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追憶のレモングラス

作: 沫雪


街から少し離れた丘の上にある屋敷からAIロボットの回収依頼があったのは、桜も散った春も半ばの日だった。

回収に向かった男がまず最初に目にしたのは、色とりどりに咲き乱れる花々に彩られた見事な庭園。入り口はどこかと探していると、「こんにちは」と涼やかな声がかけられた。

振り返ってみると、水やりをしていたのだろう、驚くほど整った顔立ちをした青年がこちらを見ている。

「あぁ、こんにちは。依頼されていたロボットの回収にきました。」

「あぁ!お待ちしていました。こちらへどうぞ」

そう言ってニコリとほほ笑んだ彼の顔はやはり美しく、まるで作り物のようだった。


案内されて入った玄関ホールには、庭から取ってきているのであろう切り花とフレームに入れられた数枚の写真が飾られていた。少しぎこちない表情をした青年と幸せそうに笑う一人の少女が写っている。

彼に付いて部屋の中まで入ってきてしまったが、肝心のロボットが見当たらない。きょろきょろとあたりを見回してみても、それらしいものはやはり見つけられなかった。

「あの、回収のものはどこに?」

こらえきれずに男が聞くと、青年は笑って答えた。

「私です」

「え?」

「私が、自分で回収を頼んだんです」

「…じゃあ、貴方は人ではなく…」

「AIロボットです。…いや、AIロボット“だった”というのが正しいですね」

少し長い話になりますが、と前置きをして、かれは一冊の手帳を差し出してきた。

「これは?」

「私が彼女―以前の主人に頼まれて付けていた日記です。これを読んでいただければ、私が言ったことの意味もお分かりになるかと」

“私は、彼女に恋をしてしまった、感情を持ってしまったAIロボットなんです”

穏やかなかれの声に誘われるように、男はページをめくり始めた。



2034年 4月17日

「人が誰かを忘れる時って、声から忘れるんだって」

あまりに天気のいい日だった。繰り返される日常会話の中で、ぽつりと彼女が言った。

「そうですか」

「声から忘れて、次に顔、感触と記憶から消されて最後は香りが残るみたい」

「…香り」

「そう、香り。香りと記憶って結び付きやすいんだって。なんだかロマンティックじゃない?」

「貴方が言うのならそうなのかも知れませんね」

「……もう少し気の利いた事、言えない訳?」

「そう言われましても。―あいにく、私は人間ではありませんから」

あまりに天気のいい春の日。風が彼女の髪を揺らして、甘やかな彼女の香りを運んでくる。

繰り返される日常の中の一つ。ここに記すのは、そんな日々の記録である。



2034年 4月25日

彼女が何やら嬉しそうに箱を差し出してきた。開けてみると、中には液体の入った小瓶が入っていて、何か柑橘系の鼻に残る香りがする。

「これは?」

「買ってきたの。いい香りでしょ?」

「はぁ…一体何のために?」

「貸して」

言うなり私から瓶を奪い取った彼女は、蓋を開けてシュッと謎の液体を振りかけてきた。

「な、何を…?」

「あなたの香り」

そう言う彼女の瞳は真っすぐで、視線を逸らすことも聞き返すことも得策ではないように思えた。

「今日からこれがあなたの香りだよ。あなたは私の事、ずっと覚えていられるのに私には思い出せるものが無いなんて、酷い話じゃない?だからこれは、私があなたの事忘れないようにするための魔法なの。この香りがする度に、私はあなたの事を思い出せる。それに、貴方だって私の事、ますます忘れられなくなるでしょ?」

悪戯っ子の様に笑う彼女はそれだけ言うと瓶を押し付けて去っていった。忘れられないも何も、私が彼女の事を忘れるなんて事起こるはずもないのに。

「爽やか」というのであろう香水の香りが辺りを漂っていた。


2034年 6月8日

彼女はあの香水を随分と気に入っているようだ。毎日のようにつけてくれとねだるものだから、消費スピードが速いように思える。一体何のためにつけろと言っているのか、私にはさっぱり理解が出来ない。

「あの、どうしてそんなにこれにこだわるんです?」

「前にも言ったでしょう?これは魔法だって」

「えぇ、そうですけど…正直なところ、これに一体何の意味が?私があなたを忘れることなんて、記録メモリが故障して深刻なエラーが出ない限りありえないのに。」

そう言うと彼女は少し笑って、「そうかも知れないわね」と言った。

「たしかに、貴方はロボットでこんなことは無意味なのかもしれない。けど、私言ったでしょう?これは、私があなたを思い出すための魔法だって。一方的なものでも、ただの口約束でも、こういう“無意味”な事が、人間には必要なこともあるのよ」


2034年 9月3日

最近、“感情”というものについて考える。彼女は常に笑ったり泣いたり怒ったりと忙しそうだ。私は感情というものを“知って”いるが、“理解する”事は出来ない。

「感情を持たないように見えるただのモノにも、ちゃんとこころはあるの。気づいていないだけで、全てのモノにはちゃんとそれぞれの意志がある。もちろん貴方にもね。貴方は物言わぬただのロボットなんかじゃない。言いたいことはなんだって言っていいし、やりたいことはなんだって出来るのよ」

ある日、彼女に言われた言葉だ。

もし仮に、本当に私にも感情というものが備わっているのだとしたら。

ヒトとAI(私たち)を隔てる物は、一体何なのだろうか?


2034年 12月18日

近頃、彼女の体調が良くない。一日中ベッドにいることも珍しく無くなってきた。数週間前までころころと表情を変えていた彼女は、今や横になって無表情で窓の外を見つめるばかりだ。その様子を見ていると、なにかがおかしいようなどこか不完全なもののように思える。これが“違和感”というものなのだろうか。

―彼女の笑顔が見たい。

気が付いた時には彼女のあの香水瓶を手に持ち、彼女に向かって吹きかけていた。

「どういう風の吹き回し?」

酷く驚いた様子の彼女は少し上ずった調子で声をあげた。彼女の顔に表情が乗るのも酷く久しいように見える。

「以前私に言ったでしょう、やりたいことはなんだってしていいと。その通りにしたまでです。この香りが好みの様でしたから、これで笑顔を見せてくれるかと。………間違っていたでしょうか」

そう口にすると、彼女はしばらく私を見つめた後くすくすと笑い始め、とうとう涙をながし始めた。

「いいえ、そんな、間違ってなんかいないわ。ただ、本当に驚いてしまっただけ。貴方がこんなことするなんて、夢にも思わなかったもの」

「そうですか。それは、何よりです」

「ありがとう。私ったら幸せ者ね」

そう言って優しく笑う彼女を見た瞬間に視界が変わった。彼女の周りは、こんなにも華やかだっただろうか?

世界はこんなにも色に満ちていただろうかと疑問に思う一方で、私の中の何かが変わってしまったような気がした。






「なるほど。よくわかりました」

男が手帳から顔を上げて告げると、青年―否、AIはそうですか、と静かに答えた。

「彼女の事を愛してしまったのだと自覚したのは、彼女がいなくなってからでした。皮肉なものです。私に感情や恋心なんて厄介なものを植え付けておきながら、私を置いて一人先に逝ってしまうのですから」

AIは左胸、人間の心臓がある位置を掴むように強く握りしめ、大きくため息をついた。

「彼女の事を思うたびにあるはずのない“こころ”が痛むようでした。今まで鮮やかだった世界が途端につまらなく見えた。灰色の世界で、悠久の時を生きていかなければならない事実に打ちのめされました。何度彼女を呪ってやろうと思った事か。そうして日々を過ごしていくうちに、気づいてしまったんです。」

男は何も言わずにAIの言葉を待った。目の前にいるのがただの壊れた機械ではなく、愛しい人への想いを募らせるただの一人の男にしか見えなかったのだ。

「忘れていたんですよ、彼女の事」

一滴の涙が彼の頬を伝った。あまりにも綺麗で、人間臭い涙だった。

「彼女の顔も、声も、手のひらの感触さえも忘れていたんです。唯一思い出せるのは、いつだったか彼女が私の香りだと言ってくれたあの香水の香りだけ。彼女の事を忘れるなんてありえない。だって自分はただのAIロボットで、記録が勝手に消されるなんてことはないはずで。こんなのまるで、まるで………人間じゃないか」

目の前で涙を流すロボットにかける言葉を、あいにく男は持ち合わせていなかった。

ただ、彼はもう何も知らない、ただあることだけを求められていた“モノ”には戻れないであろうという想いだけが、男の胸を締め付けていた。

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