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広報は「社内」から

本日、2024年度の神奈川県ボランタリー活動推進基金21成長支援事業「パブリックリレーションズ・サポート・プログラム」の成果報告会が無事に終わりました。県内の10団体の発表と、アドバイザーとして関わっていただいた中間支援組織4団体の3時間にわたる発表を終え、広報の本質的な役割とは何か、(現時点での)一つの集大成の場であったと思います。

今回、「社内」「社会」と二つの軸での広報を考えました。社内と書くと、現代的には会社組織という意味に捉えがちですが、諸説ある語源は古代中国から発祥し、大地に根ざした自然物(大木など)を神格化し拠り所として団結した集合体である「社」、それが転じて組織、団体を表す言葉となったとされます。「その土地に根ざした団体」という意味では、今回参加した10団体はすべて「社」です。
そして、広報はまず「社内」を先に行うべきだと森ノオトでは考えました。ボランタリー団体の場合、活動への理念共感で人が集まり、何らかの活動が生まれます。自分の困りごとから活動を立ち上げた、誰かの苦しみを知ってしまったからにはそれを支えたいという気持ちが湧き起こった……それぞれに活動の原点は異なりますが、ボランタリー活動が起こる際には、誰かの強い「動機」「きっかけ」があり、それをつき動かす炎があります。

その理念に共感した人が集まり「社」をつくります。

まずは社に関わる一人ひとりの原点を知ろう。人によって少しずつ異なるきっかけの中から共通項を見つけ出し、目指すべき社会像をともに描いていこう。私たちの言葉から生まれた「私たちが活動を通してみたい幸せな光景」を思い描き、その未来に向かって私たちらしく、仲間の個性を生かした活動を展開していこうというのが、ビジョン・ミッションをつくるということです。そして、新しい仲間が入った時に、改めて団体のビジョン・ミッションを共有し、その人のきっかけや原点の思いを聞いていく。その繰り返しが「社内広報」、ということです。

それが十分でないままに「社外広報」を続けていると、活動は活発でも社内のメンバーの納得感が十分でなかったり、タスクに追われて疲弊するという状況が生まれます。誰のために何のために広報をしているのか=活動をしているのかがわからなくなり、「社」の団結が崩れていきます。

なので、「パブリックリレーションズ・サポート・プログラム」では、「社内」の声を聴く、「社内」に声を届けるのが順番として先。それがないままに「社外」への広報プログラムには移らない、という順序にこだわりました。

「社外」への広報は、自分が団体の活動や理念を届けたい相手は誰なのか、その人にどのような課題や希望を抱えているのかを解像度高くイメージし、その人にどのように情報を届けるのかを具体的に考え、情報を受け取った人が次にどういうアクションをするのかを、なるべくリアルに思い浮かべます。これを「ペルソナづくり」というのですが、ポイントは、自団体にとって都合の良いペルソナを作り上げるのではなく、実在する人に実際にインタビューしてみる蓄積から設計するということです。これが広報計画や戦略の基礎になります。「相手にしてほしい行動」が定まっていれば、広報の言葉も自ずと決まってきます。「社外」の声を聴き、「社外」に声を届ける。その順番がプログラムの肝と言えるでしょう。

多くの広報は「社外に声を届ける」ことに終始してはいないでしょうか。森ノオト流でいえば、それは最後のお化粧で、その前提となる土壌づくりこそが広報の基礎になるということを、再三、伝えてきました。面倒くさいプロセスに思えますが、そのプロセスを仲間とともに取り組むことで、独りよがりな広報ではなく、広報するたびに関わる人が「ビジョン・ミッション」を確認し、広報するたびに団結が強くなっていくという効果をもたらすのではないかと思っています。

今はなんでもプロセスをすっ飛ばして「成果」だけを求めがちです。目的達成のためのタスク消化に終始しては、本当に「私が見たい幸せな光景」に近づけるのでしょうか。そこに関わる人の内発的な動機や自発性が尊重され、その人らしく関わるあり方が許される場であって初めて達成されるものではないでしょうか。つまり、ボランタリー活動は「プロセスそのもの」に意義があるのではないか、と私はこのプログラムを通じて気づくことができました。

それは効率や利益の最大化を求めるあり方とは相反する考えだと思いますし、最短距離で最大効果を発揮することは難しいのかもしれません。だけど、自分の内なるものから発動し、個が尊重され、強制されない自由意志に基づく活動が誰かの役に立ち、感謝され、社会に何らかの変化をもたらすことができるのならば、幸せなことなのではないか、と思うのです。

今回、私が入らせてもらったコミュニティカフェでは、私の長年の疑問である「一般的なカフェとコミュニティカフェは何が違うのか?」を問いかけました。お客さまに対価をいただいて飲食物を提供する(その味や盛り付け、お皿やインテリアなどで付加価値をつける)のが、私たちのイメージするカフェです。その議論の中で出てきたのが「お客さんも運営側に参加できる」「自由度しかない」という言葉。参加性と自発性が担保されている場で、地域にコミットできる大きな間口がある、ということでした。

私たちは中間支援組織4団体からアドバイザーを迎え、定期的にミーティングを持って、10団体の現在地と社会の状況を反芻しながら、これからのボランタリー活動はどうあるべきかを話し合いました。
団体にとって活動が発展するのは、運営の持続可能性からも望ましいことです。
活動が徐々に形になって継続的な事業に展開し、自分たちでやるものから、その価値を認められて別団体から委託を受けて実施する形に発展していきます。その時に活動の入口が、参加側にとっては「仕事」という選択肢になり、目的を達成するためのタスク側になってしまう。そして、スタッフと参加者の間には「サービスの提供者と受益者」という見えない線が引かれてしまいます。活動が仕事になることで、活動が持続的になっても、参加の窓口は広がるようでもしかしたら狭まるのかもしれない、と思いました。これは今日の我々の課題でもある。森ノオトのスタッフはライターから入ってくることが多いのですが、ボランタリーのライターからスタッフになると、日々の業務の中でタスクに追われて、自らが内発的に書きたいことに取り組む時間がとれなくなり、いつしか書きたい思いすら薄れていってしまうことがあるかもしれない、というのをここ最近の課題として感じています。参加団体の中でも順調に委託事業が広がってきて、「仕事」が入口になったメンバーへの理念共感への課題を抱えるところがありました。これはNPOの発展期に直面する課題なのかもしれませんね。

7月から2月までともに時間を過ごしてきた10団体から、私は多くのことを学ぶことができました。講座時には「講師」と「受講生」という立場だったかもしれませんが、それはその時の関係性というか役割の違いであり、逆に私はコミュニティカフェのことやフードバンクのことなど、さまざまな「現場での知」を学ぶことができました。それぞれの活動の普遍性があり、そこから次を歩む人たちに伝えられるヒントがたくさんありました。

長くなり、書ききれない思いがありますが、10団体のみなさん、アドバイザー団体のみなさん、心からありがとうございます。
この成長支援事業はいったん終わります。来年度は別の形で、どこかで展開できないかと考えていますが、まだわかりません。細くとも何らかの形で継続していきたいと思います。

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