[chapter10]決まった場所で手をつないだまま一歩も動かない人たち。

毎月やり過ごすことができなかっただけで、美しいとか、汚いとかは、どうでもよかった。
嫌なものは嫌だ。それだけのことが伝わらなかった。
女性を取り巻く悪しき風潮は見直されようとしているからあなたも気にせずに自由に生きていいんですよ、というのが保健室の先生の話の要旨だった。何の関係もない世の中に責任が押し付けられていた。大人の中では、まどかの意志で行っていることは、世間の風潮に抑圧された結果生じていることになっていた。
痩せることは生理を止めるための手段であって目的ではなかったのに、拒食症の女の子と見なされたので、拒食症の女の子用の言葉だけが与えられた。
まどかは当事者性なんて一つも持っていなかった。身体的特徴と食生活以外に、その属性の枠組みの中にいる人とまどかが共有できることはほとんどなく、世の中が想像する属性のイメージとも適合しないのに、まどかへ向けられる態度は、その属性への対応として推奨されるものばかりだった。

「N/A」/年森暎

「居場所」と「痛み」は、似ている。

居場所、つまり○○の人のための場所、はたくさんあって。
小学生の居場所、中高生の居場所、子育て主婦の居場所、高齢者の居場所、就学前の子のための場所とか。
○○の人のための居場所、っていいことをしているように見えて、ゾーニングして、隔離して、アテンションエコノミーを増長させて、スティグマを増加させている。そうなるのは、構造的に仕方ないけれど、その構造を認知している人は少ない。傷つきたくないから見たくないものを見ないようにして、これでみんなハッピーじゃん、これを将来永劫持続させたらいいじゃんで、はい終わり。だって見てみなよ、あの人「これが自分の痛みを表す言葉だったんだ」ってめちゃくちゃ感動してるじゃん?幸せそうじゃん?何が不満なの?とそう思っている。でも、現代社会で問題視されていないのは、そのあと。分類された、その先。分類されたあと。同じ属性の人同士で集められると、一見傷つかないようには見える。けど次第に「あれ、ここ違うじゃん」ってなって、やっぱり自分の痛みはこの名前ではないな、ってなって。もう、そうなるのがみえている。いやでも「不登校」とか「LGBTQ+」とか、たくさんいるって言われてるじゃない。統計があるじゃない。ええ、でもそれって苦し紛れに追い込まれて、そこに行き着くしかないというか、行きつくしかなかったというか、1番メリットがあったからじゃないのですか。名前というわかりやすい記号に、みんなミツバチみたいに吸い寄せられていっちゃうのですよ。

わたしのこと、異常だと、依存症だと、診断してよ、って。
異常診断士でも探しているのでしょう。

活動を始めて3年。スーパーの未就学児が遊ぶための場所で、たむろする小中学生を幾度となくみてきた。でも、それはルールだからあたりまえじゃない?安全を保つために、未就学児までって制限つけて、ゾーニングして、場を開いているんでしょう?それもわかりますよ。でも、それは長期的に見てほんとうに誰かの幸せになっているのでしょうか。学習塾をたらい回しに通う子の話も聞いたことがあります。塾に行くのはなぜでしょう?メリットがたくさんあるからですよね。とりあえず塾に行くことで、学力が上がることで、受け取ることができる恩恵がたくさんあるからです。とりあえず勉強できる場所が確保できるからです。でも、街から勉強できる場所はどんどん減りました。「ここは勉強する場所じゃありません」って、勝手にゾーニングされることが増えました。代わりに勉強する場所を確保もしないのにです。仕方なく学習塾をたらい回しに、なんてこともたくさん増えました。

あれ、これって「痛み」と似ていると思いませんか?人々が「不登校」「LGBTQ+」「発達障害」「HSP」と、まるで自分の個性を表す肩書きのように、あからさまに提示するのはみんなが提示するのはなぜですか?その方が多少のリスクはあれど、メリットがたくさんあるからですよね?何も言わないより、不登校とか発達障害とか言ってたほうが、勝手に助けようとしてくれる、支援しようとする人がいるからですよね?

翼沙とも。今まで、ただの友だちとして、押し付けたり、詮索したり、寄り添わなかったり、放棄したり、そんなことを繰り返すたびに距離を測って、お互いに近づいたり離れたりしながら関係性をつなげてきたはずなのに。かけがえのない他人ほしさにうみちゃんと付き合ってみただけだった、それでLGBTの人で固定されてしまった。同性との恋愛関係を望む人になってしまった。
保健室の先生の後ろの壁に貼られた、日に焼けて赤色が薄くなった人権週間のポスター。多様性を認めてみんなで助け合いましょう。地球の上で手をつないで綺麗な円を描いて等間隔に点在する人たちの絵。決まった場所で手をつないだまま一歩も動かない人たち。
まどかもこの中の一人になった。踏み出したら輪っかの形が崩れてしまうから、この属性から出てはいけない。やさしく手をつないでくれた人をがっかりさせないように、黙って笑顔で収まっている。
本当はどんな属性にもふさわしくないのに。

「N/A」/年森暎

マイノリティを理解するときに「当事者のひとに話を聞いて理解してみましょう」という空気も嫌い。どうせその人たちは、そこでその属性をもつ人について知った気になって、ほかの人にそのスティグマを張り付けるつもりだから。手間暇かけてそんなことするより、まずは自分の「世界の見方」を疑ってみたらどうか、と思う。なぜそんなふうにわたしは無意識に他者にスティグマを押し付けてしまうのだろう、と。ほんとうは当事者活動も見ているのも気持ち悪い。わたしたちの属性はこうだ、って外延を増やすことが正義だと思っているのならそれは違う。距離や感覚が他者よりもずれているのなら、その距離を正確に把握するために、傷つきにいかなければならないとわたしは思う。

でも、実際むずかしい。言葉にすればほんとうに表現したかったことはそこで死んでしまうけれど、言葉や記号にしないと、気づいてすらもらえないから。でも言葉にできたとしても、クオリアが共有できなければ分かり合うことはできない。クオリアが共有できるまで、必死に言葉というゴミを産み落とし続けてしまう。スティグマを増やし続けてしまう。