あの頃の私と、現在の貴方へ。

もしも、今、画面の向こうの貴方が何かしらの助けや許しや救いを求め『#8月31日の夜に』の記事を読んでいるのなら、少しだけ申し訳なさを感じる。

いつでも理解した風に『学校が嫌なら行かなくていい』だとか『消えてしまうくらいなら逃げろ』と唱える大人は沢山いるけど、具体的な救済措置は殆ど見つからないままだ。
わたしがそちら側だった時も、それらしき言葉は確かにあったのだが、学校に行かないこと自体が許されず、一人静かに消える方法も思いつかず、逃げる場所も許してくれる人もいなかった。
いつも『どうしようもなく、どうすることもできないのに、結局どうしろというのだろう』と思いながら泣き腫らした目で窓際に座って夜明けを眺めた。それによって「こんなに美しい世界なら生きてみよう」とは思わず、眼下にあるアスファルトを見つめ「この高さでは生き残るだろうな」なんて冷静に考えた。

だからわたしは、このお題について上手く纏める自信がない。
でも、もしも、わたしと同じ様な状態の誰かがいて、まだ助かる可能性があるならば同じ様なことにならないで欲しいと願う。
少しだけ、貴方の夏休みの一部をわたしに預けて貰えれば嬉しい。


実は割と最初から諦めた。
強い人間がいて、それに群がる普通の人間がいて、弱い人間がいる。
本当は人間に強いも弱いもないけれど、そういうシステムでしか生きられない人達が多いことは、大人をみていれば分かった。
幼い頃に気付いた簡単で覚え易い仕組は、小学生になろうと中学生になろうと高校生になろうと社会人になろうと延々と続くものであろうことを知ってしまった。
自分が永遠に誰かの造った『箱庭的世界』の中で生きていかなければいけないことを、端から知って諦めた。
だから気付いていることを悟られない様に、なるべく普通の人間らしく、どの箱庭でも普通らしく生きていた。

でも、徐々に、それは叶わなくなる。
急激な睡魔、足りない酸素、突然歪む視界、教室中の話を全部記憶する頭。
それまで出来ていた当たり前のことが出来なくなり、普通だった私から弱い私になった。
怒られ馬鹿にされ軽んじられ、もういっそ消えてしまえと言われた。
私の身に起こっていることを話しても誰一人助けてはくれなかった。

でも自分で消えることは叶わず、毎夜泣きながら理由を必死に調べ、親に何度も土下座をし「病院へ行かせて下さい」と頼んだ。
それから近所の人にバレない為だけに片道数時間かかる病院へ行くことを許された時、既に弱い私になったことを自覚し二年弱が経っていた。
初めてのカウンセリングで言い渡されたのは『直ぐに休学し、こころの治療を優先して欲しい』という結構大変でぎりぎりな診療内容だった。
病院の先生が言うには、私が自覚するより更に昔の幼い頃から積み重ねた様々なダメージによって私のこころは既にぼろぼろで、生きて病院を訪ねて来たこと自体が奇跡らしい。
急激な睡魔は現実逃避、足りない酸素は過呼吸、視界も頭も限界故の症状とのことだった。
お願いだから休んで欲しいと医師に懇願されたのを憶えている。
お願いだから休ませて欲しいと親に土下座したのも憶えている。
でも全て『お前の根性が弱いせいだ、頑張れば乗り越えられる』と切り捨てられ、無理矢理処方して貰った大量のお薬を服用しつつ卒業した頃、わたしのこころの一部は既に呼吸を止めていた。
それは確かに二度と取り戻せない、私の何かが消えた時だった。


もしも、あの時に戻れるのならば、わたしは躊躇いなく私を助ける方法を探す。
例え助けることによって今のわたしが消えてしまうと言われても、わたしは私を助けようとするだろう。嬉しい時に笑って、悲しい時に泣いて、幸せに生きられることを『奇跡みたい』だとすら思わず、そういう当たり前の感情に何の疑問も抱かずに済む今の自分ではない何かになってくれと願うだろう。

大体の人の人生は大抵長い。
平均寿命はどんどん伸びる。
その中の数ヶ月や数年、箱庭的世界で役柄を演じることを辞め、自分自身を大切にする時間があっても良い筈だった。
今の世界で生きることや、呼吸が苦しいなら、一時的に自分の中に閉じこもって考える時間があっても良い筈だった。
私が消えてしまったままのわたしは、はっきりとした言葉を誰かへ記すことはしない。できない。誰かの為に強い言葉を使う自信がない。
それでもどうか、画面の向こうにいる貴方が自分の納得できる貴方のままで生きて、いつかどこかで『生きていて良かった』と思ってくれる世界と出逢えることを密かに願ってしまう。


大人なのに願うことしか出来なくて、ごめんね。
この身勝手な願いが、少しでも貴方をこの世界に縫い留めてくれることを、いない筈の何かに祈っています。


2019.08.30 8月31日の夜に

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