九州国立博物館・皇室の名宝展 感想
九州国立博物館には今まで何度も行ったが、西鉄で太宰府駅まで行ってそこから歩く行程は初めてだった。9時半の開館後すぐ博物館に到着できる電車で出たが、太宰府駅から天満宮へ行く道を2度間違った。朝は参道に人が少ないから、どこへ行ったら天満宮だか分からない。簡単に参拝して、10時頃に博物館のアクセストンネルに着いた。動く歩道は思ったより歩きづらい。歩くものではないのかもしれない。トンネルを抜けた。博物館が目の前にある。改めて見ると笑えるくらいでかい。特別展のチケットを買って入る。
案外人が多い。前期の終わりが近いからか。お年寄りが特に多いが、ちらほら若者もいる。ほとんどの人は展示物をさらりと見て去ってしまう。《琉球塗料紙箱・硯箱》など特にそうだが、これとて可愛らしい優品である。描かれた人々の単純な顔の造形や、ちょっとした身振りなど、いかにも善良で穏やかな心持ちを表している。美しいのとは違うが、見ていて心が休まる。
杉谷雪樵《双鶴図》はお手本のように端正に佇む鶴が印象的だ。雪舟の末裔を自任していた画家らしく、確かに背景の岩などは雪舟のそれに似ている。しかし木の描き方はその限りでも無い気がする。この辺りはよく分からない。
二世五姓田芳柳《菅公梅を詠ずるの図》は国粋主義に対抗して油絵の作品になっている。肉付けなどは確かに洋画らしい。しかし題材は依然古き日本のものであって、絵画の処世も楽なものではないようだ。
全く予期していなかったが、ここで山本芳翠が2点も出てきて驚いた。九州・沖縄連作画《琉球中城之東門》は淡い色合いが心地良い。解説を見ると同じ構図の写真もあったようで、それをもとに記録画として描いたのではないかとのことだ。写真をもとに描くことについては、オディロン・ルドンが厳しく非難していた。なぜルドンかというと、ルドンは国立美術学校でジェロームという教師のもとにいたことがあって、自伝の中でそのジェロームにひどく反発している。ルドンはジェロームの求めるような、人間を輪郭の中に閉じ込める描き方、写真的な描き方を嫌った。そして、山本芳翠もジェロームについていた時期があり、芳翠は写真を利用した。とはいえ芳翠は写真の通りに描いただけではなく、当時熊本鎮台の駐屯所だった首里城に、絵画の中では女子供も出入りさせている。実際にはあり得なかった光景であろうが、いかにも本当らしく描いている。その点はルドンの主義に似ている。ルドンと芳翠が同時期にジェロームに師事していたとは思われないが、この相違は面白い。
十二代沈壽官《色絵金彩菊貼付花瓶・色絵金彩菊貼付香炉》陶器の表面に籠目を彫刻し、さらにその上から色彩豊かな菊花や蝶をふんだんに貼りつけ、脚には茎を束ねる紐をあしらっている。自然の花でなく切り花の束をモチーフにしているという点で、どことなく西洋美術に似たものを感じた。作者は実際に海外からの注文も受けていたらしく、西洋人好みの装飾を得意としていたのかもしれない。
御木本幸吉《瑞鳳扇》も豊かな装飾が目を引く。特に真珠の数は大小合わせて数えきれない。やりすぎの感もあるが、作者は半円真珠の養殖に成功した真珠産業の王であり、その地位を自負しつつ天皇の即位を祝うという点から、このように煌びやかであるべきだったのだろう。
川端玉章《群猿之図》猿が岩場で好き勝手しているというテーマだけで面白い。しかし猿に気を取られて視線が散逸しないように、岩場から伸びた藤の枝が、そのうねりによって猿の気ままな動きをまとめ、画面を引き絞っている。こういう生け花があるといい。
柴田是真《温室盆栽蒔絵額》蒔絵は椀を飾るための細かな技術とばかり思っていた。しかしひとたび主席に座れば、これほど豊かな情感を現わす。
横山大観《龍蛟踊四溟》これを観るために前期に来たのだ。風雲馳九域。洞窟の前を流れる川はけぶってよく見えないが、水しぶきがその存在を教えてくれる。底知れぬ闇と渦巻く光とが、龍を猛々しい神として示しているようだ。龍は雷をまとって顔を出す。3本足で、爪が4つ見えているから、天皇と言えど皇帝ではないのだろうか。単に様式に沿ったのだろうか。削れて大木のようになった岩肌と、やけに儚い龍の肌との対比も気になる。いくらでも見ていられる。
並河靖之《七宝四季花鳥図花瓶》花や枝の細かさ、壮麗さもさることながら、ところどころに鳥がはばたき、しかも鳥が飛ぶのによい余白が用意してある。ここに目を休めることもでき、より美しさが際立つ。地が黒いので鳥の白い腹が目立って、これもまた快い。
香川勝廣《鳳凰高彫花盛器》2つの器それぞれに鳳凰が彫られている。阿吽のように、片方は嘴を閉じ、もう片方は開いている。並べ方によっては互いに見つめ合いながら追いつ追われつして遊んでいるかのように見える。羽の盛り具合は巧みなものだが、それに加えて脚の鱗のような模様も彫られているのが精緻で素晴らしい。
山崎朝雲《みなかみ》旅の女性を表した木彫りの置物だが、ただの木彫りではない。これと同じくらい味のある木肌を持つ置物があるなら見てみたい。その着物のふくらみ、指先、口もとには神々しささえ感じる。彼女自身が水の神であり得る立ち姿だ。また、袂の彫りは甘いように見られるが、これによって木目が水紋のように美しく映えて、《みなかみ》という題の含みを思わせる。
高村光雲《松樹鷹置物》も木彫りで、クスの木に彫刻をして松の木の木目を表現しているところが面白い。
葛飾北斎《西瓜図》北斎の画の特異なところは、絵具の使い方の巧みさというよりも、モチーフをとらえ配置するその視点にある。以前見た《巖頭鵜図》は身震いして水を飛ばす鵜の様子を、下からとらえることによって、鵜の躍動感を表現していた。今回の《西瓜図》では半分に切った西瓜の赤い果肉の上に布巾をかぶせることで、布巾に西瓜の水が染み込み、赤い果肉がうっすらと見えている。西瓜のいかにも瑞々しいさまが伝わってくる。こうなるとモチーフが何であれ見せ方が良ければ良くなるのだから、構図の独創性は画業にとって重大事だと思われる。
伊藤若冲《動植綵絵 秋塘群雀図》解説によると、白い雀が一羽混じっているのは、「百」を「一」「白」に分けた洒落らしい。それ以外に一羽だけ、眼が入っていない雀がいるように見えた。細密な絵を描く若冲が一羽だけ忘れたとも思えない。《動植綵絵 老松鸚鵡図》ちょうど近くにいた人たちが話していたが、実際に見たことがなかったのか、見慣れていなかったのか、インコの描き方がどうもぎこちない。《動植綵絵 芙蓉双鶏図》鶏は普通こんな姿勢にはならない気がするが、そういう動きをさせることで尾羽がピンと跳ね上がって、躍動感が出ている。鶴もしかり。
ようやく見終わった。