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江戸時代のハイテク・イノベーター調査プロジェクト(1)「川本 幸民」

・はじめに

皆さんは川本幸民という幕末の蘭学者をご存知でしょうか?日本で初めてビールやマッチ、写真機を試作するなど化学の分野で数多くの優れた業績を残した人物です。「化学」という言葉を日本で初めて使ったのも幸民で、文字通り日本の近代化学の祖でありながら、一般にはあまり名が知られておらず、「忘れられた大学者」とも言われています。江戸で3度の大火にあって焼けだされ、蔵書や資料のほとんどを消失してしまったこと、また蕃書調所という幕府の役所で教授職を勤めていたこともあり、明治維新後はあまり脚光を浴びることがなかったのがその理由かもしれません。

ビールの好きな筆者は、幸民がビールを日本で初めて醸造した人物であること、キリンビールの技術者が幸民の著書「化学新書」を元に約150年前のビールの復元を行ったことを知り、幸民に惹かれるようになりました。調べていくと、蘭学者として専門の医学、薬学、物理、化学に限らず、外交、軍事、機械、鉱業の他、馬学、園芸、気象学、地理と多岐にわたる分野のオランダの書物を翻訳していること、故郷の兵庫県三田市では街おこしに一役買っていることもわかってきました。ここでは、そんな川本幸民の魅力をお伝えしたいと思います。

川本幸民出生地の看板(三田市)

・三田の神童

川本幸民は文化7年(1810) 三田藩医川本周安の末子として、摂津国有馬郡三田町(今の三田市三田町)で生まれました。藩校造士館で学問を学んだ頃から秀才で、三田の神童と呼ばれていたそうです。その後、播磨国加東郡木梨村の村上良八塾に入門、医学を学びます。文政12年(1829)藩主九鬼隆国に抜擢され、江戸に遊学。翌年、坪井信道の安懐堂に入門し蘭学を学びます。この安懐堂では、のちに大坂に適塾を開いた緒方洪庵と同門であり、二人は生涯の友となります。天保5年(1834)三田に一時帰国し、藩医となりますが、翌年には再び江戸に出て医者を開業、結婚もして、ここまでは順風満帆な人生でした。

ところが新婚2か月の時、酒に酔って仲間の武士とけんかになり刃傷事件を起こしてしまいます。同僚が、若い時から藩主に目をかけられている幸民を妬んでからかったことがけんかのきっかけで、かっとなりやすい性格が災いしたと言えるでしょう。刃傷事件の顛末として浦賀に蟄居の身となり、謹慎生活は5年に及びました。しかし、幸民のことですから謹慎中も数多くの書物を読み、勉学に励んでいたであろうこと、この挫折の経験が、のちの幸民の飛躍につながったことは想像に難くありません。

・江戸での活躍

浦賀での謹慎生活を終えた幸民は江戸に戻り、弘化2年(1845)頃に薩摩藩からの蘭書翻訳の依頼を受けました。当時の薩摩藩主は島津斉彬で、薩摩藩の富国強兵を進め、西郷隆盛や大久保利道を登用した人物です。藩の近代化を進めるため、西洋の科学知識を必要とした斉彬は、多くの蘭学者と交流を持ち、宇田川榕菴、高野長英、坪井信道、伊東玄朴ら当代一流の蘭学者にオランダの書物の翻訳を依頼していました。幸民が最初に斉彬から翻訳を依頼されて完成させたのは「兵家須読舎密真源」と名付けた化学の入門書で、その出来栄えにいたく感銘した斉彬はその後も多くの翻訳を依頼しています。

嘉永元年(1848)マッチの試作に成功、その後、日本で初めての写真撮影にも成功しました。幸民が51歳の時に撮影された肖像写真を見ると、吊り上がった眉には好奇心旺盛さが、引き締まった口元には我慢強さが感じられます。また、黒船来航時に軍艦に招待されてビールをごちそうになった人の話を聞き、オランダの本を研究して自宅でビールを試醸しました。

幸民は多くのオランダの物理・化学関係の書物を翻訳し、「気海観瀾広義」や「遠日奇器述」、「化学新書」といった本を出版しています。安政3年(1856)幕府の設置した蕃書調所教授手伝に就任。その後、蕃書調所教授並、蕃書調所教授と昇進していき、文久2年(1862)洋書調所教授として幕府直参三十人扶持に取り上げられ、最後は開成所教授筆頭となりました。開成所はその後、東京大学の前身へとつながっていきます。

明治元年(1868)三田に帰国し、三田に英蘭塾を開校。多くの塾生を受け入れましたが、息子の川本清一が太政官出仕のため、家族で東京に移住することとなり、英蘭塾は僅か2年で閉鎖となります。上京後、川本幸民は隠居し、明治4年(1871)に亡くなりました。

・主な業績

医学、蘭学を学んだ川本幸民は、医学、薬学、物理、化学の分野で多くのオランダの書物を翻訳し、日本に紹介しました。主な業績として有名なものには「遠西奇器述」、「気海観瀾広義」、「化学新書」があげられます。

「遠西奇器述」(1854)はファンデルビュルフの自然科学書をもとに西洋の新技術を解説したもので、写真機や電信機、蒸気機関、マッチなど12項目について、技術を原理から説明しており、最新の科学技術の紹介書として当時の洋学者たちに歓迎されました。この「遠西奇器述」の初集の出版は、西洋の科学技術に強い関心を寄せた島津斉彬の薩摩藩によるものでした。

「気海観瀾広義」は全15巻の物理学書で、理学一般の総論から、力学、化学、熱学、電気学、光学などの説明の他、天体や潮汐の理論も詳述されています。

「化学新書」(1860)はドイツの化学者シュテックハルトの著書「化学の学校」のオランダ語訳を日本語に翻訳したもので、元素、化学反応、記号を用いた化学式など、当時の西欧化学の最新知識が詳述されており、日本の近代化学の礎となりました。この本の中で、それまでのオランダ語に由来する「舎密」に代わり、初めて「化学」という言葉を使用しました。この「化学新書」にはビールの醸造方法も述べられており、幸民は「化学の学校」から得た知識を活用して自宅でビールを試醸しました。それにしても、手に入る原料も限られていた時代に、本からの知識だけでビールを作ってしまうのは並大抵のことではありません。辞書も満足にない時代に、多くの分野のオランダ語の書物を読んで内容を正確に理解していた幸民の語学力と化学以外の植物や発酵に関する幅広い知識、実際に作ってみる情熱と技術には驚かされます。「原理さへ分かれば日本人にも作れる」という幸民の強い意気込みが伝わってきますが、このような考えの背景には、古代から中国から持ち込まれた新しい技術や知識を吸収し、独自に発展させてきた日本の歴史と、それを支えた日本人の生真面目さや職人文化、教育水準の高さがあったのだと思います。

・幸民の人柄

幸民はお酒で一度、大きな失敗をしていますが、若い頃から酒好きで、安懐堂時代には緒方洪庵ともよく盃を重ねていました。洪庵が幸民の飲みっぷりに感心して残した言葉が残っています。「幸民いよいよ酔えばいよいよ勤む。吾人の及ばざるところ」

また、金持ちの商人が西洋のマッチを手に入れて自慢し、同じ物を作れたら五十両差し上げましょうとからかったことがありました。負けず嫌いの幸民は黄燐を使ってマッチを試作し、商人に見せます。慌てた商人は「あれは冗談でした」と言ってごまかそうとしましたが、許さなかったそうです。

・薩摩藩とのつながり

幸民は安政4年(1857)に薩摩藩籍に入りますが、何故、三田藩から薩摩藩に移籍することになったのでしょうか?幸民に多くの蘭書翻訳を依頼していた島津斉彬は嘉永5年(1852)に佐賀藩から反射炉の製造法を記した翻訳書を譲り受けて反射炉を完成させたのを皮切りに、溶鉱炉、大砲や蒸気機関の製造所やガラス工場などの建設に着手、いわゆる「集成館事業」を開始します。この集成館事業のために斉彬は幸民の力を必要とし、幸民の獲得に乗り出しました。 

しかし、当時の三田藩主は、幸民を抜擢した隆国から息子の九鬼隆徳に移っており、長年藩主の座にあった父親に反発した隆徳は蘭学嫌いを口にし、火事で焼け出された幸民に対しても慰めの言葉をかけるどころか、「幸民はよく焼けるのう」と言って笑い飛ばすなど冷淡な態度を取っていました。安政元年(1854)隆徳が隠居したのを機に、幸民の移籍は実現に向けて動き始め、安政4年三田藩は幸民の薩摩藩籍への転籍を認めました。

ようやく念願かなって、薩摩藩に技術顧問として迎えられた幸民ですが、蕃書調所での仕事が本業として薩摩には赴かず、江戸にいながらの協力を申し出、結局、大藩の薩摩藩が幸民に譲歩することになりました。このあたりにも、信念を貫く幸民の意志の強さが現れています。

・三度の火事

幸民は江戸で三回も火事にあって焼け出され、その度に資料の多くを消失しています。浦賀での謹慎生活の後、天保12年(1841)に江戸に戻った幸民は天保14年まで桶町(現・東京都中央区)に、その後は芝浦に住みますが、弘化2年(1845)正月に最初の火事に遭います。火事で焼け出された後、深川猿江町、小松町と転々とし、ようやく日本橋小舟町に落ち着いたものの弘化3年正月、再び火事に遭い焼け出されてしまいます。仮住まいの後、日本橋茅場町の代官屋敷に引っ越し、ここで約10年を過ごしますが、安政4年(1857)2月、3度目の火事に遭います。最後は三田に戻るまでの間、木挽町5丁目(現・東銀座)に住んでいました。

明治以降も残されていた貴重な資料は、東京帝国大学図書館に寄贈されますが、これらも関東大震災により灰塵に帰してしまいます。川本家に残されていた一部の資料が戦時中に帝国学士院に、残りは戦後、北海道大学に寄贈され今に伝わっています。日本学士院に所蔵されている川本幸民関係資料の内、化学関係の14点が、化学遺産 第008号『日本学士院蔵 川本幸民化学関係資料』に認定されています。この中には「化学新書」や、幸民夫妻の湿板写真が含まれています。

・史跡の紹介

兵庫県三田市には川本幸民ゆかりの場所が歴史の散歩道として整備されており、出生地や英蘭塾跡、藩校造士館跡、川本幸民顕彰碑などを巡ることができます。

①   川本幸民出生地(三田市三田町)
JR三田駅から徒歩で武庫川を渡ったあたりからが旧三田藩の城下町で、川本幸民の出生地には住宅の前に説明板が建てられています。

②   英蘭塾跡(図2.三田市屋敷町)
武家屋敷の面影が残る閑静な住宅地の一角には、明治維新後、東京から三田に帰国した幸民が開いた英蘭塾跡があります。幕末の三田藩からは、日本の鉄道建設の基礎を築き上げた技術者の九鬼隆範(くきりゅうはん)、強烈な個性の明治の文部官僚であり、駐米特命全権公使や帝国博物館総長をつとめるなど美術行政の中心で活躍した九鬼隆一(くきりゅういち)、北海道開拓事業を先がけ、開拓団「赤心社」の設立と発展に尽くした鈴木清(すずききよし)ら、優秀な人材が輩出され、明治時代に活躍しました。皆、藩校造士館で学び、川本幸民の英蘭塾で学んだ人材で、街中を散策していると彼らの出生地に立つ説明板を見つけることができます。

③   川本幸民顕彰碑(図3.三田市屋敷町2−20) 
三田城跡地は現在、三田小学校となっており、校門脇には川本幸民顕彰碑が建てられています。この顕彰碑は昭和28年に建てられたものですが、日本で初めてビールを試醸した幸民に敬意を表したビール協会から寄付金が寄せられ、除幕式当日はビール2千本が飲み放題だったそうです。

④   三田ふるさと学習館(三田市屋敷町7番33号)
平成22年に川本幸民生誕200年を記念して三田市で開催された講演会の資料や、川本幸民の業績が残る「鹿児島・尚古集成館」が平成27年に世界遺産に登録されたのを記念して出版された資料等が置かれています。

⑤   旧九鬼家住宅資料館(兵庫県三田市屋敷町7番35号)
三田藩主九鬼家は、戦国時代には志摩国鳥羽藩を拠点に九鬼水軍を率いて豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた戦国大名でした。しかし江戸時代に入ると家督争いが起こり、水軍力を恐れた徳川家光はこの家督争いを理由に家督を分割し、内陸の三田と綾部に移封させました。これにより九鬼家は鳥羽の地と水軍を失い、幕末まで三田藩を統治することになります。

三田藩の学問所は元禄7年(1694)に設立され、儒官の白州家が代々朱子学を教えてきました。第10代藩主隆国は、儒学の発展のため文政元年(1818)に聖堂を建て、白州邸内にあった学問所を移して藩校「造士館」を設立、また洋学にも関心を示し、幕末に向け三田藩の近代化を推進する基礎を築きました。

川本幸民が学んだ造士館ではのちに白州退蔵(図4)も教鞭をとりました。白州退蔵は第13代藩主九鬼隆義に抜擢されて藩財政を立て直し、明治維新に際しては大参事として優れた先見性で藩をリードし、難局を乗り切りました。この白州退蔵の孫は、戦後、首相吉田茂の側近として連合国軍総司令官と対等に渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎です。

⑥   清涼山心月院(図5.兵庫県三田市西山2丁目4−31)
九鬼家と白州家の菩提寺で、境内には歴代三田藩主の墓石のほか、白州次郎・正子夫妻の墓石(図6)もならんでいます。

また、幸民が教鞭を取っていた蕃書調所跡(図7.東京都千代田区九段南1-6)は東京・九段下にあり、石碑の説明板には以下のように書かれています。

「蕃書調所は、最初「蕃書和解御用」として西洋の書類を解読して海外事情を調査するために設置されました。その後、幕臣・諸藩の家臣らに対して西洋の文物を教育する機能も加わります。(中略)
のち神田一ツ橋通りに移転して洋書調所、さらに開成所と改称していきます。明治二年に大学南校となり、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身です。」

幸民はこの蕃書調所で教授手伝から勤め、最終的には開成所の校長となりました。

・復元ビール

キリンビールでは創業100周年事業の一環として、2005年に神戸工場で「化学新書」をもとに幸民が造ったビールの復元醸造を行いました。この復元ビールは一般には販売されませんでしたが、その後、小西酒造でも復元醸造が行われ、こちらは「幕末のビール 幸民麦酒」(図8)として販売されています。筆者も幸民のことを知って以来、飲んでみたいと思っていましたが、ようやくJR三田駅近くの酒屋で購入して飲むことができました。日本酒酵母を使用した復元ビールは、上面発酵のエールビール。フルーティで爽やかな喉越しで、幕末に初めてビールを飲んだ日本人にも飲みやすかっただろうなと思わせる優しい味でした。酒好きで好奇心旺盛だった幸民の苦労を偲びながら、美味しくいただきました。

また、三田市では2017年から、幸民の業績と進取の精神に敬意を表し、「三田ビール検定」を実施しています。休日に三田のまちを歩きながら歴史と文化に親しみ、幸民に思いを馳せながらビールグラスを傾けてみるのも如何でしょうか。

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