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しんしんしーん そこにある見えないものの手触り

チームわが家の問い直しの一環として行った非公開ワークショップ「家族のあそびレシピ」に参画くださった藤原佳奈さん。演劇家として幅広く活動されている。

大変失礼ながら、今回ご一緒するまであまり藤原さんのことを知らなかったのだけれど、お会いするまでの間、web上で公開されているこれまでの作品を見せていただいた。

「マルイチ」は単純にシュールでベタで面白く、でも、人と人との関係と「家族」と「家族」という関係をどう結んでいくかという視点、「マルイチ」という言葉に込められたメッセージが後味として残った。

分身ロボット“OriHime”による「星の王子様」は作品だけでなくドキュメンタリーも奥深く、そこに「いる」ということがどういうことなのか、人の気配をどう感じられるのか、そんなことを考えさせられた。

他にも高校生との作品『Yに浮かぶ』など、それぞれから「何か」を感じた中で、藤原さんの最新の取り組みの一つである「しんしんし」からだけは「何か」を感じることができなかった。

そもそも私はアーティスティックでもクリエイティブでもない。どちらかというと頭でっかちな人間で、理論やロジックで物事を捉える方が性に合っている。だから、しんしんしから「何か」を感じることができなかったことは正直そこまで気にならなかった。

ところが、実際に藤原さんにお会いして、話した時に藤原さんと空間の間に見えない何かがある気がしてならなかった。見えないけれど確かにそこにある何か。そこで、思い立って、京都で2日間限定で開催していた「しんしんしーん」を観にいくことにした。

会場は京都の紬問屋「玄想庵」。築130年ほどの京町家は、入った瞬間から荘厳な気持ちにさせてくれた。


外の景色がそのまま舞台背景となる素晴らしい空間。

しばらく待っていると、背後から一人の人が気配なく歩いてきて、目の前に立った。

そこから30分。その人の「踊り」をじーっと観た。ただただ観た。
こんなにも一人の人をじーっと観るという経験は初めてだった。
しかも「踊り」と言っても動いているんだかいないんだかすら分からない時間が大半。
心を研ぎ澄ましてそこに確かにある何かを感じようと思ったけれど、なかなか感じられない。

「やっぱり私のような人間にはわからないことなのか」と諦めかけた。
その時、それはふいに訪れた。

最後にその人が一輪の花をそっと床に置いた瞬間、そこにある「何か」の手触りを感じ、鳥肌が立ち、身体が震え、危うく泣きそうになった。

それは本当に一瞬のできごとで、でもその一瞬の手触りがずっと心の奥底に結構強めの余韻のように残り続けた。

日々の中にある大変さや忙しさに埋もれて見えていない、見ようとしていない何か。それは社会システムやルールの影響を受けずにずっとそこに在り続けている。本当は見たいし、抱きしめたいのに、そうしてしまうと日々張り詰めている糸が緩んでしまいそうで、大変さや忙しさに埋もれることをあえて許してしまっているのかもしれない。

それが、床に置かれた花で一瞬姿を現し、心を掴まれた。そんな感じだった。

床に置かれた花は、その人のパートナーのお婆さまが紙を縒って作ったものだそう。そこに込められた手触りが、私の手触りを助けてくれたのかもしれない。

手触りを感じながらその感覚を集めているのか
有り余る手触りを削ぎ落とそうとしているのか

手をのばして掴もうとしているのか
しゃがんで自分の足元を確かめようとしているのか

それすらもわからないまま
ただそこにあるものを見つけようとしている