[chapter8]社会正義に関する意識が高い「マジョリティ」に、都合よく「包摂」される「マイノリティ」たち
「分ける」はすごい。例えば、図書館へと足を運んでみたとしよう。そこに存在する(人類の知の源泉としての)「本」は、「図書分類(アルファベティカルなものと十進分類法)」と呼ばれる方法によって分類されて、一つに纏めあげられている。私たち人間が「これは異質だ」と知覚してしまうようなものも「同質なもの」として組み合わせられている。
だが私たちが生きている社会はこのような、従来の分類方法では纏めきれないような「複雑系」なものに向かって進んでいるように思える。
確かに、現在のLGBTQをめぐる運動や、身体/精神障害者をめぐるマイノリティ運動は、従来、社会の影に隠され、自らもひきこもりがちであった当事者たちを前面に出し、その社会的存在を肯定し、差別をなくしてきた。だが、とあるアイデンティティを備えたコミュニティが、いろんな立ち位置や帰属意識の違いをアイデンティティの諸差異としてひとまとめにして分析し、語ってしまうことは、現に存在する人々の具体的な生き様が無視され捨て置かれる、という危険性も孕んでいる。
「私たち」は、「アライ(支援者)」と自称する、社会正義に関する意識が高い「マジョリティ」に、都合よく解釈、認知される「マイノリティ」として、認定されようとしてはいないだろうか。
だがそれは「ゾーニングによる多様性」だ。
マクロに俯瞰して見れば混ざっているように見えるかもしれないが、それは「マジョリティ」が「痛み」を受け取りたくないがために、「見たくないものを見ない」がために作り上げた、ハリボテな「多様性」に過ぎない。
そのサラダボウルの中に存在している(「不登校」「LGBTQ」「精神障害」等)言葉たちは、本当は「流動的なもの」で、複雑な「差異」を含んだもので、もっと「異質なもの」と組み合わせられるべきものではないだろうか?
「痛み」は無くせない。そもそも光や音、匂いなどのようなあらゆる「外部刺激」は全て苦痛である。私たちはその「痛み」と共存する方法を模索し続け、その「痛み」を「快楽」に変換しながら、生きていくしかない。