『山と日本人』
宮本常一・著 八坂書房
「和魂洋才」という言葉がある。
江戸幕末、黒船襲来により開国を余儀なくされた我が国において、一気に流入する他国の文化、技術に対してどのように対応をしていくかとの議論の中で、松代藩士・佐久間象山は「東洋道徳・西洋芸術」という言葉で、熊本藩士・横井小楠は「堯舜孔子之道・西洋器械之術」という言葉で日本人が長く培った道徳心と西洋先進国の技術導入の融合による「日本らしい産業技術革新」の提案をした。
富国強兵政策の下、産業革命後の欧米の先進技術が我が国に導入され、以降この国は産業立国としての道を歩み始めるわけである。
とはいうものの、山村における人々の生活様式は、昭和30年代の初頭までは江戸時代後期と比較すると「革命」と呼ぶほど大きな転換となったわけではなく、あいかわらず慎ましやかと呼べば聞こえがいいが、依然として貧しい生活を送っていた。
高度成長期になると、車やテレビの登場により山村にも都市部の情報やモノが流入するようになり、道路等インフラや高速交通網の整備により、より利便性の高い生活や安定的な収入を求めて人々も都市部へ移るようになり山村の過疎化が進むようになった。
より便利、より快適な生活や文化を享受しようとすることは決して悪いことではないし、それが人の人たる由縁ではなかろうかと思うのだが、いつの間にか「和魂」「東洋道徳」「堯舜孔子之道」が忘れ去られ、我が国は単なる「安価高性能製品製造工場」になってしまったのではないかと感じてしまうのです。
この「和魂」「東洋道徳」「堯舜孔子之道」が忘れ去られてしまった原因は、長年この日本の風土に根差して培われた文化・生活様式が、効率性や収益性を理由に欧米の文化・生活様式にとって代わられたことにあるのではないかと個人的には思うのです。
例えば…皆さんは外出するときに何を履いていきますか?
多分、ほとんどの方が「靴」と答えると思います。しかし、よく考えると多分一般庶民みんなが普段使いで靴を履くようになったのは戦後になってからの話だと思います。
元々、多湿の地域の多い我が国では革製で足全体を包み込むような履き物は仮にあったとしても冬季の豪雪地帯でしか使われなかったはずです。
よく「靴の踵を踏むんじゃない」と小さい頃怒られた経験があると思いますが、家に入るときはいまだに履き物を脱ぐ生活様式の日本においては履き物の踵はとても邪魔、どうしても踏みたくなってしまうんです。
最近は踵が踏めるようになっている靴が登場したり、クロックスのサンダルを履く人が多いというのも日本の気候や生活様式にマッチしているからだと思います。
最新技術に対してもう少し「地域の風土」というものを優先していかないと、「日本の日本らしさ」が失われると思うのです。
「日本の日本らしさ」が失われるとどうなるのか?
かつての「日本らしさ」とは、先述した「安価高性能製品製造工場」。これが他の国でもできるようになったときにどうなったか…大企業の工場は中国を始めとするアジアの国々に移転し産業の空洞化ということを引き起こしいまもその状況は続いています。
国内製造業の不振と国内人口の減少による内需の低下をカバーするために、外貨の獲得を目指しインバウンドと騒がれる外国人の観光振興を現在進めているわけです。
外国人がなぜ日本にやってくるかといえば「日本だから」なんです。「日本の日本らしさ」が失われてしまえば日本に来る理由がなくなってしまうんです。
この本で紹介されている「山」というのは「山岳」ではなく「里山」。
田舎においては自然との関わり合いがそこでの生活様式や文化に大きな影響を及ぼしている。
「海外では…が当たり前。日本は遅れている。」とか「こんなことをしているから日本は」などという論調も目立つようになってきています。良いものは取り入れていくことも大切だと思いますが、何でもかんでも真似をするというのは「『らしさ』の放棄」に繋がることもあるということを考えなければなりません。
よく昔は「○○ちゃんは△△を買ってもらったのにウチは…」というと「ウチはウチ。○○ちゃん家は○○ちゃん家。」と言われたり、「○○ちゃんがやっているから」というと「じゃあ、○○ちゃんが死んだらお前も死ぬのか?」と言われたことありません?
風土や文化などにアイデンティティを委ねつつ、もう少し何事も「主体性」を持って事に臨みたいものです。
また最近は、クリスマスはもちろんのこと、ハロウィンなどの海外の宗教的な記念日に絡めて色々なイベントが各地で行われています。これらの行事は元々海外のある地域における信仰、風土に根差した行事であるわけです。
近頃はクリスマスが12月24日だと思っている人やハロウィンが何だか分からないけどキリスト教のお祭りだと間違って思い込んでいる人も多いようです。おめでたいといえばおめでたいですし、楽しければそれでいいって考え方も真っ向から否定はしませんが、自分が命と同じくらい大切に思っている人(この場合はイエス・キリストのことですが)の誕生日を間違えてお祝いされているなんて、信仰、文化に対する冒涜であると思われても仕方ないかなって思うのです。
何かとても大袈裟な話にしてしまっているようですが、「今自分がここに生きている」ということに対して、もう少しその「由縁」や「縁起」というものに思いを巡らせてもいいのではないかと思うのです。
近頃話題の「SDGs」、持続可能な開発目標。
環境に対する意識というのは、まず自分の住む場所の風土や歴史を理解しないと進んでいかないというのが私の考え。世界全体で同じことに取り組むのではなく、世界全体で同じことに向かっていく…具体的な取り組み方は歴史や風土によって千差万別。
相手を理解するにはまずは自分を理解しないと。
「世界に目を向けろ」といいますが、それは「自分(自国)に目を向ける」ということができるようになった人が進む、次のステップです。