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江戸時代のハイテク・イノベーター調査プロジェクト(2)「国友 一貫斎」

・国友一貫斎とはどんな人?

国友一貫斎のことは、この記事をお読みの方なら結構ご存じかもしれませんね。ところで、その名前から何を思い浮かべられるでしょうか。最近だと、TVの某鑑定番組で紹介された気砲を制作した一貫斎かもしれないですね。あるいは、宇宙天文にご興味のある方なら反射望遠鏡を苦労して作り上げた一貫斎かもしれないですね。それともいろいろな発明品を生み出した一貫斎も有名かもしれませんし、鉄砲鍛冶としての一貫斎かもしれないですね。このように一貫斎はいろいろな顔を持っていますね。

ところで、このシリーズでは日本のイノベーションを考える上で江戸時代の技術をしっかり知っておく必要があるという理由から、江戸時代の技術者を取り上げてイノベーターとしての仮説を述べています。とすると国友一貫斎はイノベーターといえるのでしょうか。イノベーターの定義を現在良く知られているように、例えば“従来の枠組みにとらわれず新しい事業を興した人”や“既存技術を新たな視点で組み合わせ新しい商品を開発した人”などと定義すると少し異なるかもしれませんが、一貫斎は十分にイノベーターと思える活躍をしたと考えています。今回は、そんな一貫斎にスポットを当てて少し掘り下げてみたいと思います。

国友一貫斎肖像画(国友藤兵衛家所蔵)

・国友一貫斎の生い立ちと国友村の鉄砲鍛冶

国友一貫齋は近江国坂田郡国友村、現在の滋賀県長浜市国友町に生まれました。ちなみに一貫斎は号で本名は藤兵衛(九代目)です。生年月日は1778年11月21日(安永7年10月3日)ですから、今から250年ほど前に生まれています。

国友一貫斎の生家

一貫斎が生まれた国友村には鉄砲鍛冶の集団がいたことで有名ですが、その歴史は非常に古く、種子島に鉄砲が伝来してからかなり早い段階で鉄砲の生産が始まったことが知られています。日本では堺と並ぶ鉄砲の産地で、ほぼ同じ時期に伝わったとも言われています。この国友の鉄砲鍛冶の集団は分業体制で機能性に優れた高品質の鉄砲を生産していました。分業体制は大きく分けて、鉄砲の銃身、火薬に火をつける「からくり」、銃身を支える台座(木材)、鉄砲の装飾(象嵌、メッキ)などで、それぞれを専門の職人が担当していました。こうした分業制は刀鍛冶などでも行われていますが、その手法が応用されたのではと思います。

ところで、鉄砲と刀鍛冶の技術の共通点をご存じでしょうか。
まず、いずれも良質の鉄を使います。というより良質の鉄を使わないと良い刀、良い鉄砲を生産できませんでした。それから鉄を叩いて鍛える金属加工の技術、鉄を接合する技術、刀の柄やあるいは台座を制作する木工の技術などはある意味で共通しています。また、装飾の技術は鍔の技術と共通するところがあると思います。つまり、優秀な刀鍛冶の技術があったからこそ、鉄砲の生産ができたと考えています。また、国友は近くに金糞山(鉄滓が由来か?)があることが示すように、昔から鉄(金属)を扱うことに長けた集団であったようで、そのことも刀鍛冶が、さらには鉄砲鍛冶が根付いた理由の一つと思います。その上、そもそもその技術レベルが高かったのだと思います。というのも、長浜には精緻な細工を施した山車が伝統的に残っており、精細な金属加工やメッキの技術が昔から伝わっています。また、国友は日本におけるネジの発明の地としても知られていますが、これらは当時としては最先端の技術でした。

火縄銃のネジと銃身(国友 鉄砲の里資料館蔵)

つまり、国友一貫斎は生まれながらにして当時の日本のものづくりの最先端技術に触れていたことになります。また、国友一貫斎の生家は年寄脇(脇年寄とも)を務めており、村をまとめる年寄の元で鉄砲鍛冶を束ねる立場にありましたから、鉄砲鍛冶に関わる様々な技術に精通していたと思われます。さらに、一貫斎は17歳で家督を継ぐほど優秀な鉄砲鍛冶で、家督を継いで数年後には弟子をとっています。このことから一貫斎は鉄砲鍛冶の技術に対して相当の思い、こだわりを持っていたのだと思います。

・江戸時代のイノベーターと国友一貫斎

さて、国友一貫齋は江戸時代の身分制度ではどのように位置づけられるのかご存じですか。一貫斎は鉄砲鍛冶の職人ですから、「士農工商」の工の身分にあたります。ただ、幕府からの命を受けて鉄砲を生産していたので、名字帯刀は許されていたということです。

「武士」の身分であったイノベーターと比較すると、職人の身分であった一貫斎という人物の特異性が浮かび上がると思います。というのも職人の身分では普段の生活にも制限が多いですし、そのために得られる情報も少なかったと考えられるからです。武士の身分でも、現在ほど情報伝達手段が発達していない時代に限られた手法(たとえば飛脚を使った手紙など)でようやく情報をやり取りしていた時代です。どうやって情報を得てそれを自分のものとしていたのか、またどうやっていろいろな人と交流していたのか、とても興味深いところです。このことは、今後も継続して調査検討していきたいと考えています。いずれにしても、この時代で活躍した人々は本当に貪欲に情報を得ようとしていたのではと思います。

ところで、ここでイノベーターの要件や素養について少し考えてみたいと思います。かのクリステンセンはいわゆる破壊的なイノベーターは以下の5つの素養を持っているとしています。

“Associating(関連づける力)”、“Questioning(質問力)”、“Observing(観察力)”、“Experimenting(実験力)”、“Networking(人脈力)”

少しかみ砕いてみると、いろいろなことに常に好奇心や探究心を持っており、得た知識や技術を活かしてあるいは組み合わせて新しいことにチャレンジし、その新しいことを世の中に広めることができところまでやり遂げることができるというのはその一つと思います。また、その過程で様々な人との特徴的な交流(良い関係も悪い関係も)を行っているのも素養といえると思います。さらに様々な人を巻き込んで、仲間として何かを成し遂げるというのもその一つと思います。

・一貫斎が成し遂げたこと

一貫斎はその一生で一度だけ江戸に出てきているのですが、江戸に出てくるきっかけは一貫斎が34歳(文化8(1811)年)の時の彦根事件でした。この事件の引き金の一つは一貫斎の鉄砲鍛冶としての腕の良さにあると考えられており、本来は年寄の家に発注されるはずの鉄砲が年寄脇の一貫斎に発注されたことがその発端といわれています。当時、国友村は年寄4家が実質的に取り仕切っており、彦根藩からの鉄砲の発注はこの4家に行われていました。しかし、彼らは実際には鉄砲を制作せず、国友村の鉄砲鍛冶を差配し制作させた鉄砲を藩に渡し、その代金から上前をはねていただけでした。ところが技術に優れていた一貫斎は年寄を差し置いて藩の御用掛となり、藩の鉄砲を受注し制作いたしました。それに対して、年寄から異議が申し立てられて抗争に発展したのが彦根事件です。この事件は国友村を揺るがす大事件でした。事件発生後、5年を経た文化13年(1816年)に当事者として江戸に呼び出されました。これが一貫斎が江戸に出てくるきっかけです。その後の幕府の取り調べの結果、彦根事件では不正を行ったとされる、つまり差配するだけで実際に鉄砲を制作していなかった年寄の家が没落することになりました。そして、年寄脇であった一貫斎は国友村の鉄砲鍛冶の代表の一人となり、鉄砲の注文を受ける仕事で全国の大名家に出入りするようになります。この江戸滞在は結局、文政4年(1821年)まで続き、この期間中に大名以外にも様々な人物と交流しています。この滞在が一貫斎の好奇心と探究心を刺激しました。この江戸滞在の最中および江戸滞在の後に一貫斎は様々な発明品を生み出します。

最初に手掛けるきっかけとなったのは空気銃の一種である「風砲」と考えられています。この風砲を手がけることになったのは、江戸の医師(元々京都在住)であった山田大円との交流がきっかけでした。この山田大円(京都在住時)との交流は一貫斎が国友村に居たときから主に手紙で行っていたと考えられています。その大円と手紙で交流している際に一貫斎は西洋から伝わった風砲(ふうほう、今の空気銃のような物)の図面を大円から送ってもらい自分なりに工夫をして試作をしていたようです。その大円には一貫斎が江戸に出てきてからいろいろな人との交流を手引きしてもらっており、その過程で風砲の実物を若年寄であった京極高備(きょうごく たかまさ)より借り受け修理する機会に恵まれます。そして、一貫斎は借り受けた風砲の修理に成功します。さらに、ここがすごいところですが、その風砲の性能に満足せず独自に検討を行いさらに性能を高めた「気砲」を完成させました。

この気砲は先に述べましたが某鑑定番組にも出品されたことがあるので、ご覧になられた方もいらっしゃるかもしれませんね。当方もたまたま見ておりましたが、その精緻さ、素晴らしさに目を奪われました。この気砲はその性能の素晴らしさもあって注文が殺到します。そうした状況で一貫斎は、さらに実用性を高めるために連射機能もつけることに成功しています。一貫斎は継続的に探求し改良し、より新たな気砲を作り上げてしまいました。このことによって一貫斎の名声は一気に高まります。また、一貫斎は気砲の作製法である「気砲記」を著わして作製法を公開してしまいます。実は、同じ時期に一貫斎は鉄砲鍛冶として鉄砲の生産工程を具体的かつ詳細にまとめた「大小御鉄炮張立製作」をまとめています。当時は相伝と考えられていたその技術をオープンにして、ある意味で誰でも鉄砲が生産できるようにしてしまったのです。残念ながら、この書物は広がることはなく、大名家に所蔵されただけでしたが、そういう発想を当時はほとんど誰もしていませんでした。結果的に一貫斎は気砲の制作をしばらくの間、禁じられています。

さて、大円が紹介した人物で最も一貫斎に影響を与えたと思われるのは平田篤胤(ひらた たねあつ)です。国学者である平田は当時の最先端の科学技術に精通しているだけでなく多くの人物との交流もしていました。平田篤胤は一貫斎といろいろと議論をしていたと伝わっています。これは篤胤が一貫斎の技術者としてすでに優れていたところを見抜いていたのだと思います。一貫斎は国友村にいたときから貪欲に知識を吸収し、また平田篤胤と交流することでさらに知識を深め、議論することでそれを自分の物として利用していったと思います。平田篤胤もそのような一貫斎を気に入ったようで文章を送ったりしています。ここまでざっと述べてきましたが、好奇心や技術力 それに加えて人に気に入られて交流しているところは一貫斎の一つの特徴だと思います。

さて、一貫斎はこの後も創意工夫を重ねて数々の発明品を製作しています。
灯火具の「玉燈」、毛筆ペンのはしりである「懐中筆」、魔鏡といわれる「神鏡」、鋼鉄製弓の「弩弓」、それに反射望遠鏡「テレスコップ」などです。その中でも反射望遠鏡「テレスコップ」は非常に精緻にできています。
一貫斎が望遠鏡を初めて見たのは、文政3年または4年(1820年または1821年)、尾張犬山藩主の成瀬家の江戸屋敷で見たと言われています。そして、反射望遠鏡「テレスコップ」の製作に着手したのは天保3年(1832年)、一貫斎55歳の時ですから、かなりの年月がたっています。これは文政4年(1821年)に江戸滞在を終えて、国友村に戻った一貫斎は村の代表としての仕事が重要で、彦根事件の後の村の取りまとめをする必要があり村の鉄砲鍛冶を再び軌道に乗せる必要があったためと考えられます。

一貫斎の制作した反射望遠鏡はグレゴリー式で、鏡筒は真鍮を丸めて作られていますが反射鏡は銅67%、錫が33%程度含有している合金ですが、セラミックのような材質で硬度はガラスをしのぎ、極めて曇りにくい性質を持っています。現在の最先端の合金技術といっても差し支えない材料を一貫斎は自分の知識を最大限活かし、併せて類い希な探究心で作り上げたのだと思います。一貫斎はこの合金を丁寧に研磨し極めて精度の高い鏡面を作り上げます。その精度は現在でも十分通用するレベルで、実際に現存する望遠鏡で今も観察ができるといわれています。

反射望遠鏡(長浜城歴史博物館蔵)

さらに一貫斎はこの自作の望遠鏡で月面や太陽の黒点を観察してその詳細な記録を残しています。この天体観測や反射望遠鏡「テレスコップ」は江戸幕府の天文方にも大きな影響を与えていますが、近年の調査でその観測精度の高さも評価されています。

・一貫斎はイノベーターなのか?

ここまで、一貫斎のやってきたことの一部をまとめてきましたが、どのようにお感じでしょうか。鉄砲鍛冶としての一流の腕、高い好奇心、様々人物との交流、貪欲に新しい知識を得て自らの技術と組み合わせて新たなものづくりにチャレンジすること、従来の枠にとらわれず作製法を著わして公開してしまうこと、さらには故郷の国友村をまとめ上げることなど、明らかに職人の域を超えた活躍をしています。付け加えれば天体観測に多大な影響を与えたことも職人の域を超えているといえると思います。

これらのことからもわかるように一貫斎は「高度な知識」「類い希な好奇心・探究心」「垣根を越えて様々な人々との交流を楽しむ心」「作り上げる・やり遂げる意思」「従来とは違うことにチャレンジする意思」、それに村をまとめ上げる「リーダーシップ」を備えた人物であったと思います。このことは先に述べたイノベーターの素養の一つと合致するところがあると思います。従って、一貫斎はイノベーターと言っても差し支えない人物と思います。しかしながら、一貫斎の業績はそれほど知られることはなかったようです。それは江戸時代の特異性が一貫斎でも超えられない壁を作っていたからかもしれません。とはいえ、江戸時代にすでにイノベーターの素養を持った人物が存在し、たとえ職人であっても、また限定された範囲であっても活躍できる素地があったと考えられます。そうした時代にチャレンジし続けた一貫斎について少しでも知っていただければ、特に職人イノベーターとしての側面を知っていただければ幸いです。

・最後に

さて、本稿を終えるにあたり逸話を一つ。
一貫斎が亡くなってから150年の年月が流れた1991年、滋賀県犬上郡多賀町のダイニックアストロパーク天究館の杉江氏が、火星と木星の間に小惑星を発見します。郷土のこの偉人を称え、この小惑星は1998年、「国友一貫斎(6100 Kunitomoikkansai)と命名されました。まさか、一貫斎も自分の名前が小惑星に付けられるとは思ってなかったでしょうね。


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