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自分史コラム 「時代から外れる恐怖」

先日、某人気YouTuberが配信した、ホームレスの方に対する差別的な発言により、ネットでは喧々諤々の論争が繰り広げられた末に、彼のYoutubeアカウント停止について署名運動まで巻き起こる騒ぎになったのをご存知の方も多いと思います。

私は個人的に彼の発言は許されざるものであると思っていますが、それだけでなく、こうした考え方が、年齢を問わず今や多くの日本人にとって「時代のトレンド」なのではないかという底冷えのする危機感を感じます。

私の分析でいえば、彼だけでなく、昨今巷で人気のある人たちの特徴は一様に
・歯に衣着せぬ物言い
・弱者への思いやりがない(優生思考)
・極めて利己的
・本質的ではなく、論拠が薄弱
であること。

こうした一見強者のようにみえる人たちを崇拝し、毎月のようにお金をつぎ込んでいる人も相当な数いるそうですね。
 
そして同じく多いのが「常識的に見えて実はただのシニカル」。
一見もっともらしいような反対意見のように見えながら、その落としどころ、底に流れるものがイマイチわかりにくい。
 
わかりにくいというのは、健全な批判的検証力のように見えながら、実は自分の意見を主張したいだけということ、注目を浴びたい、自己承認してほしいということが見えてしまうから、本質が見えないということ。
これもSNSの普及により、かなりの数を占めるようになりました。

この論拠って「人としてどうしてもダメはダメ」というところすら、ずらして考えてしまうような風潮があります。
 
かのYouTuberの例でいえば「彼にもいいところもあるんだから」とか「言論の自由は保証されるべきだ」というような感じ。
しかし彼の発言は、決して看過されるレベルの話ではありません。

「ドイツ刑法典130条」の民衆扇動罪は、大虐殺を行ったヒトラーやナチスドイツを礼賛したり讃美したりする言動や、ナチス式の敬礼やナチスのシンボルを見せることを禁止しています。
 
彼の発言は、そのナチスの優生思考に同様のものであったと彼がどこまで理解しているか、そして日本の社会がそれをどう判断するかが問われている以上、こんな時代だからこそ彼は気の毒かもしれませんが「まあまあ…」で済ませる話では断じてないのです。

またYouTubeアカウントが剥奪されても、他の言論手段がすべてなくなったわけでもありません。
実際に彼は反省を題材にした動画やニュースで注目され、すでに莫大な利益を得ている反面、ホームレスの方は熱中症で人が死ぬような酷暑のなか、外で寝ているわけですから。

ただ、コロナや経済格差、自然災害や政治の腐敗など、社会不安が増大するなか、残念ながらこれが時代の風潮であり、多くの人が「こうしたトレンドに乗り遅れることで、時代と外れている、振り落とされてしまうという恐怖感」を感じているのではないのかとも感じます。

在り方、意味の不在の時代

この恐怖感の理由のひとつは「自分がどう在りたいかが明確になっていないことからくるのではないか」ということです。

私は仕事柄、自分の考えや思いをこうして綴ることをし続けているわけですが、それは昔からの「自分はどうなんだろう?どう在りたいんだろう?」という哲学的な問いの蓄積からくるものが多いです。

だから若い頃は「自分は浮いているな」と悩みましたが、かといってこうしたことを自分から友人らに投げかけていたわけではありません。
自分自身はまさに時代から外れることを恐れていたのです。
 
それを思うと、厳しい昨今の社会状況を生き延びるための教育を受けてきた人、そんなことを考えもしない人にとって、哲学などは邪魔で足手まといの学問でしかありません。
そんなことに時間をかけていたら時代から外れるという恐怖を感じるのも無理はないなとも感じます。

もう一つマクロの視点からこの風潮を検証すれば、80年代の中曽根内閣から誕生し、90年代の小泉内閣で強力に推進された新自由主義の影響が大きいと思います。
新自由主義について大変分かりやすいライターさんの記事を発見しましたので、分からない方はこちらを参照ください。

規制緩和と民営化などにより利益が優先され、経済至上主義の世の中になって40年近くを経過したいま、それが国民の隅々の意識にまで浸透したんだなと、自己責任ということばが溢れかえるネットをみて実感するわけです。

これらふたつの理由により、今の日本は「在り方、意味の不在」の時代の真っ只中にあると感じています。

でも、だからこそできることがある

私は若い頃から「最近の若いもんは…」と文句だけ垂れるようなオヤジには死んでもなるまいと思っていますし、それは今も変わらないまま。
だからここまで嘆き節だけを書き綴って終わるつもりはありません。
 
私が自分史のなかで悩み、時代に外れる恐怖から逃げてきたからこそ、そこから感じるものを、こうして伝えていくことができるし、それが責任でもあると思っています。
 
そのなかで「自分の在り方」を見つけるための手法としてたどり着いたのが「自分史」なのです。
 
そこで自分の在り方(私は「座標」とも呼んでいます)が明確になれば、これからをどう生きるか、世の中の事象に対してどう対処しながら生きていくかに恐れることはなくなります。

そしてそれは一人の自分勝手ではありません。
その在り方を言葉化し、可視化することで、賛同、共感してくれる人が出てくるからであり、それを私自身がいままさに実践しているからです。
 
もちろん、気の合う仲間だけで固まるのではなく、自分らしく在りながら、他者とのつながりを丁寧に作っていくことも求められますが、なによりまずは己を知るところからがスタートですよね。

社会不安のなかで自分らしくあるのが大変な時代であることは間違いありません。
また自分の在り方を明確にすることで、もしかしたら他者との関係が変わったり、または時代に外れるかもしれません。
 
でも本来の自分が自分らしくあること、それが一番大事。
だからこそ、恐怖を乗り越えて、年齢を問わず多くの人に自分の在り方をしっかりと見つけてほしいと思っています。

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