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ラッキー転換できる時、できない時

自販機でお気に入りの飲み物を買ったら、別の飲み物が出てきた。
どうしてもその飲み物が飲みたかったから、再度買ってみたら、指定した通りの飲み物が出てきた。
複数買いたかったので、再度購入するとまた違う飲み物が出てきた。
結局、5本中2本が別の飲み物だった。

今後もその自販機でお気に入りの飲み物を買いたかったので、電話をし、その旨を伝えた。
電話での謝罪はとても心がこもっていて、対応がとても誠実だった。

一見ツイてない出来事だけど、一瞬でラッキーな出来事として私の中に記憶されていった。

その後、駅の階段を降りていると、ゴツいキャリーケースを持った男性に後ろから思いっきりぶつかられた。
足首に皮がめくれるくらいの傷だった。

ぶつかった相手は気付いても謝りもせずにその場を立ち去った。
夕方の駅構内は人が溢れていて、私も、立ち止まらず、足をひきづりながらその流れのまま進んだ。

ツイてない出来事は、その後も尾を引くように腹立たしい出来事として私に記憶されていった。


おきる出来事は全て無色透明。
自分の感情が色眼鏡を通して自分の好きな色を塗って解釈していく。

自販機でおきた出来事も、キャリーケースをぶつけられた出来事も、両方をアンラッキーと思こともできたし、ラッキーに転換することにもできたのに、私は、自販機はラッキー転換し、キャリーケースはアンラッキーな出来事にしている。

なんで、ラッキー転換できたんだろう?
なんで、アンラッキーのままになったんだろう?


いろいろ考えていたら、私なりの答えが見つかった。
(全員には当てはまらないだろうけれど)

それは、人の気持ちがあるか、ないかの違いだった。

人は誰しも失敗する。失敗しないことをどんなに説いたとしても人は必ず失敗するだろう。完璧ならもう、人間よりロボットの方が格段上だしね。

だから、人の場合、失敗した後の対応の差が大きな差となるのだ。
人はミスをしてしまった後が勝負なのだ。

その時に大事になるのが、失敗を次のチャンスにつなげる対応なのだ。

自販機の対応はまさに、次のチャンスにつなげることができた。
私は間違ったものを出されたという不満より、次から安心して買える協力ができたという満足感を感じている。

そして、キャリーケースは、逆で負のスパイラルを作ってしまっている。
私はその駅を嫌な思い出として記憶し、その場所で起きることを『やっぱりこの駅は利用している人が悪い』と街ごと悪い印象を持ち、足が遠のくだろう。
一つの出来事で街自体を悪い印象を持てば、私もその場から得られるかもしれない次のチャンスを勝手に遠ざけ、その街も小さな積み重ねが質を落とすことになるかもしれない。

かなり大袈裟かもしれないが、ラッキーと感じるかアンラッキーと感じるかは、とても大きな差なんだと気付かされた。

キャリーケースをぶつけた男性には今でも少しだけ怒っているが、結局そう思うことで自分のチャンスに繋げられないと気付いた今、その出来事でさえラッキー転換したいと思う。

ケガをしても私はピンピンしている。
そんなヤワな身体じゃなかったと再認識できる良いキッカケになった。
そして、この出来事のおかげで、ラッキー転換することの大切さに気づけた。
足首の皮がめくれるくらいのケガでこのチャンスに気づけてラッキーだった。

ばたちのラッキー転換する思考のプロセス

ラッキー転換するか、アンラッキーのままにするのかは、自分次第。


自分自身のために、どんどんラッキー転換をやっていきたい、ばたちでした。

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