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女性の生きづらさはどこから来るの? 社会構造の男女格差について
女は努力しても無駄?
だーじりんは以前、「女性の生きづらさ はどこから考えたらいいのか?」という記事で、根っこには社会構造の男女格差という整理をした。
「努力して達成したことが社会的な地位の向上という形で承認される」という承認欲求が、女性では満たされないことが多い。だから、経済的、政治的なポジションの男女比の格差はその結果として現れていく、と考えたのだ。
極論すると、「努力して達成したことが社会的な地位の向上という形で承認される」と思わないから、女性は高等教育を避け、可愛いに走る。とすると、それって女の子に向けた社会からのメッセージが「努力しても無駄」ってなっていることになる。
個人的にはそれはちょっと…なメッセージだが、実際そうなっている。「女は努力しても無駄」にはそれなりの合理性があるから、今の現状であるのだと思う。そんな現状を作るのが社会構造なのだ。
そこで、本当に女の子の幸せを思っているからこそ出る、「女は努力しても無駄」について考えてみた。
努力しても無駄=結果は平等である!
真実かどうかは一旦脇に置く。
発言者が心から、努力と結果が比例しない。むしろ努力しても結果は変わらない。と信じていたとします。どんなに勉強ができても仕事に時間を割いていたとしても、一生の間に得られる財産は同額です。働いても働かなくても、結婚さえすれば一生安泰だと思っています。そして、女性はある一定の年齢の間に結婚したいと思えば結婚できます。
どうだろう。この世界観では、女の子に努力しろというのはあまり意味がないはずだ。
一億総中流という言葉がある。
大多数の日本人が、自分は中流階級に属すると考えていること。旧総理府などが実施した「国民生活に関する世論調査」で昭和40年代以降、自分の生活水準を「中の中」とする回答が最も多く、「上」または「下」とする回答が合計で1割未満だったことなどが根拠とされる。
今は令和ですが、少なくとも昭和の時代は、経済活動の結果としての自分の生活水準は平等である、と感じる日本人が多かったという話だ。
そして、皆婚社会と言う言葉があるが、
国勢調査が始まった1920(大正9)年からのデータを振り返ってみても一貫して生涯未婚率は1990年まで5%以下で推移
していたという。
社会システムが整備されすぎている。
感覚的に結果は平等、みんな結婚している。女の子は可愛いが正義! が正しかったわけだ。
結果の平等が男女格差を生む?
しかし、書いていても違和感がある。結果の平等と経済格差の縮小の関係は理解できるが、結果の平等と男女格差といったら、格差は縮まりそうな語感。なんで格差が開いているのか、直感的理解できない。
非常にモヤモヤするなぁ…と思っているとき、目に付いた話があった。
エマニュエル・トッド(フランスの歴史人口学者・家族人類学者)の提唱した家族類型の話だ。
家族類型は、親から子に遺産が渡るときにそれが兄弟(姉妹は含む場合、含まれない場合がある)の間で均等に分割されるか、1人の兄弟によって相続されるのか、が一つのファクターとされている。
思わず二度見したのが、兄弟間の遺産相続が平等(均等に分割)である社会の方が女性の地位が低い傾向にある、という話だ。
家族類型は遺産相続の話だが、これを社会全体の男性の経済状況に置き換えてみたらどうか。一億総中流の時代は、男女格差が開く傾向にあったとしても不思議ではない……のかもしれない! 閃いた! となったので、エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層 という本を読んでみた。
兄弟間の遺産相続が平等である家族を、エマニュエル・トッドはさらに2つの類型に分けている。
1)共同体家族
父親が一番偉い。息子は成人しても家を支える成員であるが、父親の死とともに遺産を兄弟で平等に分割し、それぞれ独立する。
だーじりんがイメージしやすかったのは遊牧民の大家族。強い父親の指揮の下、大帝国を作ったが、父親の死後まもなく崩壊してゆく。
大家族の中に嫁いでくる女性には、知識より順応性が求められるため、若いうちの結婚が多い。
2)平等主義核家族
成人した子供は独立するので、教育に熱心ではない。不動産を持てないという社会背景があって、遺産はすべて動産。このため、子供たちは遺産を均等に分ける。
フランスが例にあげられていた。家具が財産として重要なのはこういった歴史的背景から。
娘も息子と同じだけの財産権をもつ地域(フランス北部)では女性の地位は高いが、そうでない地域は、低くなる。
昭和はすでに核家族化は進んでいたと思うが、意識としてはまだ大家族に嫁ぐような意識でお見合いを勧める方もいただろう。
あるいは、血のつながりはないものの、24時間戦えますか。の企業戦士の時代なので、勤め先というコミュニティを社長を父親とする一種のコミュニティとみなして、家族付き合いをすることもあっただろう。全国転勤もある意味、順応力を求める案件だ。
こうして考えると、何となく男女格差が開く要因が見えてくる。
「どうせ嫁にやるのだから」ということで、可愛い推奨、教育はほどほどの方針をとった家庭もあるかもしれない。
娘も財産分与の対象になる世界観、つまり男女とも結果が平等なら、なおさら、娘に努力せよなんて言う必要はない。
そう考えると、「女は努力しても無駄」は、高度経済成長と核家族化の時代には、合理的な判断の結果だった。
環境が変われば判断も変わる
ところで、「一億総中流」はまだ有効なのだろうか。
格差社会という言葉はよく耳にしますし、日本の格差拡大は昭和末期に始まっていた、なんて記事も出ている。
2008年に出版された『婚活』時代をきっかけに、ブームとなった婚活。自分から相手を探しに行こうという話だ。
気付いている人は気づいているのではないか。自分が何も行動を起こさずに得られる結果の平等は、少なくとも今は結構難しいという現実に。
エマニュエル・トッドの家族類型には、兄弟間の遺産分配が不平等である場合もある。
3)絶対核家族
成人した子供は独立するので、教育に熱心ではない。自由を重んじ、家族の基本単位は夫婦。夫婦は対等であるため、世界の他の地域に比べて、女性の地位が高い
夫婦が基本単位なので、親子と言えど、成人したら別世帯。親子仲によって親が自分の財産をオークションにかけて他人に譲ることもあるそうで、親の遺産を子が受け継ぐとも限らない。
かの有名なハムレットも、王位は息子のハムレットではなく、その叔父に簒奪された。絶対核家族特有のダイナミックな遺産争いの話であるそうだ。
なんだか殺伐としている。この殺伐とした感じ、だーじりんは婚活界隈に少し感じたりする。結果の平等が信じられなくなった社会で、「とにかく自分たち夫婦だけは財産(社会的地位)を確保しよう!」という競争だ。いいとか悪いとかでなくて、生存競争だ。
だーじりんの中では、絶対核家族と婚活の出てきた経緯、核家族化が進む日本というのは、かなり重なって見えている。
ここで疑問がわく。
なんで、自力で社会的地位の椅子取り競争に参入する方向でなく、ワンクッション置いて、婚活という形になったのだろう。
その疑問もエマニュエル・トッドが解決してくれた。
核家族化が進む日本でも、何となく日本では権威的な父親のイメージがあるように、現実の家族構成と無意識の価値観には乖離が生じる場合がある。世代を追って現実の家族構成に価値観が馴染んでくるものの、リアルタイムに同じ、とはいかないようだ。
生きづらさ=経済的な不利益の場合
だーじりんの解釈は以下の通り。
もともと、一億総中流の平等社会&男は企業戦士だったところで、「可愛いが勝ち。女は努力しても無駄」の価値観が形成された。
ところが、今の社会は経済の構造や法律の整備の問題、技術革新もろもろによって、普通の人々が「結果の平等なんて信じられない」と思う世の中である。技術も進歩が速いから、親がやっていた通りにやっていたら、イノベーションに乗り遅れて負け組確定ということもありうる。
勝ち組になろう! と思ったら、とりあえず、社会的の椅子取り競争で勝つしかない。
だが、ここで旧来の価値観が立ちはだかる。仕事は競争的だけど、家庭は自分が生まれ育ったような形がいい。
だから、男女ともに「可愛いが勝ち。女は努力しても無駄」を大多数が許容する。カップリングは問題ない。
だが、旧来の価値観に従った女性は、旧来程の社会的地位を得られない。あるいは、経済的に不利な状況に置かれる。この経済的な不利益を「生きづらい」と表現する人がいる。
ここから無理に可愛いと経済価値を直結させると、水商売や抜け駆けになってしまう。
では、みんなの価値観が一致するときが来たら解決か。カップリングが女性も可愛さではなく経済条件で決まるとしたら、女性も「努力して達成したことが社会的な地位の向上という形で承認される」となるのだろうか?
つまり、みんなが「不平等な社会だから、お互いスペック重視! そして、カップルで力を合わせて頑張ろう!」と思って努力したら、それぞれの努力なりの社会的地位を得られて、お互いに納得するカップリングをして、それなりにみんなが納得する社会が来るのか。
納得してないから、トランプ大統領が誕生したり、ブレグジットが起こったんだ。というのが、家族類型で説明されている。
絶対核家族は、成人は親元を離れる。結果として、親は教育熱心でない。価値観が変わったらファイトは湧く。大人になってから必死に学んで、成り上がっていく人もいるはずだ。でも、全員にそれを求めるのはハードルが高い。
アメリカではプア・ホワイトの貧困の連鎖をうみ、それが無視できないほどの死亡率の上昇へとつながっていった。イギリスでも白人労働者階級が移民と競合するようになった。
ハムレットが叔父と対立したように、世代が違っても競争相手になる。ますます競争が厳しくなる。
つまり、夫婦という単位を絶対とみなす社会構造になっていくと、ものすごく根本的に、男女関係なく、生きづらさ=経済的な不利益の状況が悪化しかねない。
教育熱心な直系家族型
エマニュエル・トッドの家族類型には、もう一つ、兄弟不平等型の類型がある。
4)直系家族
子供のうちの一人(一般に長男)は親元に残り、あとを継ぐ。父親が一番偉いが、子供たちの中では跡取りが偉い。父親・跡取りの伴侶も偉い、となるため、女性の地位も比較的高い。教育熱心。
そして、家長や跡取りの伴侶は、様々な状況の家族(舅姑や幼い義弟・義妹)とやり取りができなければならないので、高いマネジメント能力が求められる。夫との釣り合いを考え、同じくらいの年齢を求める。
のだそうだ。
一つの国が一つの類型しかない、というわけではないのだが、エマニュエル・トッドは日本を、この直系家族型に分類している。
あれ? 今までの話と違う?
いや、平均的に見るとそんなことはない。日本は海外に比べて、親が子供にかける教育費の負担は大きいといわれている。
直系家族型の価値観の場合、女性もしっかり教育を受ける。努力して達成したことが社会的な地位の向上という形で承認”される”ということを、おそらく家族から教えられている。
そういった女性の中から、社会的地位の椅子取り競争に自ら参戦する人も現れる。そして、仕事でも競争を勝ち抜いていく…はずが、努力して達成したことが社会的な地位の向上という形で承認”されない”ということを知る。
それは主義か詭弁かモラハラか
新卒者の一括採用は日本独自のシステムといわれている。
いいところもたくさんあるはずだが、グサッと一言面白くて印象に残ったのが、
【堀江貴文】東大生と慶大生を一緒にするな
東大生って、頭いいようで、頭悪いんだよね。苦労して東大に入ったのに、どうして東大よりめちゃくちゃ簡単な大学の学生と同じ就職試験を受けなくちゃいけないの? バカなんじゃない?
新卒は即戦力と言うわけでもないので、一度ぐちゃっと混ぜて、色々経験させてみる。ということだろう。
ぐちゃっと混ざると、いろんな価値観が混ざる。
1)共同体家族
2)平等主義核家族
3)絶対核家族
4)直系家族
エマニュエル・トッドは日本を、この直系家族型に分類しているが、日本に住んでいて婚活・結婚・女性に対する物言いを見ていると、夫婦の理想像的なものは1)~4)のどの人もいると思う。
平均的には、日本の家庭は教育投資をしているというが、実際にはすごく教育投資をしている家庭と、別にそうでもない家庭の差が大きいということ。
ぐちゃっと混ざると、いろんな価値観が混ざる。
それに無自覚なことが、社会的地位の椅子取り競争に参戦することを決めた女性にとっての生きづらさにつながっていると思う。
「女は若くて可愛いければいい」と思っている男性と、「普通に仕事にし来た」女性が何も考えずに会話したら、絶対に違和感がでる。
セクハラの問題は色々といわれるようになって、今では職場のコミュニケーションに一定のルールが生まれつつあるから、表面的には波風は立たなくなった。
でも、自分の世界観の外で、人がどう考えているかなんて、多くの人には想像もしようがない。
主義が違うのだ。仕方がない。
それを悪用されることがある。
社会的地位の椅子取り競争に参戦することを決めた女性は、当たり前だが、社会的地位の椅子取り競争に参戦している男性たちのライバルでもある。
ライバルを一人でも多く蹴落としたいという気持ちから、働きにくさが生じたり、評価に不公平が生じる事態もないとは言えない。
少なくともこの世には、ガラスの天井、という言葉がある。
そんなことをしなくても、女性の戦意を喪わせる方法がある。
仕事ができる時間を減らせばいい。家事に育児に追われれば、仕事なんてやってられない。
日本人女性の家事負担は世界一重いとか。
2つの生きづらさは別々に解決するしかない
もちろん、個々の事情はあるはずだが、4)直系家族の中で高度の教育を受けて稼ぐ力がある女性は、仕事・企業とのミスマッチを解消すれば、何とかなるような気がしている。
直系家族型がメリットばかりとは限らないが、家族を味方に付けたり、社会の中でも同じ主義の考え方をベースに動く組織を探すとやりやすい気がする。
一方、他の3類型は、根本的に女性の教育に熱心ではない。特に、成人すると親元を離れる
2)平等主義核家族
3)絶対核家族
は、男女関係なく、教育に熱心でない。
社会全体が同じ主義ならそれでいいのだけど、異なる主義が混ざる社会では格差が蓄積していく。家庭に教育投資の役割が期待できない場合、だれがその役割を担って、どれぐらいの生活水準を中流とするのか。という社会デザインの問題になっている。これを女性の生きづらさというカテゴリに括ってしまうのは、女性を隠れ蓑にしていない? と思ったりもする。