平成、令和、句読点を打つ。
元号なんかなくなればいいと思っていた。
毎年、今年が平成何年なのかわからなくなる。「昭和○年生まれです」といわれてもすぐに何歳なのか計算できない。年の数字がつながってないから、ピンとこないこと甚だしい。これまで日本国民が西暦と明治大正昭和平成の計算に費やした時間とエネルギーを積分したらバベルの塔が完成しちゃうんじゃないだろうか。しかもこのデジタル時代、システム屋さんの悲鳴が聞こえる。非効率極まりないガラパゴス文化だと思っていた。
しかも、異常とも思えるほどの新元号の守秘されっぷり。心の底から、こんなこと本気でやってる日本政府はバカじゃねえのかと思った。期日もわかっている、システム全体に影響を与えるデータ変更ならサッサと発表しろやと、新元号に盛り上がるニュースには冷ややかな視線を送っていた。
昨日、新元号が発表された瞬間は、まるでお正月だった。
たとえばそれは大晦日のテレビ。「ゆく年くる年」でゴーンと鐘がなる荘厳なお寺、全体的に暗めの配色な12/31 23:59。23:59:59から、0:00:00になる瞬間、解禁される「おめでとうございます!」。それは菅官房長官が色紙を上げた瞬間だ。解禁される「令和」。おめでとうございます!次の時代に、名前がつきました!
いま、多くの日本人が、「令和」の到来にワクワクして、浮足立っている。
次の時代が来ることを喜んでいる。ゴールデンボンバーが、サンバダンサーと出初め式をバックに「令和」という曲をキラキラと歌っているお祭り騒ぎだ。「令和」の到来は、祝福すべき慶時なのだ。
そういえば私は昔、お正月なんてバカバカしいと思っていた。ただ人間が恣意的に決めた「暦」なんて根拠が薄弱なものの区切りを喜ぶなんて、お正月はまやかしに思えた。しかし今は大晦日にお蕎麦を食べたりお正月にいい肉を食ったりして新年を人並みに祝っている。
正月を祝える気持ちになったのは、ホスピスで働いて、「人生の句読点」というものを意識するようになってからだった。「お正月まで生きられるかなあ」「桜まで生きられてよかった」。お正月が、桜が、お盆が、紅葉が、絶え間なく続いていく日々に句読点を打つ。句読点がなく続いていく文章は読みにくい。句読点を打つことで、続いていく日々、日々を生きている自分、変化したこと、変化すること、変わらないことが見える。お正月を祝ったり、花見、月見、そういうイベントをすることは、自分の身体感覚で自分の生活に句読点を打つことなのだと感じた。
元号変更も、同じだ。
一年よりも大きいスパンで、句読点を打つ。お正月が「、」なら、元号変更は「。」だろう。句読点が打たれるとき、人間はお祝いしたがる。イスラム教徒もラマダン開けはお祭り騒ぎだし、チャイニーズニューイヤーは爆竹張り裂けまくりだ。楽しい気持ちの身体感覚で、人生を区切っていくのは、人間の習性のようだ。
そう考えると、大きい句読点が打たれる元号がお祭り騒ぎになるのは当然だ。日本は、アップデートされない国だなあといつもイライラしていた。元号なんていうガラパゴスなものに拘ってんじゃねえよとすら思った。しかし、今このお祭り騒ぎ、日本人の多くが新しい時代の到来を喜んでいる。「平成が終わったんだから。」のワードが、時代をアップデートさせる後押しになるだろう。この日本のガラパゴス句読点、皮肉なことに、日本を大きく飛躍させる力になってくれるかもしれない。
「なんかアイツ・・・平成くせえな」とdisられないよう、この句読点を超えて、令和の時代を生きていきたい。