さよならモラトリアム 第10話
あたしはもう丸一日以上、眠ってしまっていたことを悟った。慌ててあたしが謝りに行くと、椿家の人々は、誰もそれを咎める様子が無かった。どうやらそれほどに、あたしは追い詰められている。スミレはそう思ったようだ。
スミレはあたしに、二日分の宿泊料の代わりとして、今日の事務仕事を頼んだ。一カ月ぶりの事務仕事ではあったが、体が覚えている部分も多くあったため、この仕事を始めたばかりの頃よりも出来ているように思えた。
肉体労働に比べれば体への負担も少なく、カウンセリングルームの仕事が終わった後には、スミレや香奈子さんや薫さんと一緒に夕飯を作ったり、家を掃除したりもした。
三日目の晩、あたしはこれまで寝泊まりしていたインターネットカフェに戻った。シュトゥルムフートを呼び出し、本当に黒沼天雄なのかを確かめようという、一つの賭けに出ようとしていたのである。
シュトゥルムフートがただの紳士的な年上の男性である、と判明すれば、一番いいだろう。そうなれば、あたしはシュトゥルムフートのことなど、何もかも忘れるつもりでいた。
スミレはもう、あたしが自分の妹だということを知ってしまっているが、あたしがスミレを好きだということは知らない。出来るなら、あのカウンセリングルームに戻って、事務仕事を続けて、スミレと共に生きていきたい。あたしはそんなことを考えていた。
しかし、怖いのはシュトゥルムフートが本当に黒沼天雄だった場合である。あの男があたしの正体に気付けば、落ちぶれた実の娘の姿を見れば、捨てられてしかるべきだとあたしのことを嘲笑うだろう。
そこまでの辱めを受けて、生きている意味などあるだろうか。そんなことを考えては、怖くなってしまう。
シュトゥルムフートとは四月一日の午後三時に待ち合わせることにした。それまでの一か月足らずで、あたしは少しずつ自分の身の回りを整理していくことを決めた。
その日暮らしのためのアルバイトは辞めて、残りの日は少ない貯金を切り崩して生活した。
現実逃避と承認欲求を満たすためだけに書いていた小説のデータも、すっかり削除してしまった。スミレやシュトゥルムフートと出会ったSNSのアカウントも、三月三十一日の朝に消した。
こうして、あたしはシュトゥルムフートと初めて会う前の夜を迎えた。これが今生の別れになるかも知れないので、どうしてもスミレに会いたくなった。
あたしは全ての荷物をまとめると、二ヶ月という長い時を過ごしたインターネットカフェを出て、ロイヤル・パレス・ナニワへと向かった。