月のNHKスペシャルの放映で取り上げられました。3万2千人の方が孤独死されていることを「無縁死」と捉えたのです。そして、人間関係が希薄になっている現代社会への問題提起として、この言葉が用いられるようになりました。
ちなみに、週刊ダイヤモンド2010年4月3日号では、いくつかのデータが図解されていましたので、ここで引用させていただくことにします。まず、無縁社会というのは3つの縁が希薄になっている社会だと言われています。1つ目は血縁、2つ目が社会や仕事場の縁、3つ目が地縁です。
1つ目、血縁が薄くなってきていることを表しているのが世帯数の変化です。家族の数がこの45年で倍以上になっているんですが、人口は倍にはなっていないんですね。これは家族のサイズが小さくなってきているということです。核家族を含めた単独世帯が、全体のほぼ5分の4を占めている。このように家族のサイズが小さくなってくると、人と人との関わりが日常的に薄くなってきているんじゃないかと、血縁関係の薄さということを言っています。
2つ目、社縁の薄さ。これは非正規社員の比率が高くなっていることでわかるでしょう。バブルがはじけたのが91年と言われていますから、そこから軒並み上がっている。職場環境が激変していきます。愛着を持って仕事をしていきたいと思っても、都合の良い即戦力という名前の元に人がパーツのように変えられていく。よって、新卒採用、終身雇用、そして年功序列といった、日本の戦後の3つの特徴はもはや失われました。終身雇用で、年々自分の腕を磨き、知識を肥やしていくことが大事だとされていた。だからこそ、年長者を奉る、教えを請う。それによって職場の環境というものが良い雰囲気で、新たなものを産んでいくような環境だったんですが、今はそうではない。
そして地縁です。これはOECDという経済関係の国際機関による調査なんですが、国民一人あたりの所属団体数を比較してみると、日本は平均で1以下です。このように会社以外、仕事以外の肩書きや、地域の中での役割というものがない。だからこそ、人との関わりが薄いとも言われています。国際的にも日本人は地域活動に積極的ではないということなんですね。
このように日常の生活や仕事環境、そしてなによりも地域での自分の役割、そうしたものが深まっていかない傾向があるということをこの統計が教えてくれています。
2011年の東日本大震災が起こる前から、実はつながりという言葉がテーマになっていました。レスター・ブラウンという環境問題の世界では有名な方が言っているのは、ジャパン・シンドローム、「日本症候群」というものです。このジャパン・シンドロームには3つのポイントがあると言われています。1つ目が穀物消費量の拡大、そして耕地面積の減少、3つめが穀物生産量の減少。たくさん欲しがって、作る場所が減っていて、実際作られた量も減っている。これを同時に経験している国で、更に食糧自給率が30%以下という、こんな国はない。日本はどこに行くんだろうということが、ジャパンシンドロームという言葉で取り上げられています。
これはもう個人の問題じゃないですよね。人がどう生きていくのかという問題で、まさに共同体のあり方が問われている。この共同体の問題を議論していくときに、コミュニティデザインという言葉が話題になりました。人がつながる仕組みをつくるということ、どう支え合うのか、どう共に生きていくのかということが大きなテーマになったんです。
あの大震災の後なんですが、山崎亮さんの「コミュニティデザイン ― 人がつながるしくみをつくる」という本が注目され、爆発的に売れていきました。この本に何が書いてあるかというと、山崎さんが関わったいろいろなまちづくりの事例が紹介されているわけですが、単なるまちづくりではなくて、山崎さんのような外部の人が関わって地域の人に火をつけていく、そして地域の人たちが立ち上がっていくというような事例なんですね。こうした山崎さんの活動が、各地での取り組みそのものよりは考え方に関心が向いて、コミュニティデザインということがよく言われています。
ほぼ同時期にこんな言葉が世の中に出回りはじめました。「共異体」です。共同体に対して共異体。共同体と言うからには、「同じ」部分ばかりに注目してきたんじゃないか。でも、同じではないと言っている人たちも、実は共同体を見ているんです。つまり、同じ部分を見ているということは、違う部分は何かというものを、知ってか知らずか、意識しているだろうと。共同体を見ている人たちは共異体を見ているし、共異体を見ている人たちは共同体のあり方を見ている。こういうことを言った三浦展さんは、この共異体についていくつか条件を出しています。①成因が固定的ではなく、②空間に束縛されない。さっきの言葉を使うと流動性が激しいということですね。そして、③時間的に限定的で、④競争しない。それこそが共異体であると言っています。
何かコミュニティが変化していて、あそこの街がやっているからやってみようということではなく、自分たちの地域をどうしていくかを考えるときには共同体のあり方を考えるんですが、逆に言うと、違う人たちが共にどう暮らしていけるかを考えていく発想なんだと言っている。さっきの図を使うと、共同体というのは価値の調整をしていくものなんですが、それぞれの人たちが違うということを前提に、暮らしている人たちの価値を共有していく。違うからこそ同じ部分がのりしろになって、じゃあこれは誰々さんに任せてみようとか、逆に違う人たちとどう関わるかを考える。同じ部分を見るからこそ、違う部分はなんなのか、逆に違いがあるんだけれども、何が同じかを考える。人の暮らしや地域の暮らしというものは、価値の調整から価値の共有へと、今一度違いを前提とした、共に過ごしていくあり方を見い出していけるんじゃないかと言っているわけです。
だからこそ、コミュニティデザインというものは、「コミュニケーションデザイン」という言い方が出来るんじゃないかと考えています。
私は仕事をしながら大阪大学の人間科学研究科という大学院に通い、社会心理学の一分野であるグループ・ダイナミクスを専門にしました。大学院を出た年にコミュニケーションデザイン・センターという組織ができたのですが、指導をいただいた渥美公秀先生が設立メンバーの一人ということもあり、いかに人間関係をデザインしていくのかを学ぶ機会を得ました。そしてそこで学んだもののひとつに、こんな理論があります。ヘルシンキ大学のユーリア・エンゲストロームさんによる「活動理論」というものです。
人間関係というのは、〈私〉と〈あなた〉ともうひとりの〈仲間〉との関係によって、うまく調整ができる。私と仲間との間は何らかの「約束」で結ばれている。ある約束の下に関係が成り立っている。私とあなたは何か良い「手法」で関わり合っている。あなたと仲間との関係は、あなたが主役だという「役割」が与えられて、それをそっと見守っている仲間がいる。そんなことを言っています。
コミュニティデザイン、これは形がないですよね。形がないものを最初に始めていくのは、アクションを起こすということです。だた、その1回限りの活動でうまくいったとしても、それを続けるのはものづくりよりももっと難しいはずです。
そこでもう一度さっきの図です。今度は言葉を少し変えました。人間関係のデザインというのは、関係のデザインではなくて、関係性のデザインだということなんですね。物の売り買いを例えに出すと、〈私が〉作ったものをあなたに売るのか、〈あなたに〉作らされて買われるのかによって、売り手と買い手という関係は同じようですが、そこでの関係の〈性質〉が変わってきます。関係のデザインではなく、〈関係性〉のデザインと言っているのは、この背後にあるいろんな前提が変わってくるからなんですね。
その前提というのが、先ほどの「役割」や「約束」や「手法」で、その言葉を少し韻を踏むとこんなふうになります。「ツール」、私とあなたはどういう手段や手法で関わり合っているのか、その性質。「ルール」、私とそれ以外の人は、私とあなたを支える多くの人はどういうルールに基づいているのか。あえて関わらなかったり、積極的に支えたり、その時の約束はなんですか、ということ。そして「ロール」、なによりも私とあなたの関係を考えるときに、私とあなた以外の多くの人たち、見守っているのか無視しているのかわかりませんが、そこにはどんな役割があるのか。助けてって言えばもしかしたら助けてくれるかも知れない。ということは、仲間に対してこちらからロールを求めていないんじゃないか。あるいは、この人たちが困っていたら、むしろ自分の方に引きつけていくこともあるかもしれない。関係のデザインじゃなく、関係性のデザイン。関係を支える性質を変えていくということが、コミュニティデザイン、もしくはコミュニケーションデザインにおいてはとても大事なんだということを伝えたかったんです。
なぜそれをしているのか、どのように関わり合っているのか、その人たちに役割を求めているのかどうか。まさに「役を割る」って言うぐらいですから、ちゃんと役を割っているかどうか、自分だけでしようとしていないかどうか、支援をする相手から逆にその人たちが主役になるように、いろんな関係の性質を変えていく。そこが重要で、そこに出来事づくりをしていくコミュニティデザインの難しさと楽しさがあると言うことを感じてもらえればと思います。
③ 私の「環境」での教育:無縁社会と言われる時代の「結縁」
私は應典院というお寺で、こんなふうに関係性のデザインをしていますという話をしたいと思います。私はお寺の生まれではありません。ここの住職に出会って、じゃあ何かやってみろということで働き始め、そして僧侶になり、大学で働くようになりました。このお寺について書かれた本はいくつかあるんですが、上田紀行さんが書いた「がんばれ仏教!」にはこんなふうに書かれています。「應典院の特徴は、とにかく日本でいちばん、若い人たちが集まる寺だということだ。」
この一風変わったお寺、ふつうお寺が持っている3つのものを持っていません。さっきの言葉を使えば、そういうルールを掲げたお寺です。檀家によらない、お墓を持たない、葬式を出さない。じゃあ何をするのかというと、NPOをお寺の中に置きました。このお寺の僧侶は、宗教法人の職員であると同時にNPO法人の事務局をしています。入信じゃなく、入会で支えてもらっているんですね。檀家制度に拠らない。檀家さんがいないからお墓も持ちません。その代わり本堂を共同使用にしています。そして、お葬式をしない代わりにイベントばかりしています。お葬式をしないから、本堂や研修室をお葬式のために開けておく必要がないんですね。宗教法人が持っている場所を提供する、そこでクリエイティブな活動をするというのが、NPO法人と宗教法人のコラボレーションです。
これは化学反応式のつもりです。私の役割は、お寺が持っている空間に時間を演出することなんですね。お寺に流れる時間を多様なものにする。そうすると、そこにはいろんな人たちにとっての居場所が生まれます。スペースにタイムを掛けあわせると、プレイスになる。今私がしゃべっているこの場所も、もとは机も並んでいないただの空間です。そこに多くの人がやってきて、話をしていくとそれが一つの場になっていくわけですね。
単なる空間に、人がどういう演出をするかによっていろんな場が生まれ、そして消えていく。その場限りという言葉があるように、場が生まれては消え、また新たな場が他の人の演出によって生まれる。これが私の仕事です。
應典院はまちづくりの拠点だという人もいますが、いろんな人たちの関わりがあってはじめて演劇ができるように、私たちは「まちづくり」をしているのではなくて、「まつりづくり」をしていますと、こんなふうな紹介をしています。まつりというのは、その場その場の人たちの真剣な思いと、そして何を次につなげていくのかということ、これがつながってより良い場になっていきます。大事なのは「まつりのあと」なんですよね。多くの人がそのまつりを楽しんだ後、またまつりをつくるときに多くの人が関わってもらえるように、まさにコミュニケーションデザイン、転じてコミュニティデザインに取り組んでいます。
こういう開かれた場づくり、開かれた場を維持するのが仕事です。年間40本ぐらいのお芝居、10本ぐらいの映画、さらには70ぐらいのワークショップや研修会などをおこなっています。
その背景にあるのは、やはり死の環境の変化なんです。厚生労働省が毎年発表している「人口動態調査」という統計によれば、1975年を境に、死に場所が自宅から施設へと変わりました。無縁社会がどうとかではなくて、単純に死がサービス化されていく。ただ、それは昔からの流れなのですが、私たちが危惧しているのは、そのサービスを選択できない人はどうなるんだということなんです。最期をどう迎えるのかという問題に直面していくほど、逆に生の問題、どう生きていくのか、どう生き抜くのかという問題に変わっていくんです。
これは2012年のデータですが、合計で125万の人が亡くなっていて、最大で174万人が亡くなるという時代があと15年ほどで来るんじゃないかと言われています。もはや死は個人の問題ではなく、公共の問題です。他者が他者をどう支えていくのかということが問われるだろうと言われています。実際にお墓に頼らずに、手元で供養することもあるわけですね。小さなお地蔵様の中に遺骨を入れる、プリクラで遺影も良いじゃないか、骨も炭素なので人造ダイアモンドを作ろうとか、ペンダントの中に入れて持ち歩くとか、いろんな取り組みがあります。これは全部、個別化する取り組みなんですね。集団や家族というサイズが小さくなってきている中、もう一度誰かと共に生きてきた痕跡をとりあげられないだろうかと、いろいろな場づくりをしています。
どうしてこんなことをやっているのか、特に芸術文化の取り組みをしている理由は、ソーシャルアートという観点に基づいているからなんですね。作品づくりと共に多くの鑑賞者が巻き込まれていく、ダイナミックなコミュニティデザインの動きをソーシャルアートと呼んでいます。それをお寺でやるということが、3つ目のキーワードなんですね。それは死を美化する取り組みではなく、人が関わることによって、死、あるいは死生観そのものを「異化」させていく。思い込みによって閉じた世界をいかに開いていくのか、アートによっていかにずらしていくのかということを、多くの作家さんたちと一緒に取り組んでいます。その中で死というものに対してどのように他者が関わり、自分の生を見つめ直し、そして亡くなった方の供養のあり方をもう一度問えるのかということをやっているわけです。
そもそも「art」という言葉を英和辞典を引くと「表現」という言葉が出てきます。これを今度は和英辞典で引くと、表現は「express」という言葉にもなる。さらに「express」をもう一度引くと、「思いを届ける」。間を抜いてみれば、アートというのは思いを届けるという意味になる。芸術というとどうしても「鑑賞する」というように、役割や関わりが固定化されているように思うかもしれませんが、こうしてお寺という場所で作家さんを招き、そこでの対話の環境をつくったりすることで、多くの人の言葉にならない気持ちであったり、何か悲しみの感情が起こってきて、新しい場が生まれたり、「私の物語」が語られていったりするんです。こんなふうに、お寺で関係性をデザインする場をつくっています。
教育や福祉や芸術文化、そして葬送がどんどんサービス化していますよね。人々が集う寺子屋や、僧侶が行っていた看取りもありましたが、今では公共のサービスになっている部分を、単に「昔は良かった」ではなくて、もう一度現代的な役割として見つめ直そうとして取り組んでいるのが私のお寺です。住職の卓抜なアイデアが引っ張ってきて、多くの人と関わり、このような場づくりに関わってきました。
④ まとめ:地域を豊かにする物語を編む
今日触れようとして触れられなかったのが社会の制度についてなんですが、国の制度としては「新しい公共」ということを前の政権である民主党が作りました。鳩山さんは首相を辞めた次の週ぐらいにツイッターでこんなことを言っています。「『新しい公共』が一人歩きを始めました。こんなに嬉しいことはありません。私に『裸踊り』をさせて下さったみなさん、有り難うございました。その私に続いて『裸踊り』をしようと立ち上がって下さったみなさん、有り難う。その伝播力が必ず社会を大きく動かすでしょう。」
この裸踊りという言葉は、この動画にその本質が描かれています。スーパープレゼンテーションという番 組でも取りあげられましたが、デレク・シヴァーズさんの「社会運動はどうやって起こすか」。今回のテーマに重ねると、コミュニティデザインはどう始めたらいいのかということになると思います。
リーダーというのはその人についていくフォロワーがいて成り立つよということです。何かを始める人は異端なんですね。しかし、その志の高い変人と、それを支える友人が最初に仲間になることによって、共同体として同じ志が響く。フォロワーは最初に始めたリーダーとは違いますが、最初の仲間として新たな関係が生まれていく。そうして集団の関係性が変化していく。これがとても大事なことだと思います。
多くの本を紹介してきましたが、私もちょっとだけ本を書いてきまして、「地域を活かすつながりのデザイン」という本の中で、長縄飛びを使って比喩にしています。回す人がいて、飛ぶ人がいて成り立つのが長縄跳びですよね。タイミングを見過ぎると飛べないですね。ずっと飛んでたらしんどい、疲れます。だからどうしたらいいのか、うまく縄を回しながら変わることも出来るかも知れません。あえて止めることもできると思います。「信じて頼る」というところから始まって、信頼関係が生まれていきます。いろんな活動は、最初は個人で始めるしかないかもしれません。それが集団になり、地域に広がっていく中で多くの人が響き、関係が生まれてくるんだと思います。
今日は3つのキーワードにそってお話ししてきました。「関心」、「役割」、「異化」です。関心というのは、なぜなのかという構造的な関心と、どうしたらいいのかという状況的な関心という2つが織り合わさって、関係は変化していきます。それをどこかで気に止めていただければ、あの人はなんであそこにこだわるのかということがわかってくるんじゃないかと思います。
役割というのは、自分がいつも支援をする側ではなく、相手を役に立てる。役に立つよりも、役に立てることの方が濃い関係が生まれてくるんじゃないだろうか。そして問題も解決するんじゃないだろうかということなんですね。
そして異化っていうのは、お寺の話しがそうでしたけれども、直球だけではなく、時には変化球も織り交 ぜながら、しかし本質に迫っていけるようにちょっと工夫をしてみる。こんなことが今日は皆さんにお伝えしたかったことです。
コミュニティーと環境教育、役を割ることによっていろんな人が分かり変わっていく、こんな関係性をデザインすることについてお話しをしてきました。ご静聴ありがとうございました。
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主催:北海道 / 企画・運営:NPO法人 当別エコロジカルコミュニティー
後援:(公財)北海道環境財団 / 協力:(公財)さっぽろ青少年女性活動協会
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