人を誤解する事ほど恥ずかしいことはない
大抵は初対面の第一印象で偏見が生まれる。確かに、見た目は一つの測る尺度。ただ、その偏見になぞらえたような会話しかしないのはどうなのよと。その大きさがでかすぎる。それじゃ本質を探る行為すらも放棄しているように思える。
この人を誤解していた!と気づいた時に、それを恥じるべきだと思うし、それを素直に相手に話すべきだと思う。大抵それ以前の誤解は相手にとって失礼に値することが多い。ネガティブな偏見は、関係を遠ざける。一生近づかない。
正直、どこまでを本当に自分とするかって難しい。僕の場合は、人から思われた偏見も誤解も含め全て自分だと捉えているから、誤解なんて何もないっちゃない。それでも核となる部分と、そうでない部分の判断を間違えられていると思った時に誤解という言葉を使っている。
誤解はあとで解ける
いつでも自分次第で変えられる。これは最近常々思う。やっと、気づいてくれたか僕の隠れていた部分に、と。自分の考え的にに自分から出す部分と聞かれなきゃ出さない部分があるから、そこはむずい。
ただ、直接話して言葉を、話し方を選んで伝えさえできれば誤解は間違いなく解ける。この体験を味わって欲しい。