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【哲学小説】ギリシャ自然哲学時代① イオニア学派 | 無限の海岸線で、あるいは世界の始原について
「ねえ、君はこの世界のことを、一体どう考えている?」
彼女は唐突にそう言った。僕たちは鎌倉の海岸線を、特に急ぐでもなく歩いているところだった。波の音が、寄せては返すリズムを刻み、潮風が僕らの服を軽く揺らす。春の午後の、どこまでも青く広がる空。
「世界のことを、って?」
僕は少し戸惑いながら聞き返した。彼女はどういう風の吹き回しでそんな質問をしてきたんだろう。砂浜には、貝殻や流木と一緒に、古代ギリシャの哲学者の亡霊でも流れ着いたのだろうか。
「そう、世界。この世界の始まり、根源、あるいはアルケーとでも言うべきもののこと」
彼女はいたって真面目な顔で、アルケー、なんて言葉まで使い始めた。アルケー。確か、古代ギリシャ語で「始まり」とか「根源」とか、そんな意味だったはずだ。高校の倫理の授業で習った記憶の断片が、波に洗われた貝殻のように、僕の意識の浜辺に打ち上げられる。
「アルケーね。哲学的な話か。なんで急にそんな話に?」
「だって、見てよ、この広大で、無限に続くような海を。こんな壮大な景色を見てたら、誰でも世界の始まりについて考えずにはいられないでしょう?」
彼女の言うこともわからなくはない。この果てしなく続く水平線、波の音、潮の香り、どこまでも青い空。これらは全て、一体どこから来たのだろう。
「古代ギリシャのイオニア地方の人たちも、きっと同じように海を見ながら、世界の始まりについて考えていたのよ。彼らこそが、西洋哲学の祖と言われる、イオニア学派の人たち」
彼女はまるで古代ギリシャの風を運んできたかのように、イオニア学派について語り始めた。
水の哲学者、タレス
「イオニア学派の祖と言われるのが、タレスという人物。彼は万物のもととなるアルケーは「水」だと考えたの」
水か。確かに、この世界は海に囲まれているし、僕たちの体だって大部分は水でできている。水は生命に不可欠なものであり、あらゆるものに形を与える。言われてみれば、案外、的を射ているのかもしれない。
「でも、なんで水なんだろう? 他にも、火とか土とか、色々あるのに」
僕はあえて反論してみた。
「いい質問ね。タレスは、生物にとって水が不可欠であること、そして、水は固体、液体、気体と姿を変えることができることから、万物の根源は水だと考えたみたい。それに、大地も水の浮力によって支えられていると彼は信じていたらしいわ」
なるほど。言われてみれば、水は他の物質にはない、不思議な力を持っているように思えてくる。まるで、水自体に意志や生命が宿っているかのようだ。
「タレスの考え方は、それまでの神話的な世界観から脱却し、自然を観察し、論理的に世界を理解しようとした点で革新的だったの。彼の思想は、後の西洋哲学に多大な影響を与えたのよ」
彼女は満足そうに頷いた。
無限なるもの、アペイロン
「次に登場するのが、アナクシマンドロス。彼はタレスの弟子だったと言われているわ」
弟子? つまり、あの有名な哲学者たちが師弟関係でつながっていた、ということか。古代ギリシャの世界に、少しだけ親近感が湧いてくる。
「アナクシマンドロスは、アルケーを「アペイロン」という、不定形で無限なものだと考えたの。彼は、水のように特定の性質を持つものは、他のものの対立物になり得るため、真のアルケーにはなり得ないと考えたのよ」
アペイロン。聞き慣れない言葉だ。不定形で無限なもの…。それは一体、どんなものだろう?
「例えば、水は火と対立する。土は水と対立する。でも、アペイロンは、あらゆるものの根源でありながら、それ自体は何の性質も持たない。だから、対立を生み出すこともない。彼は、世界はアペイロンから生まれ、アペイロンに還っていくと考えていたの」
なるほど。アペイロンは、例えるなら、真っ白なキャンバスのようなものかもしれない。そこに、様々な色が塗られ、絵が描かれていく。そして、絵が完成した後も、キャンバスは残り続ける。
「アナクシマンドロスの思想は、世界の有限性と無限性、生成と消滅といった、哲学的なテーマを私たちに突きつけるのよ」
彼女の言葉は、波の音に掻き消されるように、僕の中で曖昧に響いていた。
空気であり、息吹であるもの、空気
「最後は、アナクシメネス。彼もまた、タレス、アナクシマンドロスと同じく、イオニア地方の出身で、アナクシマンドロスの弟子だったと言われているわ」
三世代に渡る師弟関係。一体どんな教えが、彼らの間で受け継がれていったのだろう。
「アナクシメネスは、アルケーを「空気」だと考えたの。彼は、空気は生命に不可欠であり、宇宙全体に広がっていることから、万物の根源だと考えたのよ。そして、空気は凝縮と膨張によって、様々な形に変化すると考えたの」
空気か。言われてみれば、僕たちは常に空気を吸って生きている。空気は目には見えないけれど、確かに存在していて、僕たちの周りを取り巻いている。
「彼は、空気の凝縮によって雲ができ、雨が降り、土ができると考えた。そして、空気の膨張によって火ができると考えたの。つまり、空気は、その濃淡によって、あらゆるものに変化する、万物の根源だと考えたのよ」
空気の濃淡…。言われてみれば、遠くの山が霞んで見えるのも、空気の濃淡によるものだ。空気は、目には見えないけれど、確かにそこに存在していて、世界に変化をもたらしている。
「アナクシメネスの考え方は、変化の原理を物質そのものの性質に求めた点で、画期的だったと言えるわ」
彼女はそう言って、少しだけ遠くを見つめた。水平線は、相変わらず、どこまでも続いていた。
「ねえ、結局、世界の始まりは何だったんだろうね?」
僕は思わず、彼女に問いかけていた。
「さあ、どうかしら。それは、誰にもわからないわ。でも、大切なのは、答えを探すことよりも、問い続けることなのかもしれないわね」
彼女の言葉は、水平線の向こう側、まだ見ぬ世界へと続いていくようだった。僕たちはしばらくの間、言葉もなく、ただただ広大な海を眺めていた。波の音だけが、永遠に続くかのように、僕たちの耳に響いていた。