アザラシ幼稚園をオワコン化させる「自分語り」の深刻すぎるヤバさ。
アザラシ幼稚園から人が減った。
その原因はチャット欄での「自分語り」にある。
バズ当時から観察を続けてきた私の考察を、本音オンリーで書き綴りたい。
記録的なバズ。からの加速度的なリスナー減少
アザラシ幼稚園がバズったのは8月初旬。
SNS投稿がきっかけで話題となり、ライブ同接数は毎日1000人単位で爆増。
ピーク時は2万人を超える同接があり、まさに記録的な盛り上がりだった。
しかしそのブームはあっという間に鎮火する。
2万あった同接はごりごり減って1万人を切った。
わずか数週間の出来事である。
同接2000、それどころか1000人を切るのもあっという間だった。
秋頃からは200人を切る時間帯まで出てきた。
たった2~3か月でピーク時の100分の1の同接数。
異常なまでの減り方だ。
「ブームが落ち着いた」とか、一般的なレベルの「飽き」では説明のつかない減り方である。
本物のファンが追い出されていく、無情な世界
アザラシの可愛さに癒されていた多くの人たちが配信を離れた。
施設の活動やスタッフのことを慮っていた熱心なファンが姿を消した。
ファンアート、スパチャ、チャット欄での分別あるコメント。
そうした形で施設をサポートしていた本物のファンたちも姿を消した。
チャット欄やX、表舞台から気配を消すようになった。
チャット欄のひどい有り様を憂う声が目立ち始め、心を病む者も現れた。
心を病んだ彼らの選択肢は、
チャット欄を閉じる
配信を見ない
アザラシ幼稚園から距離を置く
といったものだった。
アザラシのことが大好きで癒されていた彼らからすれば苦渋の決断であったことは想像に難くない。
けれど配信を離れたりチャット欄を見ないという手段でしか精神衛生を保てないほどチャット欄でのリスナーによる"自分語り"は度を越えていた。
常連リスナーによる横暴さは常軌を逸していた。
配信の人離れを招いた「自分語り」
人離れを招いた原因。
それが、「チャット欄を我が物顔で私物化する常連リスナーの自分語り」であることは明白だ。
健全なリスナーたちの多くが同じことを感じていたと思う。
アザラシとは無関係な雑談
家族・友人・プライベートに関する話題
リスナー同士の過度な交流
行き過ぎた挨拶文化
「いってきます」「いってらっしゃい」「こんにちは」の大合唱
チャット欄に居座る「アザラシ幼稚園・破壊組」の横暴な振る舞い。
それらは挙げればキリがない。
配信における「自分語り」が問題である理由
無関係な話題や行き過ぎた挨拶、リスナー同士の過度な交流をひっくるめて「自分語り」とする。
配信における自分語りがなぜ大問題なのか?
その答えは「他者を排除する行為だから」である。
アザラシと関係のない話題でチャット欄が盛り上がれば、アザラシの話題をしたかった者が排除される。
「アザラシかわいい」
「今の動きかわいい」
「こっち向いた」
シンプルな感想で盛り上がり、見えない共感で繋がりを感じられた8月のチャット欄。
それはもう完全に過去の遺物。
「アザラシかわいい」
そんな一言など、自分語りの巨大な波に飲まれ、消えていく。
なんなら邪魔者扱い。
疎まれさえする。
「ご飯の話題で盛り上がってたんだから水を差さないで」
「おみやげの栗まんじゅうで盛り上がってるんだから空気読んで」
そう、アザラシの話題をしたい者たちが邪魔者扱いされる「排除」の世界が作られたのだ。
自分語りという名のセメントによって着々と足場は固められ、8月の着工から5か月の工期を経て彼らの要塞は完璧なものへと仕上がった。
本当にアザラシを見ていたい、応援していたいファンたちを排除するための城と傭兵たちが完璧に揃った。
2024年秋冬の出来事である。
行き過ぎたあいさつ文化。その問題点
アザラシ幼稚園の門戸を狭める自分語り。
その中には「過度なあいさつ」も含まれる。
過度というのがポイントで、文字通り度を過ぎている。
行き過ぎたあいさつのやり取りがチャットを占有し、他者を排除する。
入りづらい。コメントしづらい。なんかキツい。を生み出している。
「挨拶の何がいけないの??」
「挨拶し合う位いいじゃん」
「挨拶し合うことはステキだよ?」
「日本人なら礼儀は大切」
「挨拶すら禁止しようとしてるのヤバすぎクレイジー!!」
ズレてる。
まったくもってズレている。
挨拶し合うことでナゾの結束を深めていく彼らの目にはサークルの内側だけが見えていて、円の外側の世界なんて見えちゃいない。
円に入れない、入りたくもない、大多数の「理由」を知ろうとしない。
「こんにちはー」
こんにちは!〇〇さんこんにちは!こんにちワッデン!
〇〇さんおひさです!こんにちはー!
「娘を迎えにいってきま~す!」
いってらっしゃい!お気をつけて~!がんばって!
ご苦労様です!元気にいってらっしゃーい!
「そろそろ私も買い出し行ってくるね」
いってらっしゃい!〇〇さんいってらっしゃい!気をつけて!
買い物ごくろうさま!さっき話してたほうれん草、買い忘れないようにね!寒いのでお気をつけて!いってらっしゃい!
異常である。
アザラシ保護施設のチャットという場において、これは異常である。
けれど馴れ合うことに夢中な彼らに、この異常さは見えていない。
これが他者を排除している理由が理解できない。
世界中の人たちに広く開放されているはずのアザラシ幼稚園。
24時間いつでも気軽に「アザラシかわいい」と書き込めたチャット欄。
書き込まずとも第三者の「かわいい」コメントに癒されたり、静かなる共感でつながり合えたはずのチャット欄。
それらは無惨にも破壊された。
破壊した彼らだって自分たちが同じ状況に陥れば「排除の空気」を敏感に察知するだろう。
たとえばこんな想像だ。
食品の買い出しにいつも使う一本の道路。
そこを通るたび、こんなやり取りが繰り返す集団がいたとする。
「こんにちはー!」「こんにちは!」「〇〇さんお久しぶり!」「あら〇〇さん髪色変えたー?」「この前話してたアレ、買ったよー!」
このハイテンションな集団の中に、あなたは存在しない。
あなただけは存在を認められず、蚊帳の外なのだ。
「おつかれっすゥ~!!」「おつかれスウィーツー!」「うぃっすウィッスー!」
「おつかれ!おつかれ!お疲れちゃ~ん!」「お疲れチャソ~!」
得体の知れない造語とノリで挨拶し合う中高生。
狭い道路で。おおきな声で。あなた一人を排除して。
そんな彼らを疎ましく感じても、あなたは必ずその道を通らなければならない。
買い出しのために。
アザラシを見るために。
よく見てみると中高生のように見えた彼らはいい歳をしたオトナだった。
そして彼らはこう吐き捨てる。
「違う道を通ればいいじゃん?」
「挨拶し合うことの何がいけないの?」
「ノリ悪いの?礼儀を知らないの?」
「私達はささやかなコミュニケーションを楽しんでいる」
「だから挨拶し合うことくらい許してよ」
ニヤニヤ冷笑しながら。
他者を排除することで結束する快感を味わいながら。
チャット欄でやんわりと注意を促した者が大勢から笑われ、はじかれる様を見た。
勇気をもって真剣に注意したマイノリティがマジョリティに笑われ、弾かれ、排除される様を何度も見た。
カワイイしかないはずのアザラシたちの前で。
そして今日もまた入りづらいチャット欄が形成される。
1人が挨拶すれば、5人がそれを返す。
「〇〇さんこんにちは」
「〇〇さんこんにちはー!」
イラストで見る「問題点」
① 自分語りのない参加しやすい世界
自分語りがなく参加しやすい
過度なコミュニケーションが存在しない
過剰なやりとりがない
行き過ぎた挨拶文化がない
コミュニティが存在しない
主役のアザラシを見ていられる
主役のアザラシについて語り合える
シンプルな感想だけで共感し合える
② 自分語りにまみれた世界
アザラシと関係ない話題
アザラシ幼稚園の入口にたむろして井戸端会議
アザラシが見えない
アザラシについて話しづらい
他者のちいさなつぶやき「かわいい」を見れない
リスナー同士の過度なつながり
思慮深い者、気遣える者こそが排除される世界
③ 新規が入りづらい
挨拶しなければチャットしづらい空気
初めて訪問する場所で味わう疎外感
排除をおそれて挨拶する新規メンバーの増加
挨拶文化のマルチまがい
巨大コミュニティの形成と拡大
仲良くなった者が幅を利かせる幹部昇格システム
気軽に新規が入りづらい、「会員制」チャット欄
日本の伝統的な「先輩後輩文化」
④ 気軽にスパチャしづらい
スパチャしたくても送りづらい空気
雑談の流れを止める「邪魔者扱い」を受けそう
スルーされたりスベった感じになりそう
悪目立ちや浮くことを恐れてスパチャを控える
彼らの前でスパチャしたくない・反応を貰いたくない
スパチャの激減がさらにスパチャしづらい空気を加速させる
⑤ 「他者排除」の3層構造
モラルや思慮のない行動を繰り返す一部
迷惑したアザラシファンが離脱する
新規が来るも、独特な空気と参入障壁の高さを感じ離脱。ファン化しない
⑥ 平和期・カオス期の比較
上:バズった当初。ほどよい緊張感。適度な距離感
下:カオス。巨大コミュニティ形成。過度な繋がりとコミュニケーション
1度壊れたガラスのコップは2度と元に戻らない
アザラシ幼稚園がバズった8月のあの頃。
アザラシたちの一挙手一投足を、みんながみんなキラキラしたまなざしで見つめていた。
初めて見るオランダの「カワイイ」に目を細め、頬をゆるめていた。
そんな彼らはもういない。
ある者は何も言わずにそっと離れた。
ある者はチャット欄で苦言を呈して去っていった。
「こんなチャット欄よくないよ」
「アザラシの話ができないよ」
「迷惑を超えて、施設に対する侮辱だよ」
苦言。あるいは説得。
そうしたものは自分語りのよろいで武装した常連たちに嘲笑され、一蹴され、相手にもされなかった。
勇気を出して苦言を呈したリスナーが、逆に小ばかにされてイジリのネタとなり、自分語りでつながろうとする常連たちの格好のネタになる。
そんな場面を何度も目にした。
最近ではそんな熱量あるヒーローたちすら出現することもなく、チャット欄は異様なまでの挨拶、馴れ合い、自分語りで埋め尽くされている。
オランダの保護施設を使った、日本人たちの"暇つぶし"
現況はまるで、アザラシ幼稚園という場所を利用した日本人の「暇つぶし」マッチングアプリみたいだ。
蔑んで「暇人」と言ってるわけではない。
本当にヒマで時間を持て余した人たちがチャット欄を根城とし、自分語りと馴れ合いで「つながれる仲間」を探しているのだと思う。
自分語りや馴れ合いができるヒマ人友達を募集しているのだ。
オランダのアザラシ保護施設『Zeehondencentrum Pieterburen』を踏み台にして。
日本人のヒマ人同士による出会いの場、まさにマッチングアプリに成り下がっている。
保護施設のスタッフの中にも、コメント欄の異様さや違和感を感じ取っている人がいるかもしれない。
自分たちの活動スペースが異国の日本人たちによって好き放題使われる屈辱、悲しさといったものを感じているかもしれない。
良識と熱量を併せ持つアザラシファンの中には、そんな「保護施設に対する非礼・無礼」を嘆き、精神を崩す人も少なからずいた。
一部の身勝手な日本人たちがオランダのアザラシ保護施設に迷惑をかける状況を憂い、嫌気がさして、1人また1人とリスナーがアザラシ幼稚園を去っていった。
「ついていけない」
「きっつい」
「見てられない」
「吐きそう」
彼らが言い残したコメントの全てに同意したい。
きついし、見てられないし、ついていけないし、吐きそうだ。
アザラシ幼稚園を踏み台にして利用した、一部の日本人による「マッチングアプリ」に吐き気がする。
「夕飯の準備いってきま~す」
「いってらっしゃーい!」
「私は昨日の残り物で済ませようかしら」
「あと1時間で息子が帰ってくる」
そんな、アザラシとは全く関係のないプライベート報告のすべてに吐き気がする。
群れる日本人。チャット欄を同調圧力で支配
リスナー同士がつながれば、そこにコミュニティが発生する。
最初は一対一。1人と1人。
たった2名の小さなコミュニティ。
そこから徐々に3人、4人と増えていき、仲良しカルテルは拡大する。
雪だるま式に膨れ上がり、巨大なコミュニティを形成する。
チャット欄で繰り返される「こんにちは」「こんばんは」の挨拶。
あれは「礼儀正しさ」からの挨拶なんかではない。
コミュニティに排除されないための「自己防衛のための挨拶」に過ぎない。
そして挨拶をし合うことで仲良しカルテルのつながりを確認し、それ以外を排除する。
無自覚に。無遠慮に。
良識あるアザラシファンたちは「他者を排除しないために」あいさつを控えている。
過度なあいさつを繰り返して必要以上につながったり馴れ合ったりすることは「他者を排除すること」と同義であることを、良識あるアザラシファンたちは知っている。
だから過度な挨拶合戦に参加しないし、チャット欄からも距離を置く。
我々の目的はあくまでもアザラシを見ること。
そこにプラスして「アザラシの様子を見て感じたこと」をコメントする。
その程度であったはずだ。
たとえば。
コンビニやスーパーに来店する目的は「買い物をすること」。
にもかかわらず入口に数名のやべーヤツらがたむろして大声で雑談してたらどうだろう?
彼らは入り口を塞ぎ、ぞろぞろと集合するヤベー仲間には「いらっしゃーい!」「こんにちは!」と笑顔であいさつする。
買い物するための場所に「買い物しにやってきた客」が邪魔者扱いされる。
入り口の端を縫うようにして「すみませんちょっと通ります・・」と遠慮がちに通らなければならない異常事態。
いつも利用するコンビニやスーパー、ラーメン屋、駅、空港、なんだっていい。その入口前で「仲良し集団」がたむろし占拠・雑談していたら。
利用客は居心地の悪さを感じて離脱するだろう。
新規は寄りつかないだろう。
文字通り「アザラシ幼稚園の入り口」であるはずのチャット欄で、既存ファンと新規の両方を離脱させている。
そんなことがアザラシ幼稚園のチャット欄では起きている。
美術館にピカソ展を見に来たらピカソなんぞまるで興味のない連中が入り口にたむろして、『ゲルニカ』や『泣く女』の前を我がもの顔で占拠している。
地べたに座る連中のせいでせっかくのゲルニカに近づいて見ることはできない。
『泣く女』の泣く顔さえも集中して見ることができない。
そんな状況だ。こっちが泣きたくなる。
ピカソのすばらしき絵画の前でジャパニーズピーポーたちが煎餅をボリボリ頬張りながらジャパニーズ自分語り。
恥ずかしくて、情けない。
天国のピカソも泣いている。あるいは滑稽すぎて笑ってるだろう。
バズの数日後から既に芽生えてた、終焉の種
たくさんの人たちがアザラシに魅了され、癒されていたバズの時期。
「かわいい」で埋まる健全なチャット欄だった2024年8月。
それでもすでに自分語りの種はいくつも見られた。
具体的なフレーズは差し控えるが「一体感をもたらす造語」もまた、それを使わない者を排除する道具になり得る。
そして日本人特有の造語文化、その増長は、ことアザラシ幼稚園では顕著に見られ、正直なところ「言いづらいけど気持ち悪い。ついていけない」というのが本音だった。
私がなんとかギリギリ耐えられたのは「ナイス利休」くらいで、それさえも日本人ならではの同調を感じていた。
実際のところ「ナイス利休」で統制されたチャット欄でそれ以外のコトバ、、、たとえば「ナイスパ」のような単語を発してる人の数は圧倒的に少なかったし、許容される空気もなかった。
「違うでしょ、ナイスパじゃないでしょ?」
「あなたも一緒にあの言葉を言うの。さあ」
同調圧力。集団心理。はみだし者を許さない空気。
コミュニティの悪い部分が、あの造語文化には詰まっていた。
私にもスパチャした人を称えたい気持ちはあった。
けれどナイス利休(といった造語の類)の巨大同調圧力の一部を自分が担うことには激しい抵抗があったから、いつも心の中で「ナイスパ」と言うに留めていた。
同調圧力に加わって誰かを排除する。
その一部に自分はなりたくなかった。
日本人が得意とする「造語を用いた一体感」。
アレは中々やばいものだと思っている。
実際、アザラシ幼稚園では造語、造語、造語のオンパレードで、Xのポストを見ると「ついていけない」「アザラシは可愛いけどあの文化はムリ」という声も少なくなかった。
次々と造語が作られ、チャット欄は消費され、削られていった。
造語の意味を理解できない者は弾かれ、チャットから静かに排除された。
同調圧力にかられて造語ムーブメントに乗っかる。
造語で生まれる「つながりパワー」の一体感に守られる。
群れは1人を排除する。
動物の本能と人間の醜さを見せつけ、一匹を群れで排除する。
造語を知らない新規たちは参加しづらさを感じたことだろう。
気軽にチャットできる雰囲気なんて無かっただろう。
初めて訪れる美容室。
その玄関前で美容師たちがたむろしてペチャクチャしゃべる様子を見て、いったい誰が居心地の良さを感じられるだろう。
その店に入りたいと思うだろうか。
「ノリがきつい」「ついていけない」
「アザラシは可愛いけどチャット欄がやばい」
そう言われてしまうのも納得である。
徐々に増えていったXの検索「アザラシ幼稚園 チャット」
アザラシ幼稚園がバズった頃からXで検索していた語句がある。
「アザラシ幼稚園 チャット」
「アザラシ幼稚園 身内」
「アザラシ幼稚園 内輪」
アザラシ幼稚園がバズった8月は、それらの検索結果もポツリぽつり存在する程度だった。
そうしたポストをしている人の数は少なかった。
「他の皆はあまり自分語りが気にならないのかな?」
とさえ思った。
しかし秋ごろからアザラシ幼稚園の「身内」「内輪」「雑談」「自分語り」について語るポストが増え始めていった。
そして10月か11月頃からだったろうか。
ついに「アザラシ」と打ち込めば検索サジェストが機能して「アザラシ幼稚園 チャット」と出てくるくらいに検索ボリュームが拡大したのだ。
いまやXで「アザラシ」と打ち込むと
アザラシ幼稚園(全角スペース)チャット
アザラシ幼稚園(半角スペース)チャット
の2語が並列して検索候補に出てくるくらい、多くの人たちがアザラシ幼稚園のチャット欄について議論、というか苦言を呈している。
「ついに来るところまで来たな・・」というのが感想である。
記録的なバズとブームから5か月。
あれほど賑わっていたチャット欄をたった5ヶ月で同接数百名の閉鎖的なコミュニティへと鎮火させた自分語りの破壊力と暴力性。
コミュニティや配信をぶち壊すのは、いつの時代もアンチではなく身内。
ファンのツラをした破壊者によって内側から崩されていく。
「自分語りをするシロアリ」の放置で配信もアザラシ幼稚園も終焉まっしぐら
とあるゲーム配信を見ていた時期がある。
毎日見てしまうほど魅力的な配信で、ゲームをする様子やリアクションが楽しい配信者だった。
配信に通う目的は「配信者がゲームを楽しんでいる様子」を見ること。それしかなかった。
これをアザラシ幼稚園に当てはめるなら「アザラシ/配信者がワチャワチャしてる/ゲームしてる様子」を見ること。それが目的だった。
けれど「配信者がゲームする様子を見ていたい」という単純な欲求は徐々に叶いづらい環境へと変わっていった。
配信が始まると自己中なリスナーがぞろぞろと集まって、自分語りのチャットを展開することが常態化したからだ。
あきらかに人の数が減っていった。
昔から配信を見ていた人たちが消えていった。
熱量のある人たちから消えていった。
一生懸命に応援する人から消えていった。
自分語りのあまりの多さに愛想を尽かして。
次第に配信者もゲーム実況することをあきらめ、自分語りをするリスナーたちの聞き役に成り下がる時間が増えていった。
配信者の立場にありながら配信者自身についてのトークをすることができず、話題の中心はいつもリスナーが持ち寄る自分語りネタ。
ここがゲーム配信である事など忘れたかのように彼らはひたすら「今日やったこと」「食べたもの」「YouTubeで見た動画」、そんな話ばかりをチャットに打ち込んでいた。
誰一人として配信者の実況をマジメに聞いてはいなかったし、自分語りをすることにしか興味がない様子だった。
さらにタチの悪いことに、自分語りをする人間というのは同じく「自分語りをする人間」と仲良くなって一緒になってチャット欄を占拠する。
より自分が「自分語りをしやすくする」ために、自分語りフレンズを作ろうとするのだ。
そこに加わろうとしない私は邪魔者、異端扱いだった。
最終的にそのゲーム配信はいつ開いてもリスナーが自分語りを好き放題続けているだけの「リスナーの自分語りに付き合う配信」になってしまった。
私の目的であった、
配信者がしゃべることを聞いていたい
配信者に関する話題で盛り上がりたい
配信者がプレイするゲームを見ていたい
これらは全部叶わない状況だった。
リスナーたちが自分の話ばかりチャットする
チャット内容は配信者ではなく己に関する事ばかり
配信者のゲーム実況など眼中になく、いつも自分語りに夢中
こんな状況だった。
奇しくも、アザラシ幼稚園でも全く同じことが起きている。
アザラシが主役の配信なのにリスナーが主役
アザラシについての話題で盛り上がりたいのに、晩メシや育児や「いってらっしゃい」「いってきます」の馴れ合い大人幼稚園
アザラシのことよりもプライベートな自分語り
私はこう感じた。
「いつだって面白い配信やコンテンツをぶち壊して終焉送りにするヤツってのは『自分語りをするシロアリみたいな連中』なんだな」と。
つまりは身内。
アンチではなく、ファンのツラした"身内"によって配信は終焉に向かうのだと。
2025年。アザラシ幼稚園はどこへ向かうのか
私が好きだったゲーム配信はどうなったのか?
答えは、多くのリスナーが離れていった。
配信者を見ていたいのに、リスナーの自分語りが多すぎて配信者を見ることができない。
配信者についての話題をして盛り上がりたいのに、いつでも話題の中心はリスナーが持ち寄った自分語り。
こんな状況に多くの人が愛想を尽かし、一人、また一人と離れていった。
私は配信者に「リスナーの自分語りが配信をむしばんでいますよ」と警告をしてみたが、最後まで事態が好転することはなかった。
最終的に私も配信を離れた。
アザラシ幼稚園はどうなるのだろう。
率直な意見を言えば、管理者である保護施設側が何らかの策を講じない限りチャット欄のひどい状況が改善に向かうことは無いと言える。
なぜなら、彼ら大人幼稚園の民がみずから「改善しよう」だなんて思うはずもないから。
そもそも自分たちがやっていることの問題点に気づくことすらできていないのだから当然だ。
とはいえ保護施設側に改善策を求めることが難しくて現実的ではないことも理解している。
「いっそのことチャット欄はなくてもいい」
そんな意見を一度ではなく幾度か目にしたことがある。
正直に言って、私も賛成だ。
最近ではチャット欄を閉じて防衛策を講じることさえ億劫になり、アザラシ幼稚園のライブにアクセスすること自体少なくなった。
アザラシ幼稚園のバズに湧き、24時間いつでも可愛いアザラシが見られることに熱狂し、同じくアザラシを愛でる人たちの穏やかな気配に共感し、チャット欄では過度に馴れ合うことなく適切な距離感を守ることに努めていたユーザーたちに無言のいいね。
これらのことを魅力的に感じていた自分がまさか、アザラシ幼稚園から距離を置くことになるなどあの当時は想像だにしなかった。
多くの人もきっと同じだろう。
あの時のときめきは?
何がそれを消失させた?
視聴者が減ればスパチャが減るし寄付も減る。
それはアザラシ保護施設・Zeehondencentrum Pieterburenにとっての不利益を意味する。
少なくない数の自分語りが、圧倒的な数のリスナーたちを配信から遠ざけた。
もっと送られていたかもしれないスパチャや寄付、支援といったムーブメントまでをも縮小させた。
そして今日ものうのうとチャット欄で晩メシの話、家族の話、明日の予定、今日やったことの報告にいそしんでいる。
2025年、アザラシ幼稚園は一体どうなっているのだろう。
そして、あなたや私はアザラシ幼稚園を見続けているだろうか?
最後に生き残っていてほしいのは日本人のための「アザラシ幼稚園」なんかではない。
アザラシ保護施設としての「Zeehondencentrum Pieterburen」である。
保護されたアザラシとスタッフの皆さんはどうか、オランダの地と海で健やかに暮らし続けてほしい。