自分史エッセイ 「カルマと向き合うこと」
みなさんこんにちは。
先日佐渡ヶ島の稲刈りから帰り、また普段どおりの日常が戻ってきました。
そんな今日、私にとって大きなニュースが飛び込んできました。
それは2011年3月11日に発生した福島原発事故の訴訟で、ふるさとを奪われた原告団に、仙台高裁が国と東電の責任を認め、10億円あまりの賠償金を払うことにしたというニュースです。
なぜ私がこのニュースを取り上げたかというと、これは私のカルマ=宿命、そして自分史と大きく関連しているからなのです。
私の自分史は9年前の3月11日を境に大きく変わりましたが、今日の判決はそのことを今一度強く思い出させてくれました。
そこで今日はこのエッセイで私のカルマについてお話しさせてもらおうと思います。
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「史樹」という名前に込められた思い
このあどけない顔の少年は「名越史樹(なごやふみき)」ちゃん。
1960年に広島の被爆二世として生まれた彼は、2歳のときに突然急性白血病を発症、5年の闘病生活もむなしく、1968年2月にこの世を去った。
ここでお気づきの方もいるかもしれないが、私は彼と同じ名前で、字も同じ「史樹」である。
ここに私が否が応でも向き合わざるを得ないカルマ(宿命)がある。
私は、史樹ちゃんが亡くなった1968年7月の生まれだ。
当時、父、母、祖母と二人の兄の6人家族は、まもなく誕生する私の名前をみなで考えていたという。
二人の兄は伸樹(のぶき)、基樹(もとき)と「樹」という名前がふたりともつく。
そこで歴史の好きな祖母が「史樹がいいんじゃない」と提案した。
しかしそのとき、編集者として史樹ちゃんのお父さんを取材していた父と、身重だった母の脳裏には、半年前に広島で亡くなった彼のことがよぎり、思わずひるんだという。
「史樹って、被曝二世で半年前に死んだあの子と同じ名前だよね?」と。
しかし小学校6年生のときに敗戦を迎え、それまで信じていた大人たちにだまされたという思いから、平和活動に戦後没頭していた両親は、精一杯生きようとしながら、戦争の犠牲になることの不条理をその命をもって訴えた彼のことを忘れないために、生まれてくる私にその名前を付けた。
忘れられない一言
私はこのエピソードを小学生低学年のときに知った。
自宅にあった史樹ちゃんのことを書いた本を読み、自分の名前に込められた意味をそれなりに理解していたし、その悲劇について消化しきれない「なぜ?」をなんとなく感じとっていた。
そんな私は母の突然の申し出により、12歳、小学校6年生になった年の夏休み、広島に住んでいる史樹ちゃんのお母さんに会いに行くことになった。
とても驚いたが、昨年亡くなった母はその時のことを「私が敗戦を迎えた12歳のときにどうしても史樹に史樹ちゃんのことをしっかりと伝えたかった」と書き残している。彼女にとっても大きな思いをもっての広島行きだった。
そして夜、彼の家にお邪魔した。
呼び鈴を押してからドアが開くまでのあいだ、私は緊張していた。
ドアが開き、中から出てきたお母さんは初めて会う私を見て涙目になり、開口一番こう言った。
「大きくなって…」
「え?初めてあったのに…」今でもあの時の驚きを忘れられない。
その後2時間ほど、ご両親と話をした。
仏壇には冒頭の遺影のほか、彼が好きで書いていた絵などが飾られていた。
「なぜこんなにかわいそうな人達がいるんだろう?」
この日から私は自らの名前に込められた「カルマ」に深く向き合うことになった。
「貧乏くじ」から逃げ続けた私
しかしその後、私が感じた大きな「なぜ?」は、重く重くのしかかってきた。
「無関心な人がこれだけいる日本で、これから日々の生活を、反核平和活動に費やさねばならないの?私はそのことに向き合って、華やかな人生を送ることは許されないの?それって『貧乏くじ』じゃないのか?」と。
そして私はそこから目をそむけ、自分のカルマに向き合わずに逃げることを選択した。
しかしあの日に感じた「なぜ?」の答えは、どの世界にいっても見つかることはなかった。
社会に出てからも、まことしやかに「これが世の中なんだ」のようなことをしたり顔でいう大人に会うたびに、激しい怒りが私の胸に沸き起こった。
ただ私は、それに対して本気で反抗することもなく「こいつらにはなにも分かってないんだ」と諦めるだけ。まさに「くすぶって」いた。
そんな中途半端な人間がなにかを成せるはずもない。
大した業績も残せずに職を変え続け、なんとか生きていくなかで「なぜこんなに中途半端なのだろう。自分にはなにか役目があるはずなのに」と必死に自分の役目を信じてあがく日々が長く長く続いた。
そしてあの日が来た
そして2011年3月11日、東日本大震災による福島原発事故が起きた。
そのとき東京駅にいて、8時間かけて半ば興奮しながら自宅のある横浜まで歩いて帰宅した私は、翌日から東北で起きている津波の惨状と、原発事故という現実に向き合わされることになった。
その日から私の自分史が大きく変わりだした。
いや、自ら変えることを決めたといったほうが正しい。
原発が爆発し、放射能汚染によりふるさとを突然奪われた人や、甲状腺がんになってしまった幼い子どもが増えるというニュースを聞き「この機会に自分のカルマに向き合わなければ、あの親子に冥土で顔向けできない」と強く感じるようになったことがきっかけだった。
その年の秋に結婚を控えて40すぎでようやく再就職した会社を辞め、12歳のときに直面した自らのカルマをSNSで宣言し、原発事故に関するイベントや、福島から神奈川に避難し、原発事故の訴訟に人生を投じる人の支援などをはじめた。
それまでくすぶり続けていた私の胸のなかの焔がその活動の原動力になったことは間違いないのだが、それはあの日まで自らが逃げ続けてきた「貧乏くじ」を引く決断をしたからこそ激しく燃え上がったのだと思う。
最初は恐怖から、しかしその後は…
そして私たちは、それまで考えたこともなかった横浜から相模原へ引っ越し、生活を根本から変え始めた。
それは当初「放射能で汚染された食べものを騙されて食べるのは嫌だ」とか「すべてにおいてお金に支配されるような生き方はしたくない」という恐怖感からだった。
しかしその後、自分らが種を植え出てきたときの感動や、それを育て、実りをいただくときの感謝を感じる生活を続けていくうちに「これが本当の幸せなんだ」ということを、頭ではなく身体で実感するようになっていった。
またその意識変容により離れていく人も出てきたが、心から信頼できる友人が全国にたくさんできてきた。
彼らの存在も恐怖感を払拭し、安心感を私に与えてくれた大きな大きなファクターとなった。
そしていま思うこと
そして私は、貧乏くじから逃げ続け、ダラダラと悩みながら過ごしてきた過去の時間は無駄ではなかったし、それは実は貧乏くじではなかったのだと、自信をもって言えるようにまでなった。
その長い回り道のなかで、一つだけ心がけてきたことがある。
それは「自分になにか役割があるに違いない。だからこそ将来、出世もできないであろう自分でもおもしろい人生を送ったと思えるように、自分のためになると思えること、自分がやりたいことを優先してやろう」ということだ。
その経験が、9年前のあの日から私が行ってきた活動にさまざまに役立つことは、その当時知るよしもなかった。
そしてなにより、自分史というものは、自分で決めさえすれば、過去がどうであれ自発的にデザインしていくことができるのだという確信をもたせてくれた。
これからも私の人生にはいいことも悪いことも含めていろいろなことが起きるだろう。
今日仙台高裁で出された判決だって、最高裁まで控訴され、もしかしたら負けて、腹のそこから悔しい思いをするかもしれない。
しかしそれでも私は彼らを応援し続けるし、自分がカルマに向き合ったことで大きく変わり始めた自分史に後悔は一切しないだろう。
なぜなら人は、自らの生命がつきるその瞬間に「自分がどう生きたか、どう在ったか」というところに行き着くのだと思っているから。
そしてそれをどう自分史として完成させるか、すべてが自分次第という考えは、死ぬまで揺らぐことはないと分かっているからだ。
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ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
極めて個人的な話ではありますが、私が自分史というものに関わり、それをライフワークにしていきたいと思ったのも、この「くすぶり」のなかで、一生懸命自分の生き方やあり方に向き合っている人たちが羨ましく、どうしたら生きることに打ち込んでいけるのだろうと、会う人会う人に自分史を聞いていた経験によるところが大きかったのです。
これはたまたま私の自分史ですが、私はどんなかたちであれ、一生懸命生きている人にはその自分史を自発的にデザインし、生きていく権利があると思っています。
そしてもし今が大変な状況であったとしても、自分らしくあることを諦めずにチャレンジしていれば、そのチャンスは必ず巡ってくると思っているのです。
なにせ私みたいに、40年近くを彷徨った末に、自分らしさにたどり着いた人間もいるんですから。
これからも自分史を通じて、一人ひとりがかけがえのない存在で、その人らしい人生を送れるし、主人公になってハッピーエンドなストーリーにすることができるんだというエールを送りたいと思っています。
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