見出し画像

甦るフランク・ロイド・ライト(8)篠原一男

<あらすじ>
65年の時を経て、フランク・ロイド・ライトが、もし現代に甦ったら何を語るか、というエッセイ集です。一人称の私は、甦ったフランク・ロイド・ライトです。今回(第8話)は、篠原一男について、ライトに話してもらいます。

拝見、篠原一男様

篠原一男(1925 - 2006)は、私と同じように、住宅をメインで作品を遺した建築家じゃ。
磯崎新と並んでメタボリズム後の日本建築界のリーダーでもある。
私も篠原も住宅設計をこよなく愛している。何故か。住宅こそ建築のあるべき姿だからだ。
あらゆる建築の基盤は、住宅だと言っても過言ではない。

Frank Lloyd Wright: The Natural House 1954

私は、多くの住宅を設計した。
私の作品数が多すぎるため、私以後に住宅を設計をする際、私の作品が必ず参照される。
そしてその際、私の住宅への同調か対立を迫られる。そのくらいの数の住宅を設計した。
おそらく実現作だけでも、400作品は余裕で超えている。そんな建築家が、過去・現在・未来に存在しただろうか?それが私じゃ。
篠原は44作品なので、私の1/10程度の作品数だ。

篠原一男の書籍 今回は住宅建築,1954メインで説明を進める

篠原一男は、私と思想が対立する建築家だ。しかし、私の住宅の思想にも精通しており、その差異を明確にし足元を固めながら、己の住宅論の進化を進めた。
彼の著書「住宅建築 篠原一男, 1964」を読んでみたが、私関連のテキストが多くあった。
今回は、この本で、私のことを述べている部分を抜粋し、私と篠原とを相対化する。我々の思想がよりクリアに理解できることになるだろう。

フランク・ロイド・ライトは個性的な空間をアメリの草原に作った。彼は東洋に関心をもち、その仕事にも東洋的な香りがあると言われている。しかし、彼の住宅の構成を見ていると、やはり非東洋的なものを私は感じる。優れた空間には民族的な体質がにじみでるものだ。ライトの空間はライト的な造形をどれほど集めても作れないと思うのは、彼の空間の本質はあの空間のつなぎ方にあるからだ。私は彼の空間を現代における連結手法のつくりだす典型と考えてる。彼は自己の建築を有機的と呼んでいるが、有機性の根元にはこの空間の連結の仕方の絶妙さがあるのだと私は思う。草原の丘をめぐりながら這い、或いは砂漠の岩陰に根をはった彼の住宅は、しかも単位の空間をつぎつぎと連結していくという機械的な作業ではつくることができない。・・・

住宅建築 篠原一男 <空間の連結> p22
住宅建築 篠原一男 <空間の連結> p23  ライトの住宅 図版
Albert and Edith Adelman House Frank Lloyd Wright 1948

このように、冒頭の一節に渡って、私の住宅について説明している。その後、私の住宅を、自身の設計論と比較し、対比的に存在するものとして扱っているが、私について蔑むのではなく、多くを認め、賞賛している。この謙虚な姿勢に、驚愕と喜びを抑えることができなかった。図版で使用していたAlbert and Edith Adelman House(1948)は、多くの作品集には取り上げられておらず、私の住宅の中ではマイナーな作品だ。その作品を取り上げたことも高評価のポイントじゃ。

彼の空間は、「抽象的空間」を基本とし、私の「有機的空間」とは明確に距離をとるスタンスを示している。ただ、これらの空間の差異は、建築家個々人がもつ空間に対する眼差しの違いであり、優劣などない。
下に並ぶ、から傘の家とA. K. Chahroudi Cottageについて、規模や架構表現などは似ているが、それぞれの住宅がもつ空間体質は全く違う。

から傘の家 篠原一男 1961年 東京都練馬区
A. K. Chahroudi Cottage Frank Lloyd Wright 1951 Mahopac, New York S.346

また、篠原は、自身の「象徴空間」の説明として、私の有機的空間を例に挙げている。抽象的空間の対比に私の空間があり、その抽象的空間と人間の精神が響き合うことによって、「象徴空間」が出現するという説明だ。下記に私に関する引用を示す。

情緒をうたい上げる生命的な造形というものの典型的なタイプを取り上げることは難しい。だから、私はいつもライトの有機的建築を近似的に一番近いものとして想定している。建築は有機的でなければならないという主張(※メタボリズム)がわが国でも問題になってきたのは数年前からのことであり、それは同時に、それまでわが国では異端者的な取り扱いをうけていたライトが新しい評価をうけて大きく浮かび上がった時でもあった。ライトの空間のとらえ方は素晴らしい。だがその追跡はきわめて難しいことも、<空間の連結>の中で述べたつもりである。空間のひだに到るまで侵透した彼固有の空間体質のようなものはどうやって捕捉し得るのだろうか。ライト的な模様や細部処理をどれほど綿密に復元しても、彼のいう<有機的な空間>を出現させることは容易ではない筈だ。アメリカの現代技術、生産方式との戦いを最後まで止めなかった芸術家の強烈な感性が力強くうたいつづけてきた<生命の空間>なのである。・・・

住宅建築 篠原一男 <象徴空間>有機的ということ p174

しかし、全く違う思想なのに、こうも称賛してくれていることに感謝したい。日本人ならではの習性なのだろうか。誰も傷つけずに自らの論を主張するのは、読んでいて気持ちがいい。皆、そうするべきだ。
私の思想は、コルビジェやギーディオン、そして憎きフィリップ・ジョンソンに、踏みにじられ傷つけられた。特にジョンソンは偽政者として、より資本を得るために、私の有機的建築の非合理性を風潮し、私の「有機的」の誤った解釈を世に広めた。そもそも「有機的」とは「統合的・人間的」と解釈されるべきなのだが、いつしか「生物的」と見做されていた。それは彼らが、「機械的建築」の仮想敵として、私の「有機的(生物的)建築」を捕捉したからだ。こんな偽装工作が許されてよいのだろうか。有機的思想の解釈を歪められ、勝手に敵扱いされ、私は近代建築の異端者として失礼すぎる評価を受けた。
もう少しで歴史からも葬り去られるところであった。危なかった。私は、近代建築の殿堂の第一展示室に飾られるべきなのだ。しかし、エディプス・コンプレックスかと思うほど、私は私の下の世代から袋叩きにされた。
だが、私の死後、多くの建築家が、私の建築への評価を忘れなかった。捨てる神あれば拾う神ありである。何事も死んでも諦めないことが肝心のようである。

相反する思想である篠原が、なぜ私について多くを自らの本で語り、ここまで評価したか。少し不思議だ。ミースには少々触れているが、影響が強かったであろうルイス・カーンのことは無視している。
これは当時彼が置かれていた状況に起因する。
メタボリズムなど都市建築を構想する丹下・磯崎らと対峙するために、篠原はまだ誰も到達したことがない抽象空間の深遠に突き進む必要があった。
住宅を愛してやまない彼は、孤独で過酷な道を突き進まなければならなかったのだ。
その孤独を補うために、住宅設計の高みに到達していた私の建築を、彼が問う命題の対偶として採用したのだ。私を逆照射し現れる鏡像に、まだ存在しない「象徴空間」の可能性を見出していたのだ。
篠原は、ジョンソンのように利己的なロジックの仮想敵として相手を蔑み陥れるのではなく、自己が未だ到達し得ない領域に踏み入れるためのに、私を正しく理解し、敬意を持っていた。

敵(磯崎)の敵は味方であるという発想に奇しくも似ているがな。

Harold C. Price Sr. House Frank Lloyd Wright 1956 Paradise Valley, Arizona S.378 T.5419(左写真)
未完の家 篠原一男 1970年 東京都杉並区(右写真)
もし、篠原が私を対偶としていたのであれば、
これらの作品も関係がとれる
フランク・ロイド・ライトと篠原一男の対偶を示す図版
自らのまだ見ぬ抽象空間を映し出す鏡として、私を使っていたのではないか

今、視点を映画カメラに置き換えて、或る<模型化>を試みてみよう。有機的な建築、ライトの住宅はきっとこのカメラのもっともふさわしい対象のように思える。次々と連結されていく空間、天井にも壁にも、或いは床にも微妙な空間のひだが刻まれつつ有機的な空間が展開する彼の住宅は、レールの上を移動しつつ、或る時は天井を、次には床の起伏をという具合に、カメラ技術を十分に駆使することでようやくその全貌を捕捉できよう。いいかえれば、ここに駆使されたカメラ技術と対応するものがライトの空間概念の模型であるといえるのである。・・・
現代建築の空間は、ライトの空間のように、人間の目の動きによって記録される。それは文学における第一人称<私>という主人公によって眺められる世界と類似している。・・・
私はこのような視点の在り方を考えているうちに、第一人称、第二人称、或いは第三人称への自由な転換によって空間の新しい記録もできると思われてきた。またさらに、これらのいずれでもなく、<第四人称>の視点によって、叙述される<視点不在の空間>もつくり得よう。

住宅建築 篠原一男 <第4の空間>視点の創造 p182
彼の第4の様式を匂わせる、伝説的な巻末のテキスト
その起点をライトの空間に置いているのが面白い
愛鷹裾野の住宅 篠原一男 1977年 静岡県沼津市

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?