音楽にできること
私はたまたま2人の経営者の偉い方に同じ質問をされたことがあります。
でも、かなり多くの方が同じ質問を音楽家に向けてされたことがあるのではないでしょうか?
「音楽をやっていて儲かりますか?」「オペラって儲かるんですか?」
「うーん、儲かっている方はごくわずかのスターですね。」と私は答えました。だって音楽そのものでは儲からないからです。いくら高額なチケットを売ってもオペラの舞台の費用なんて払えません。オペラは金食い虫です。でも、だからといってそれで話が終わるなら、スター以外の下々がオペラをする理由は無くなります。音楽も儲からない人は趣味にすれば、ということになります。
すぐにはお返事できなくて、ずっと考えていました。
経営者の方々は、お金を儲けて従業員を養い会社や銀行などを発展させて行くことが使命と感じていらっしゃるからそういう質問を投げかけたのだと思います。
それでは、音楽家はお金を儲けて家族を養いいずれは家でも立ててあげるために音楽をするのでしょうか?これについてはその方が音楽家かどうかを問う質問になってしまうのかもしれませんが、音楽家の方が答えるなら、NOです。
なぜなら、普通はお金は仕事の対価としてもらいますよね、音楽家は、他の芸術家も同じですが、人生をかけて毎日練習して鍛錬してだんだん自分の価値を高めて行く仕事です。もしこの日々の鍛錬でお金が発生するとしたら、とんでもない額をいただかないといけません。それは子育てや教育とも共通することで、あまりに貴重すぎて対価を払うことができないお仕事と言えると思います。
それでは音楽家の受け取る対価とはなんでしょう?もちろん生活のためにお金は必要ですから教えたり演奏したりというお仕事はあります。でも、それはちょっとした奉仕のようなものです。音楽家の受け取る本当の対価とは、この世に起きる奇跡の数々です。
例えば、演奏した時に、一晩のコンサートで100万円を稼ぐよりも、1人の聴衆の心に響いて少しだけその人の人生を豊かにすることの方が、音楽家としては仕事をしたことになります。心を動かす演奏は奇跡を呼びます。人は涙を流したり拍手喝采をしたりして何かを感じたことを表してくれます。奇跡、は100万円のように使ったら終わり、ではありません。その人はその先の何十年もあの時のあの演奏は良かったな〜いい思い出だな〜と懐かしむことができるんです。心が動く、というのはそういうことです。
芸術の仕事はどれも多かれ少なかれ心を相手にしています。精緻な造形や絵画も、いい加減な仕事では成し得ません。気の遠くなるような鍛練の積み重ねの果てに、これ以上ない何かが産み出されるのです。
そこで反論する方もいらっしゃると思います。素晴らしい国宝級の芸術家なら誰でも心動いて価値があることがわかるでしょう、でもそうでもない自称芸術家もたくさんいるので、有名でない人なんかはさっさと見切りをつけて真面目な仕事についた方がいいんじゃない?と思われるかもしれません。
でも、ものすごいプロフェッショナルでなくても、奇跡はおきます。
例えば国境や人種の壁や年齢の壁、身分の壁を超えてリスペクトを得たり友達になれたりすること、これはスポーツなどでも同じことが言えると思います。
言葉は通じなくても、たまたま入ったレストランで1曲弾いたら西洋人の見知らぬ方々が握手を求めてきたり、アンコールの大合唱をしてくれたり、宿屋のピアノを弾いたらそこにいる人たちが人種を超えて仲良くなり、それぞれに手品をしたり得意技を披露しあって楽しい夕べを過ごせたとか…私はインドネシアで、ホテルでの大使館主催のパーティでインドネシアの国歌をピアノで弾いたところ、ホテルのボーイさんたちが「君やるねー!いいよ!」と声をかけてきてくれたことがあり、とても嬉しかったことがあります。いずれも初対面なのに、音楽はあらゆる肩書をいとも簡単に飛び越えることができるのです。お金はどうですか?お金は人々を分けるばかりです。お金持ちがなんでも好きなように貧乏な人をこき使って、でも貧乏な人から憎まれて、結局どっちも幸せになれないような構造を作り出しているのではないでしょうか?
もちろん、音楽をビジネスとして捉えている流れがあって、それを多くの人がよしととしてる現状はあります。コンサートに行くのに判断基準は演奏家がコンクールで1位をとっていること、実績のある人なら間違い無いと思うのは当然です。でもコンクールのための練習に明け暮れて音楽のことがわからなくなってしまう演奏家もたくさんいるのです。
人間の価値なんて死ぬ時までわかりません。それを若い時に順番づけることに何か意味があるのでしょうか?これもお金の論理と同じ、人々を分けていく例の方法です。
一旦分けはじめると、勝ち組は妙な安心感に包まれます。特権を感じていい気分です。でも、そのいい気分は誰とも共有できません。人は孤独になって行きます。隣の人との違いが気になって誰が普通で誰が普通じゃないなんて馬鹿みたいな話を平気でし始めます。
この世に同じ人なんて1人もいません。みんな個性があるのに、共有できないいい気分を無理やり共有すること、つまり差別が始まって行くのです。
じゃあどうすればいいのか、みんなが音楽家になって、仲良くなるとでも?
いえいえ、例えばすでに特権や利権でいい思いをしている人たちが明日も明後日も同じ甘い汁をすすって生きるんだ!と思うのをやめさせることはできません。
分けることが不幸の始まりだと気づくことができるのは、この世に違和感を感じる人たちです。自分の感受性を信じていける人たちです。
そして、そういう人たちは1人ではありません。ふと声を上げると仲間がたくさんいます。あたたかい助けあいの輪が生まれているのはいつも貧しい人や虐げられている人たちの側だとおもいませんか?
かくいう私もまだまだ未熟で、ついつい余計なことを言ったりしたり、あるいは消極的になって何もしなかったり、の連続です。もっと自分の違和感に耳を貸してあげないといけないな〜と思います。
でも、そんな時、昔起こした奇跡が支えになってくれることはすごくあります。テストで100点とったことよりも、外国で知らない人に受け入れてもらえたという経験の方が自信になっています。
人は何に支えられ何を信じて生きることができるのか、音楽という奇跡は一つの答えだと感じています。