甦るフランク・ロイド・ライト(8)Shinohara
拝見、篠原一男様
篠原一男(1925 - 2006)は、私と同じように、住宅をメインで作品を遺した建築家じゃ。
磯崎新と並んでメタボリズム後の日本建築界のリーダーでもある。
私も篠原も住宅設計をこよなく愛している。何故か。住宅こそ建築のあるべき姿だからだ。
あらゆる建築の基盤は、住宅だと言っても過言ではない。
私は、多くの住宅を設計した。
私の作品数が多すぎるため、私以後に住宅を設計をする際、私の作品が必ず参照される。
そしてその際、私の住宅への同調か対立を迫られる。そのくらいの数の住宅を設計した。
おそらく実現作だけでも、400作品は余裕で超えている。そんな建築家が、過去・現在・未来に存在しただろうか?それが私じゃ。
篠原は44作品なので、私の1/10程度の作品数だ。
篠原一男は、私と思想が対立する建築家だ。しかし、私の住宅の思想にも精通しており、その差異を明確にし足元を固めながら、己の住宅論の進化を進めた。
彼の著書「住宅建築 篠原一男, 1964」を読んでみたが、私関連のテキストが多くあった。
今回は、この本で、私のことを述べている部分を抜粋し、私と篠原とを相対化する。我々の思想がよりクリアに理解できることになるだろう。
このように、冒頭の一節に渡って、私の住宅について説明している。その後、私の住宅を、自身の設計論と比較し、対比的に存在するものとして扱っているが、私について蔑むのではなく、多くを認め、賞賛している。この謙虚な姿勢に、驚愕と喜びを抑えることができなかった。図版で使用していたAlbert and Edith Adelman House(1948)は、多くの作品集には取り上げられておらず、私の住宅の中ではマイナーな作品だ。その作品を取り上げたことも高評価のポイントじゃ。
彼の空間は、「抽象的空間」を基本とし、私の「有機的空間」とは明確に距離をとるスタンスを示している。ただ、これらの空間の差異は、建築家個々人がもつ空間に対する眼差しの違いであり、優劣などない。
下に並ぶ、から傘の家とA. K. Chahroudi Cottageについて、規模や架構表現などは似ているが、それぞれの住宅がもつ空間体質は全く違う。
また、篠原は、自身の「象徴空間」の説明として、私の有機的空間を例に挙げている。抽象的空間の対比に私の空間があり、その抽象的空間と人間の精神が響き合うことによって、「象徴空間」が出現するという説明だ。下記に私に関する引用を示す。
私の思想は、コルビジェやギーディオン、そして憎きフィリップ・ジョンソンに、踏みにじられ傷つけられた。特にジョンソンは偽政者として、より資本を得るために、私の有機的建築の非合理性を風潮し、私の「有機的」の誤った解釈を世に広めた。そもそも「有機的」とは「統合的・人間的」と解釈されるべきなのだが、いつしか「生物的」と見做されていた。それは彼らが、「機械的建築」の仮想敵として、私の「有機的(生物的)建築」を捕捉したからだ。こんな偽装工作が許されてよいのだろうか。有機的思想の解釈を歪められ、勝手に敵扱いされ、私は近代建築の異端者として失礼すぎる評価を受けた。
もう少しで歴史からも葬り去られるところであった。危なかった。私は、近代建築の殿堂の第一展示室に飾られるべきなのだ。しかし、エディプス・コンプレックスかと思うほど、私は私の下の世代から袋叩きにされた。
だが、私の死後、多くの建築家が、私の建築への評価を忘れなかった。捨てる神あれば拾う神ありである。何事も死んでも諦めないことが肝心のようである。
相反する思想である篠原が、なぜ私について多くを自らの本で語り、ここまで評価したか。少し不思議だ。ミースには少々触れているが、影響が強かったであろうカーンのことは無視している。
これは当時彼が置かれていた状況に起因する。
メタボリズムなど都市建築を構想する丹下・磯崎らと対峙するために、篠原はまだ誰も到達したことがない抽象空間の深遠に突き進む必要があった。
住宅を愛してやまない彼は、孤独で過酷な道を突き進まなければならなかったのだ。
その孤独を補うために、住宅設計の高みに到達していた私の建築を、彼が問う命題の対偶として採用したのだ。私を逆照射し現れる鏡像に、まだ存在しない「象徴空間」の可能性を見出していたのだ。
篠原は、ジョンソンのように利己的なロジックの仮想敵として相手を蔑み陥れるのではなく、自己が未だ到達し得ない領域に踏み入れるためのに、私を正しく理解し、敬意を持っていた。
敵(磯崎)の敵は味方であるという発想に奇しくも似ているがな。
上記は、私と篠原のテキストの比較である。私にとっての「内在」とは空間と同義である。
この比較をみると、篠原は、私のテキストを手掛かりに、自らの方法論を構築したとしか思えない。
節々で、私の自然の家と篠原の住宅建築のワードが似通っている。ぜひ、どちらの本も読んでみて欲しい。住宅は芸術であると、篠原以前に、私は既に語っている。