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さよならモラトリアム 第12話
四月一日。あたしはこの日の午前十一時半に、シュトゥルムフートと朱橋駅で待ち合わせをしていた。
年上の、しかも初対面の男の家を訪ねることは、男性経験の無いあたしにとっては恐怖でしかなかったが、どうしても彼の家に行かなければならない理由があった。
もし黒沼天雄に手を下すとすれば、自宅が一番良い。あたしがこれからしようとしていることは、他人に見られながらすることではない。
あたしの取り越し苦労に終われば良いが、「最悪の事態」も予想しておくべきだ。そう思って、待ち合わせをしてからは、彼の自宅に行くことを決めていたのである。
「朱橋、朱橋でございます。お出口は左側です。お降りの際は足元にご注意下さい」
アナウンスを聞いて、あたしは電車を降りる。二十年ぶりに訪れた朱橋に関する記憶が何もないことを、あたしは改めて思い知った。
無理もない。この街を離れたとき、あたしはまだ三歳だったのだ。二十五年前、二歳で黒沼と別れたスミレは、あたし以上にこの街を知らない。雑多な建物が並ぶ通りを、あたしはぶらぶらと歩いた。
待ち合わせは朱橋駅を出たところにある橋を渡った先、と聞いていた。恐らく目の前に見える橋が、「朱橋」という地名の由来なのだろう。その向こう側に、黒いボディの高級そうな車が止まっているのも見える。
あたしは目の前の赤い橋を渡った。もう二度と、こちら側へは戻れないような気がした。
「愛純紫蘭さんですか? シュトゥルムフートです。今日は宜しくね」
車から降りてきたシュトゥルムフートを見て、あたしは驚いた。驚いたのは彼がスーツの下に着ているロゴがはっきりとわかるブランド物のTシャツにでも、高級車の持ち主が彼自身だったことにでもない。
見上げるような長身と、甘い顔立ちが、幼き日のスミレを抱く男によく似ていたからである。全身に走る嫌な寒気を悟られないように、あたしは車の中でシュトゥルムフートと会話を続けていた。
ランチをする金もないことは伝えていたので、シュトゥルムフートは自宅への帰り道の途中にあるスーパーマーケットにあたしを連れて行った。早期退職してから時間もあり、妻と別れて長いということで、彼にも少しは料理のたしなみがあるらしい。
作るメニューは肉じゃがにした。あたしは最初、カレーを提案したが、この年になると体が油ものを受け付けない、とシュトゥルムフートが言ったので、同じ材料で味付けだけを変えることにしたのである。
スーパーマーケットを出ると、車は住宅街に入っていった。何処かで見たような景色が目に入る。
枯草が入った植木鉢やプランターが大量に置かれた家の車庫に器用に車を入れると、シュトゥルムフートはあたしを車から降ろした。車内からは見えなかった玄関には、「黒沼」という表札が付いていた。