私は、楽しむための訓練をしつつMy favorite spotで"待ち構えている"のだ。 『暇と退屈の倫理学』
「まあ、いいか」我々は妥協を重ねながら生きている。
豊かさが達成されると逆に不幸になる逆説。
豊かになると余裕が生まれる。金と時間の余裕。その余裕で何をしてるのか?それは余裕がなかった時にできなかった好きなこと。
じゃあ、好きなこととは?
好きなことを自分で意識することができなくなっている。全部広告屋に教えてもらう社会になってしまっている。他人がみんなが何を好きか探って知らせるという仕組み。「あなたが欲しいのはこれですよ。」
まとめると、余裕あると好きなことをする。けど好きなことは、願いつつも叶わなかったことではない。
じゃあ、そもそも我々は余裕を得て叶えたい何かなど持ってたのか?それはもう好きなことが企業に与えられているから確かめようがない。
暇を得た人々はどう暇を使えばいいのかわからない。何が楽しいのかわからない。自分の好きなことがわからなくなっている。まさにオードリー若林。
なぜ暇で新しいことを求めるのか?それは退屈することを嫌うから。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備用意された快楽に委ね、安心を得る。
こうして、暇の中でいかに生きるべきか?退屈とどう向き合うべきか?この本の問いはこいつである。
人間の不幸の原因は「部屋にじっとしてられないこと」
つまり、退屈すること。全ての不幸の源泉。こんな実につまらない理由で不幸なんだから人間はみじめだ笑
考察の出発点は「気晴らし」。ウサギ狩りにいくひとはウサギが欲しいわけではない。その過程が気晴らしなんだよ。不幸から目を逸らし、気を紛らわす騒ぎにすぎない。なのに、人間は欲しくもないウサギを得ることが幸せだと思い込んでる。
熱中できること、自分をだますこと
退屈は病だ。しかし、熱中することで自分はこれをやれば手に入れれば幸せだと自分を騙すことで、避けられる。人間は愚かで惨めだ。
苦しみを求める人間
熱中できるものであるには、負の要素が必要。すなわち、苦しみ。むしろ積極的に求める。
繋げると、「退屈する人間は苦しみを求める。」と言うことが言える。
幸福であるなかの不幸
現代人は衣食住なに不自由ない。満たされているが、満たされて居ない不幸の空気がある。日常的な不幸だ。贅沢病だ。
難しいのは、原因がわからないこと。だから逃れようにも逃れられない。その治療法をラッセルが提唱。
退屈の反対派は快楽でなく、「興奮」だ。
ラッセルの退屈論「退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。」
事件とは「今日を昨日から区別してくれるもの」。人は同じ繰り返しに耐えられない。
ここで疑問が生じる。事件であれば、内容はなんでもよいのでは?不幸な事件でもいいのでは、と。快楽=楽しいことじゃなくていいのだ。だから、退屈の反対は興奮てこと。
幸福な人は楽しみを得た人でなく、求めることができる人だ。
欲しいと思えることが貴重なのだ。
じゃあ、問題はいかに楽しみを得るかじゃなく、求めることができるようになるか?だ。
幸福をもたらすものは熱意を持った生活を送れることだ。
だから、自分の強みを活かす場所が必要であり、幸せなんだ。
[ラッセルの結論] 幸福の秘訣は、興味を幅広くすることだ。
そして、あなたが興味持った人やモノに友好的に反応することだ。
じゃあ、その人やモノはなんなのか?どこいあるのか?
暇と退屈の違いは?
暇は客観的。退屈は主観的。感情を指しているから。
暇だと退屈するの?退屈だと暇なの?
暇=余裕=裕福。暇はかっこいいとされてきた。
暇を生きる術を知る者と知らぬ者 「品位あふれる閑暇」
今の現代人は、暇だったことがないから、暇を生きる術を知らないのに、労働社会から資本主義になり、暇を与えられて退屈してしまったのだ。納得すぎる。
品位あふれる閑暇を知らなきゃいけないなあ。どんな者なんだろうか。
消費社会と退屈は相互依存している。
現代の消費社会は「概念や意味」を消費する。対象がものではないのだ。「あの店に行ったよ」と言うため。知らない店があると分かったらまた行かなきゃ永遠に。ブランド狂いも同じ。
消費によって「個性的」になろうとするが、決してなれないから満足に到達しない仕組みだ。
終わらない消費は退屈を紛らわすが、同時に退屈を生み出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。
[定義] 哲学は「郷愁」=「呼び覚ます」気分である。
「これこそが私の成すべきことだ。」を僕らは探している。
なんで、そうしないと自分に価値を見出せないのか?
自分たちは自分たちを興味あるものにしようとしている。もっと関心を持てるようになろうと。自分に退屈しているのだ。
ならば、退屈の中から哲学する他ない。というわけだ。
退屈の第一形式「何かによって退屈させられること。」
受動形。退屈なものが自分を引きずり込んでいる。暇でかつ退屈している。平凡な大学生とかゲームしている人。
退屈の第二形式「何かに際して退屈すること。」
能動形。なんかよくわからんけど、何かしている時退屈している。暇がないけど、退屈している。つまらん仕事をしている人とか。これが人間の普段の平常な姿。実際、自分が退屈してることにはそんな気づいていない状態。
退屈の第三形式「なんとなく退屈だ。」
第二形式から、何かがトリガーになってここに来る。自分は何かに飛び込むべきなのでは?と思う。そうして、何か見つけてその奴隷になってやってる感を得られて、安心を得る。
ハイデッガーの退屈論の結論「決断」
決断によって、自分の可能性を実現せよ。
決断の奴隷になること
決断は良いイメージがある。けど、決断によって自分を縛っている。それでいい。もう悩む必要はない。決断したらあとはやるだけなのだから。やることが決まっているほと簡単なことはない。
本書の結論1. 「あなたは既に何事かを成している。」
この本を読んだことがまさに。実践の真っ只中にいる。今のままでいいとか、今の自分を認めろとかそんな軽々しいことは言いたくない。
本書の結論2. 「毎回の食事を楽しむ。」
消費社会の説明をした。ブランドやギャンブルに没頭し、永遠の消費をして満足できない構造。じゃあ、しっかり物を受け取ろう。楽しもう。ということだ。衣食住を一つ一つ楽しむ。芸能や娯楽を楽しむ。食事を毎回味わう。私たちは、食べることができていない。最も身近な楽しみだ。
本書の結論3. 「楽しむ→思考」
人は楽しんでいる時、思考が開かれる。楽しむことを学びながら、ものを考えられるようになるのだ。食べることが楽しいから、美味しい食べ物について何で出来ていて、どうすれば美味しくなるのか?考える。映画でも。
「私は待ち構えているのだ。」- どこに行けばそれが起こりやすいのか?
「なぜあなたは毎週末、美術館や映画館に行くのか?その努力は一体どこから来ているのか?」
「私は待ち構えているのだ。」
この表現がまさに自分を体現しているようで驚いた!!!!自分が引き込まれる瞬間を待ち構えているのだ。本能が目覚める瞬間を待っている。そして、彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた、それが美術館や映画館だった。
その場所は学んでいくしかない。日々の中で見つけていくのだ。
大結論「楽しむための訓練をしながら、My favorite spotで待ち構える」
「僕は今、自分のフィロソフィーを作っているところだ。」
僕はこういうことを考えている。君はどう思う?と手渡せるものがあることだ。勉強とは何と素晴らしいものか。