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甦るフランク・ロイド・ライト(6)Raymond

<あらすじ>
65年の時を経て、フランク・ロイド・ライトが、もし現代に甦ったら何を語るか、というエッセイ集です。一人称の私は、甦ったフランク・ロイド・ライトです。今回(第6話)は、弟子のレーモンドについて、ライトに語らせます。

拝啓、アントニン・レーモンド様

アントニン・レーモンド(1888 - 1976)は私の弟子じゃ。
チェコ出身で、1910年にアメリカに移住している。1916年に私の事務所に入所、1919年に帝国ホテル設計の際、日本に私と一緒に来て、1922年に独立した。第二次世界大戦で一時的にアメリカに戻ったが、戦後は、日本で名作を多く遺した。

1935年頃の写真 レーモンド夫妻 前川國男 吉村順三 ジョージ・ナカシマが並ぶ

彼は、私の存在・影響が強すぎたせいで、かなり悩んだようだ。私の才能が濃すぎたため、ある時、自身のデザインの方向性を見失ってしまったのかもしれない。
そのため、レーモンドは独立後、フランスのオーギュスト・ペレやコルビュジエの作風を学び、彼自身の作家性を模索したようだ。

全くなんなのだ。怒りが湧いてくる。私にリスペクトがあるのであれば、わざわざ私と対立していたコルビュジエを混ぜ込むことなんて、酷いではないか。これは、私の弟子たち共通して言える。シンドラー(1887-1953)もノイトラ(1892-1970)も、私の弟子でありながら、私の作風に対して、コルビュジエやミースを混ぜて、結果として道を間違えている。ゲテモノ料理の出来上がりじゃ。
しかし、こうも弟子たちが私の作風を直接的に継がなかったのには何か理由があるのだろうか。

考えられる理由の一つは、私のデザインの独創性だ。私のデザインは誰も真似できない。唯一無二なのだ。誰も来れない地点にまで到達してしまった。私の才能が先を行き過ぎて、弟子たちは、真似はできるが、応用・進化させることは困難だったのだろう。
もう一つの理由は、装飾に対する社会的なる嫌悪感だ。私の方法論では、装飾的な造形が必要になるのだが、無駄なものだと断罪されることがある。これは、アドルフ・ロースというより、1930年のMoma展よりインターナショナル・スタイルを仕掛けたフィリップ・ジョンソンのせいだ。私の思想が現代で見えにくくなったのは、ジョンソンの影響が一番大きい。彼については、いつか話す。本当にジョンソンは許せない。
ともあれ、この二つの理由により、弟子たちは、私の作風をそのまま継ぐことができなかった。

ただ、私はレーモンドの中に、私自身を見出している。彼の建築はコルビジェに犯された建築にも見えるが、断片的にでも私は生きている。私は彼を愛していたが、彼もやはり私を愛していたのだ。彼の代表作品を例に、レーモンドの中に宿る私の霊気を説明しよう。

レーモンド自邸(1951)

左がライトのAuldbrass Plantation(1939) 右がレーモンド自宅(1951)

上の右写真は、有名なレーモンド自邸である。レーモンド夫妻が半外部空間で朝食をとっている。レーモンドの中に見出している私との類似点は、構造と構法にある。レーモンドは、丸太を半割し、柱を挟み込むように梁を架けた。この手法がキャンチレバーの庇を可能にし、後に丹下健三の香川県庁舎などに影響を与えた。
上の左写真のように、挟み込み構法は、私が先行している。私の構法は、組積造からスタートしているが、柱梁・RC造・鉄骨造・木造・2x4造・コンクリートブロック造まで、構法を追求し尽くしている。私は後期のユーソニアン住宅において2x4材でいくつもの挟み込み架構を実現させている。
しかし、レーモンドの独自性は、丸太を用いたことだった。丸太の表現は、日本の数寄屋との文脈と接続し、近代化による技術と日本文化を融合させた。

左がライト事務所・タリアセンウェスト 右がレーモンド事務所
架構表現と自然光の取り込み方が似ているようじゃ

リーダーズダイジェスト東京支社(1951)

リーダーズダイジェスト東京支社(1951) アントニン・レーモンド 外観と断面図

次に、レーモンドのリーダーズダイジェスト東京支店の断面図をみよう。真ん中に幹のように柱があり、スラブが枝のように伸び、カーテンウォールが葉のようにぶら下がる形式は、私の、National Life Insurance Company office building(1924)やSt. Mark's in-the-Bouwerie Residence Towers(1930)などの高層プロジェクトの断面を参照している。

Price Tower Frank Lloyd Wright 1952 Bartlesville, Oklahoma S.355 T.5215

しかし、この形式は、その後あまり日本で普及しなかった。片側コアのオフィスが一般的になった。おそらく、センターで圧縮を受け、サイドの引っ張りでバランスをとる形式は、地盤が緩く、地震が多い日本では、不向きだったのかもしれない。
奇しくも、レーモンドのリーダーズダイジェスト東京支店は1963年に解体され、1966年に、両側に象徴的なシリンダーコアを有したパレスサイドビル(林昌二)が完成した。これは、日本の構造形式の変遷において象徴的な出来事だと感じている。

パレスサイドビル 林昌二(1966)

群馬音楽センター(1961)

左がライトのPilgrim Congregational Church(1958 )
右がレーモンドの群馬音楽センター(1961)

ここで、レーモンドの名作、群馬県音楽センターについても触れておく。この構造を外殻に露わにする構造形式は、私がタリアセン・ウェストやPilgrim Congregational Churchで試みていた手法だ。木造とRC造で、印象は大きく違うが、架構を反復させ空間の連続性・延伸性をつくりつつ、内外の意匠に寄与する手法は、私とレーモンドで共通していると見なしても良いだろう。

軽井沢の新スタジオ(1962)

左がライトのArnold Friedman Lodge(1945)
右がレーモンドの軽井沢の新スタジオ(1962)

レーモンドの架構表現は美しい。右上の軽井沢の新スタジオもだが、いくつかの教会の架構デザインも目を見張るものがある。ただ、私の架構表現も美しいだろう。
私のArnold Friedman Lodgeの架構表現は、アメリカの先住民のティピー(テント)を参照している。レーモンドの軽井沢の新スタジオの架構を見ていると、日本古来の竪穴住居のようにも見えてくる。おそらくレーモンドは、最初は私のデザインの参照から架構表現の検討を進めたが、日本の伝統建築や民家を研究し、ものの見事に、我々の表現と日本文化との融和を達成しているのである。

左がライトのPilgrim Congregational Church(1958 )
右がレーモンドの軽井沢聖パウロカトリック教会(1934)

レーモンドは、私のモダニズムの源流(空間の連続性)をリスペクトしながら、色々なモダニズムの良し悪しを取捨選択し、オリジナルの感性を混ぜながら、戦後日本の建築の方向性を決定付けた。後続の前川・吉村・丹下の成果をみても、その方向に間違いはなかったのであろう。

彼の見出した方向性とは、空間の連続性を、装飾に頼ることなく、架構表現で担保することであった。無駄を排除する近代主義建築に対して、彼が見出した抜け道だ。構造なら排除されまい。
彼は均質化して形骸化するモダニズムを是とせず、常に現代の建築とは何なのか問い続けた。近代主義建築ではなく現代主義建築とでも言えるだろうか。
この架構表現が、その後の日本の建築に見事にハマった。ハマった理由には、日本により馴染みやすい表現・構法を模索し続けたからに他ならない。日本の建築における構造表現主義の流れは、レーモンドが導入した。その後の柱梁の表現について、縄文・弥生かという伝統論争にも繋がる。

また、彼の良さは、上から目線に西欧のモダニズムを押し付けたのではなく、日本人と共に最善の建築を検討したことだ。彼は、関東大震災と第二次世界大戦後の二度の復興を日本人と共にしていることから、これからの日本とは、日本人とはということを、真摯に考え、議論していたに違いない。

彼が私の弟子であったことを、大変誇りに思う。本編の序盤で、私の作風を直接継がなかったことに怒っていたが、私の思想をそのまま日本に適用することが困難だったのだろう。まだお金がない復興する日本において、私の装飾多めの建築が何も改良せずハマるわけがない。彼は私を忘却して自身を見失ったのではなく、日本独自の方向性を探るため、色々な方法論を試行する必要があったのだ。デザインの柔軟性について、私以上に素質があった。

そして、今日の日本建築の発展は彼なしには語ることはできないし、私も幾分か貢献していることがわかってくれたじゃろう。

旧イタリア大使館日光別邸 アントニン・レーモンド 1928年
この作品は極めて私との関連を見出せるが、時系列で追うと、レーモンドの方が実現が先行してしまっていたので、上で取り上げるのをやめてしまった。彼は天才だ。
外観はEnnis House(1926)で、内観はHanna–Honeycomb house(1937)と様子が似ているのだが。


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