『知られざる弥生ライフ』
譽田亜紀子・著 誠文堂新光社
私もそうなのだが「縄文時代好き」という人は結構お目にかかるが「弥生時代好き」というのはあまり聞いたことがない。
そのあたりはどこに理由があるのか?
今のところ分かっている「縄文時代」はかなり今とは異なる時代。後期は場所によっては稲作が始まっていたようだが、基本的には狩猟・採集による生活。縄文土器や土偶は現在の美的センスからすると摩可不思議なもの。
一方、「弥生時代」は稲作や定住が定着し「ムラ」と呼ばれるコミュニティが登場した。また、自分達のコミュニティの利益・利権確保のための「争い」が始まったのもこの時代であろう。
そう考えると何となく雰囲気が「今っぽく」なってくるというか「古代のロマン」的なものはちょっと薄れてくる感じがする。
しかし、この本を読み進めると、それまでは恵みというものは自然から一方的に享受していたものが、弥生時代から「人間と自然との付き合い」が始まったのだと気がつく。
「自然」というと手付かず、前人未踏の未開の地を思い浮かべる人もいると思うが、日本においては全く人の手が過去に入っていない場所は皆無であろう。
昔、国語の試験問題で読んだのだが、「あなたの好きな自然の風景は?」との質問に一番多かった答えが「秋、稲穂が実る田んぼに赤とんぼが飛ぶ光景」だったそうだが、「田んぼ」というのは自然ではなく人間の土木作業の代表格だと思うのだ。
そう考えると日本人の自然の「源」風景は弥生時代に始まるのではないかと個人的には思うのです。
もうひとつ興味を惹くのが「藁」。
お正月やお祭りの時の注連縄など神様に何かお供えするときの素材は必ず「藁」。いまだに「藁」。五穀豊穣が祈りの根底にあるから当然でしょ?って意見も一理ありますが、一方、履き物の素材も「藁」…神様に供えるものを足の下に敷くのか?…これが不思議なのであるが、この時代から「自然との付き合い」が始まったことにより「信仰」というものがより一層深まったのではと思うのです。
「藁」というのは産業廃棄物。それをつい昭和の中頃まで生活用具素材として活用していた。もちろんタダだから、もったいないからという考えがあったのだろうが、日本という風土に適した素材であったのではないかと推測するのです。
さらに先述した「もったいない」という考え方、長野県では「あるを尽くす」ともいわれる、素材を完全に活かしきる昔の日本人の姿勢は「SDGs?…何を今さら」の誉められるべき伝統習慣であったにも関わらず、開国~戦後の工業立国化によりいつの間にか国際的な場において「化石賞」を受賞する環境無配慮国に成り下がってしまった。
「藁」と「信仰」の関係を今後もう少し調べていきたいなと思うと共に、「自然との付き合い方」について、最近の先進国の動向よりも、もう少し自分の国の弥生時代~江戸時代の文化、生活様式から学ぶべきことがあるのではないだろうか?と感じさせてもらった。