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「いつかはアメリカを焼き払ってやる」 復讐のために原爆の火を灯し続けた男

本日2021年1月22日、核兵器禁止条約が発効されました。

昨年の7月7日国連総会で採択され、51カ国が批准したこの条約により、人類は「核のない世界」にむけて前進しはじめたのです。

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参照:核兵器禁止条約とは?条約の意義、日本の参加は?ノーベル平和賞受賞団体の運営委員に聞いた。HUFFPOST


76年前の1945年8月6日、広島に人類初の原子爆弾が投下。
続く9日には長崎にも投下され、太平洋戦争での日本の敗戦が決定づけられました。

この爆弾による死者は2019年8月時点で501,787名とされており、そのときに放射線を浴びた人はもちろん、戦後そうした人の子どもや孫にも、亡くなった方、いまだ健康被害に苦しんでいる人がいます。
以前ここでも、私の名前の由来になった、被爆二世で7歳で亡くなった男の子 名越史樹ちゃんの話を書きました。

しかし広島と長崎を焼き尽くしたその火が、平和への願いのもと、今なお世界で灯され続けていることを知っている人は、少ないのではないでしょうか。
今日はその火にまつわる、ある人の自分史をお伝えしたいと思います。

「恨みの火」はいつしか「平和の火」へ

この「原爆の火」は、福岡県八女市星野村の山本達雄さんが、原爆投下後の広島から持ち帰り、23年ものあいだ自宅の仏壇や囲炉裏で灯し続けたもの。
その後1968年星野村が引き継ぎ、1995年に村がつくった「平和の塔」に分火、その後は日本のみならず世界で、今もなお灯り続けています。

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               山本達雄さん

しかしこの火がここに至るまでには、達雄さんの壮絶な苦悩の自分史がありました。

8月6日の朝、陸軍の軍人として広島に向かっていた達雄さんは、原爆投下後の広島で地獄のような惨状のなか、広島で書店を経営していた叔父を探しますが、安否が分からないまま終戦を迎えます。

そして達雄さんは、瓦礫となった書店の跡地にくすぶっていた残り火を、叔父の形見として祖母がお守りにくれたカイロに移して持ち帰ったそうです。

当初その火は達雄さんのなかで、かわいがってくれた叔父をはじめ、多くの人を焼き尽くしたアメリカに復讐するための怨念の火でしたが、23年間の深い深い苦悩のすえ、平和を願う火となっていったのです。

この感動的な実話はTVや新聞でも再三取り上げられ、前述したとおり現在日本で60箇所、世界にも分火。1988年には国連軍縮会議にも届けられました。
その時のドキュメンタリーがyoutubeにありましたので、こちらに載せます。2本で15分ほどの短い動画ですので、ぜひご覧になってください。

この動画でもお分かりのように、達雄さんは、地獄のような体験からくる心の痛みを、平和をまもる活動へと昇華させ、2004年惜しまれながらこの世を去りました。
達雄さんの死後、この灯のストーリーは達雄さんの次男で、星野村在住の山本拓道(たくどう)さんに引き継がれ、現在も語り継がれています。

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このように全国に分けられた火のひとつに、東京都台東区の上野東照宮があります。
1990年市民団体「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」の募金活動によりモニュメントが誕生、これまで灯され続けてきました。

しかし2006年に宮司が代替わりし、重要文化財のそばに火があるのは危険だという理由から、移設を求められることになってしまったのです。

「灯す会」が移設先を探すも、各所で断られて難航を極めました。
上野の原爆の火は途絶えてしまうかと思われていたのですが、今年のはじめ、福島原発のすぐ近くにある福島県楢葉町の宝鏡寺(福島県双葉郡楢葉町大字大谷字西台58)で受け入れてくれることが決定。
上野のモニュメントと種火を運び出す分火式が、昨年12月19日に開催されました。宝鏡寺での点火式は3ヶ月後の2021年3月11日、福島原発事故から10年目に行われます。

ここで、この火が私の自分史に登場してくることになります。

この実話をモチーフにした合唱組曲「この灯を永遠に(とわ)」と、それを歌う男女混声合唱団「この灯を永遠に合唱団」が結成され、1991年星野村で初演が行われました。
かつてこの合唱団の設立に父と叔母が尽力したこともあり、叔母から「12月19日上野での分火式に亡き父の代わりとして参加してほしい」と頼まれました。

私は父の生前、この火の話と合唱組曲をよく聞かされていました。
また2015年、九州をキャンピングカーで巡った旅の途中で拓道さんと奥様にお会いし、平和の塔の前で車を止めて一晩を過ごしたこともあったので、叔母の頼みを受け、参加させてもらうことになりました。

たくどうさん

(2015年九州旅行の際にお会いした山本拓道さんと奥様との写真)

そして灯は福島へ

分火式には、分火先である福島 宝鏡寺のご住職や「灯す会」、父や叔母がお世話になった合唱団の方などが、自分たちが思いを込めて灯してきたこの火としばしのお別れを惜しむかのように集まられていました。

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(原爆の火が分火される福島県楢葉町 宝鏡寺の早川住職。住職は福島原発訴訟団の原告団長でもある。左は「灯す会」の小野寺利孝理事長)

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(合唱団の堀 喜美代先生による挨拶)

ここで予定はしていませんでしたが、私も父の代わりに一言挨拶をさせていただく時間をいただきました。

世界に平和を願い、核兵器を廃絶したいと、この火を灯すためにがんばってこられた多くの方々に敬意を表し、生前の父の話や、自分の名前の由来、合唱「この灯を永遠に」の素晴らしさ、非核への思いを引き継いで発信や活動をはじめた若い世代の友人らが多数いることなどを伝えさせていただきました。

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(早川住職のカイロに火が移され、上野東照宮のモニュメントの火は消えた)

この灯を永遠に

私の自分史のなかで最も大きな転機となった福島原発事故から10年目。
あの日を境に人生が変わった人はたくさんいるでしょうし、なによりあの日からふるさとを奪われ、見知らぬ土地に避難し、いまも訴訟でたたかっている方や、ふるさとに帰る日を夢見ながら亡くなった方がいます。

それと同じことが、広島、長崎から76年のあいだ続いていることを、この火は教えてくれています。

世界で唯一、三度の核被害を受けている日本ですが、政府はなぜか上述の核兵器禁止条約の国連総会に不参加でした。

たとえどれだけ時間がかかっても、人類が核の脅威から完全に決別する日が来るまで「この火」は灯され続ける、いや、永遠に灯し続けていかねばならない。

世界が核禁止にむけた動き出した今日、そんな思いを新たにしました。

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