「怒らない」のススメ
昨日、飲食店・物販をやられているオーナーさんとその方のお店に買い物に行ったついでに色々と話をしたのですが、その中で「最近、みんなイライラしてません?」って話題が出て、確かにそんな感じがするなぁ~って思うんですが皆さんどうでしょう?
自分の仕事上でも確かに最近そんなことを多少感じるのですが、まだこちらはお互いに特定できる人間同士ですのでそこそこの「気遣い」ってもんがありますが、SNSを見ていると普段にも増して噛み付いているような論調を見かけるように思います。
こちらの考え方を相手に伝えて、相手が「あぁ、貴方の言う通りかもしれない。自分が認識不足でした。教えていただいてありがとう🙇」なんてことは、お互いによほどの信頼関係がなければ至らない結論ですよね。相手に対して信頼と尊敬がなければ聖人でもない限り、他人の意見を自ら進んで取り入れるなんてできないでしょう。
人と人、人と社会との関わり方には「影響の関係」と「関心の関係」があると思います。
「影響の関係」とは、先程述べたようにお互いに「信頼関係」または一方からの「尊敬の念」があり、直接的に影響を及ぼすことができる関係。例えば自分の子供。親から見て、いけないことをしているようであれば「それは止めなさい」と伝えて、子供も納得すればやめることもあると思います。
一方、「関心の関係」は、気にはなるし間接的に自分にも影響が及ぶであろうことだけど、今のところ自分から直接的に影響を及ぼすことの出来ない領域。例えば米中の貿易摩擦。日本国内の景気低迷の原因の一つでもあり、自分の生活に何らかの影響は及んでいるのですが、私が直接トランプと習近平に意見をすることはできませんし、例えば仮に二人が私の主張を聞き入れてくれたとしても米中の経済界全体、世界の経済界全体が私の主張を聞き入れてくれるなどというのはあり得ない話です。ですので、この「関心の関係」の相手の行動や考えに違和感を感じている場合は、自分の考え方や立ち振舞いを変えていくしかないのです。相手は基本的にこちらの働きかけでは変わらないのですから。もちろん自分にとっては「関心の関係」であっても他の人にとっては「影響の関係」の場合があります。その他の人が自分と「影響の関係」にあれば伝言ゲーム的に影響を及ぼし「いつの間にか勝手に」変わってくれることは多々あります。
例えば、所得減少世帯に対して30万円給付すると政府に言われたとき、「そんなこと言わないで国民全員に一律支給しろよ」って思ったとしても、安部総理は私にとって「関心の関係」ですので届かない声です。仕方がないので所得減少に備えて節約したり、所得が減少しない対策を立てるなど今までと違う何かを自分で考え、行動に移すしかありません。
ただ、「関心の関係」の立場にしかない我々の声が大きくなって、安部総理と「影響の関係」にある公明党の山口代表の耳に届けば今回のように間接的に影響を及ぼすこともあります(一応断っておきますが、あくまでも分かりやすい例として挙げた話で、自民党への不支持、公明党への支持云々という話ではありません)。
それでは何でSNS上の「影響の関係」にない人に対して一生懸命反論をするのか?
まず前提としては心理行動学的には云々という深い話ではなく…「暇」なんだと思います。
多分、太古の時代から昭和30年代の頃までは人はやることがなくなったらあとは寝るだけ、寝る以外の時間は何かをしていたと思うんです。
朝起きて田んぼ、畑。今と違って移動手段も徒歩以外ないから何をするにしても相当時間が掛かっていたはず。夜になれば火以外の明かりがないから何も出来ない、だから寝るだけ。「暇」って思う時間がなかったと思うんです。
ところが今は色んな物の登場で何でも簡単にあっという間にできてしまう。夜だって電気があるから眠くならなければ朝まで何かすることもできる。一方、週末のお休み…お昼まで寝ているって人も少なからずいるのでは。寝られるっていうことはやることがないから(笑)スマホでゲームをやるのは暇だから。
「それがストレス解消にとっては大切な時間なんだよ👹」と反論される方もいるでしょうが、ひょっとしたら先日お話ししたアドラー的思考に立つと「ゲームをやりたいという目的を果たすためストレスという理由を自ら作り出しているのかもしれない」と疑ってみる必要もあるのかも。
自分の意見をあえて公にする理由の1つには、「影響の関係」に届くまで話を大きくしたいということもあるでしょう。
しかし、有名人の行動や公式SNSの投稿に関するコメントならまだしも、個人的な投稿に関する否定的なコメントはそうではないでしょう。
以前、ウチの奥様に「フェイスブックやインスタグラムは投稿しているのに、なぜツイッターは投稿をしないのか?」(実際にそうなので)と聞いたところ、「私は呟きたければ、言ってやりたい本人の目の前で呟いてやるからネット上に呟く必要がない…時間のムダ。」と言われ妙に納得してしまった。こういう人はある意味健全。
間違ったことを教えてあげるのは親切だけれど「言い方」もあるだろうし、答えは1つとは限らないことが世の中のほとんどだ。
先程、スピードスケートの小平奈緒選手がこんなツイートをしていました。
「ネットで繋がれる情報や言葉に救われる場合と、重くのし掛かる場合がありますよね。 時には自ら距離を置いてみることも必要なのかもしれません」
「長い道のりを闘い抜くため、私はマイペースの範囲を少し大きくとってみたいと思っています。 アスリートはやる気の塊。自分で落とし穴を作らないように。」
小平選手も最近私が何となく世の中に感じていることを同じように感じたのかもしれません。
まぁ、分かってはいるけど思わずいわば反射的に反論をしてしまう…なぜなのか?
まず1つは「承認欲求」によるものがあるでしょう。
「誰かに認めてもらいたい」「自分が優れていること、自分の個性についての他者からの賛同や称賛を得たい」、それが自分の存在価値だと感じている人もいるでしょう。
それは本来、社会活動の中や家庭内で感じるべきことなのでしょうが、色々なものに対する帰属意識が薄れている昨今、所属すべきまたは感じるべき輪がない。だから自分の価値観をネット上やとりあえず目の前にいる人にぶつけてみるという人が増えているのかもしれません。
自分の意見を社会や世の中に主張することはとても大事なことです。でも我々は社会、世界の中に所属していますが、決してその「中心」にいるわけではないのです。
そう、そういう人は簡単にいうと「かまってちゃん」なのです。
哲学者でアドラー研究の第一人者・岸見一郎氏は『100分de名著 アドラー 人生の意味の心理学』の中で「承認欲求」や「世界の中心に自分がいるという意識」から脱却するために以下の3つの方法を紹介しています。
1つ目は、他者に感心を持つこと。それは「自分だったらどうするだろうか」ということではなく、「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」…他人の立場や経験に立って考えてみること。
2つ目は、他の人は自分の期待を満たすために生きているわけではないことを肝に命じること。
そして最後の1つは、課題を分離すること。課題を分離するとは、あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、その責任を最終的に誰が引き受けなければならないかをよく考えること。
自分の「影響の関係」に注力すること、他の人を気にしない勇気、さらに言うとこんな状況だからこそ「何も反応しない勇気」が必要なのかもしれません。