幸せであってもハングリーな表現はできる。『いのちの車窓から』
「僕は人を褒めるのが好きだ。」
そう言えるようになりたいと思った。自分は羨ましいって感じることが人一倍多いからこそ、それを伝えなきゃもったいないからって理由で、初めは自分に意識させようと思う。憧れとはちょっと違う、羨ましい。憧れだと急に遠くなる気がするから。届かないみたいになっちゃう。
ひとりではないということ
ふとおもう。俺の周り、たくさんの人がいるなあ。「ひとりではない」と感じることがある。そう感じられることが嬉しい。
中高大、そして今も「ひとりぼっちだ」と思っていた。その度に悲しい気持ちになり、周りに沢山の人がいたにも関わらず、心はひねくれた。無理やり自分を鼓舞した。孤独からしか生まれない最高の発見がある、と。
「幸せになったら、良い表現はできない」などと、己の人間性や才能に自信がない自分を正当化するための、言い訳に溢れた情けない理論を掲げたりした。
嫌う必要のないものを嫌い、好きでないものを好きと言って、人と違うことをアピールしようとした。
偽らずにいられなかった
そのままの自分を認められない、偽らずにいられない、誰かに馬鹿にされる前に自分で自分を悪く言い、「をかってますよ」と傷つかないようにバリアを張った。情けない。
そんなことをしてたら、実際にこの上なく幸せな人生だったとしても、幸せな気持ちになんて一生なれないのに。
今はそんなことを全く思わなくなった。
幸福でありながらハングリーな表現ができる人が本物だと思うようになり、自分の心に偽りなく好き嫌いを感じられるようになり、嫌いな話は心だけになるべくとどめ、口にしないようになり、誰かに馬鹿にされたら笑って、心の中だけで傷つくようになった。
それが正解とかじゃなく、自分の性格や環境上この状態が1番生きることを楽しく感じられるというだけだ。正解は世界中、人の数だけある。
ひとりではない瞬間を中心にフォーカスできた
自分はひとりではない。しかし、ずっとひとりだ。誰かに助けてもらった時、優しくしてもらった時、そばにいてくれた時、「ひとりではない」と思えた時の記憶だけが増えていくようになった。人生のひとりではない瞬間を中心にフォーカスできるようになった。
ひとりの時間ばかり目が向いてしまいがちだけど、ひとりではない瞬間を中心にフォーカスできるようになることってすんげえ大切だと思う。
やっぱり自分が幸せだって言い張るべきだ。ただ、自信はなくて良い、自信はあるようなフリさえできていれば。だって俺自身が自信ない奴が好きじゃないから。デフォルトが+だから-に目がいくんだな。人生は加点方式でみるべきだな。